おもんないと正しくないは概念として区別すべき
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松本人志の件で過去のひどい言動が大量にネットに上がってきている。それらを倫理的に批判非難することはされてしかるべきだが、そこから「最近おもんなかった」「最初っからおもんなかった」と、倫理性の欠如を元に(ほぼ)すべてを「おもんない」と断罪する人が大量に出てるのがすごく気になってる。 「おもんない」と「正しくない」は論理的に独立なので分けて考察すべき。 理由1:そのほうが解像度が高くなる
二次元と一次元では二次元のほうが解像度高いのはどう考えても明らか。
理由2:「おもろい」には暴力性や非倫理性が構造的に深く根付いている
「すべて」とは言わないが既存の価値観に抵抗したり、一時的に転倒させるのがお笑いの大事なファクターの一つであり、その中には「その世界で倫理的とされてるものへの抵抗」もあるから。(もちろん抵抗しているものが本当に倫理的に正しいものであることも多々ある)
だからこそ「正しいのでおもしろい」だけではなく「正しくないがおもしろい」のような領域を残しておき、それをきちんと腑分け精査して批判しなければならない。
暴力性が強くあることを否定するのではなく、それを受け入れた上で、ではどのようにコントロールしていくか、つきあっていくかが重要になる。
もちろん暴力性がない、あるいは「極度に薄い」笑いもある。でも、それがすべてではないので.....。
理由3:「おもろい」から「正しくない」が肯定されてしまってる側面こそ否定されるべきだから
ダウンタウンはただただ「正しくない」を「おもろい」として提示したのではない
むしろ「正しくない」わけではないが「おもろい」を提示することにも圧倒的に長けていたので、「この人がやることは/考えることはおもしろいのだろう」と思わせており、その結果、本来ならばただただ「正しくない」だけのものまで「おもろい」だと錯覚させてしまっていたと言えるし、そのほうが適切な気がする。
「正しくない」から「おもんない」のではなく、「おもろい」こともたくさんしてるから、単に「正しくない」だけのことまで「おもろい」とされて「正しくないことではない」と許容されている。
「ダウンタウンなんておもしろくない」というときの「おもんない」には「正しくないので笑おうにも笑えない」という意味をこめている人が多数いるのはわかるが、上記の理由からむしろ概念としてこの2つは独立に把握したほうが、より鋭く細かく対象を批判できる、ということが言いたい。