アップデート
アップデート=正義のように捉えられている。「アップデート」を批判するとそれが即座にその完全な拒否だとされる。アップデートはするかしないかのどちらかだ、というような。しかし、アップデート概念には問題がある。これを批判することと、社会のマジョリティとして正義に基づきその債務を果たしていくことは両立するし、むしろ必要な両輪だ。 アップデート概念の問題点①:単線的な歴史観
最終的な目的地=テロスが最初から決まっており、それにただただ近づいていくというイメージは、現実にもマッチしていないし(歴史は単線的には進まない)、容易に「自分たちが考えるアップデートこそが正しい」との思い込みになってしまう。実際に正しければいいが、思い込みが思い込みでしかないケースなんて多々あり、それがむしろマイノリティに対して抑圧的に働くケースもある。
moriteppei.icon マジョリティが社会を変えていかなければと言うのはその通りなんだけど、「アップデート」という考え方や概念が非常に危険だという指摘は、マジョリティの責務とは別になされるべきことだと思うから、別に矛盾はしないと思うんだけど……。そこすら二者択一のように捉えられるのが「アップデート」ならアップデートという概念自体のアップデートが必要だと思うよ。単純に考えてもアップデートって基本的には「過去より現在、現在より未来が上位互換」という発想なのだから、単線的な歴史観を想定しやすい。そうした歴史観自体をアップデートしないとまずいでしょって話だってある。多くの社会でその社会のマジョリティが「アップデート」だと思ってしたことが抑圧であった歴史もあるわけで。だからアップデート概念に対する批判とマイノリティの権利を擁護する責務をまっとうしようとすることは矛盾するどころか両輪だと私は思うけど。 アップデート概念の問題点②:内面化プロセス=反省の省略
アップデートというコンピュータ用語は、外部のパッチ、更新プログラムを「インストール」するだけでいいかのような錯覚を与えてしまう。そこでは過去からの連続、内面での葛藤、それを自分のものにしていく内面化プロセスが容易に省略されてしまう。
パッチ、プログラムは決まっている。あなたはそれを「インストール」するだけ。インストールするプログラムが問題ないものであれば結果オーライだが、問題あった場合、そこに主体はないため、主体の選択は免罪されてしまう。正しい価値観や言動を否定するのはダメだが、かといって、正しいからといってそれを「外部からもたらされたもの」としてただただ無批判、無思考で受け入れる態度を取りつづけることで、そうした「とにかくそう言われてるから受け入れる」という他律化されたマインドセットを涵養することになり、それはファシズムや全体主義に容易にハックされる主体化と紙一重、というかそのものだ。 クドカンのドラマ、普段あまりドラマを見ない自分だがかなり楽しめた。 多分テーマが自分がいろいろ考えている部分と重なっていたせいもあると思う。 最終回の最後の「2024年当時の表現をあえて使用して放送しました」というテロップ、とてもアイロニーを感じて普段自分か感じている感覚を代弁してくれているように感じた。 最終回の表題「アップデートしなきゃダメですか?」の、「アップデート」という言葉、世間的な使われ方に実はモヤモヤ感を抱いていた。 「アップデート」という言葉は、修正をしていい方向にバージョンアップをするという意味だが、決して「正解」に近づいているわけではない。現状うなくいかない部分を直し、問題がないように変化させている行動だ。 世の中の価値観は変化はするが、それは共同体にとっての大きなコンセンサスの変化でしかなく、決して「正しさ」を示す指標ではない。時代や、場所、国が変われば、それは全く受け入れられないモノになってしまう可能性もある。故に「アップデート」出来ない人が悪で、できた人が正しい、と考えてしまいがちな世の中の風潮が、どうも受け入れられなかった。 「最近はこういうこと言うと怒られるんでしょ」。こうしたセリフがドラマでも漫画でも現実世界でもしばしば登場するのは、否定的に見れば「受け入れたくないのに受け入れさせられている」という文句を言っているだけのようにも取れるが、「自動化された倫理」に対する、主体のささやかな抵抗だとポジティブにも評価できるかもしれない。 コメカ.icon 価値観や倫理観の問題に対して、「アップデート」っていう「更新」のイメージや表現が持ち出されるようになったのって、どのあたりが起点になってるんかな? 持続的な内的成長みたいなイメージではなくて、OSやソフトウェアの「更新」みたいなイメージが持ち出されるようになったことの効果って、やっぱりあるよな。何がしかの価値観を内面化するプロセスが、過去からの連続性のなかでの自分なりの試行錯誤としてではなく、更新プログラムのインストールのようなものとして受け止められるようになってしまったというか。コメカ そしてもちろん、「アップデート」的な志向を粗雑に否定したがるようなアンチ・リベラル的言説の大概もまた、自己免罪的で自分自身を問い直すことがないものばかりである。過去からの自分の連続性をただだらしなく肯定していると、そういう横暴さに辿り着く。
結局、誰もが自分のセキュリティリスク対応ばかりしている。ぼくだってそう。コメカ コメカ.icon 過去からの連続性を「反省」しない、という態度を取るなら、それはそれでハードコアさが必要になるわけだ(それを続けているのが糸井重里。ぼくは彼のやり方を肯定しないけど)。 ぼくは「無反省」路線ではなく、抑圧的な野暮天として「反省」することを選んでいるつもりなんだけど、しかしそこで「アップデート」というイメージを持ち出すことにはやっぱり抵抗があるんだよね。
何がアップデートかはだいたい周囲の振る舞いを見ていればわかるので、それを要領よくコスパよく、情報として知ることができる。そしてそれがまだできていない「遅れている」人を一方的に断罪するだけの振る舞いに陥る危険性もある。