「笑ってはいけない」は「笑わなければいけない」という意味
性加害の話があり、あれこれぐちゃぐちゃ松本人志やダウンタウンについては言われているけれど、ダウンタウンについて自分がずっと気になっていたのは、ダウンタウン、主に松本が、途中から「笑うこと」をゲームルール的に視聴者や共演者に強いていたことだ。 わかりやすいのは毎年年末恒例になっていた(今はやってるのか?)『笑ってはいけない』シリーズ。最初はガキの使い内での罰ゲームだった。なんかゲーム?賭けをして、その年、負けたほうが笑わせられる側。勝ったほうが笑わせる側になる。松本が浜田を、あるいは浜田が松本を必死になって笑わせる、そして他方は絶対に笑わないように全力を尽くす、っていう。目の前の笑わせるための仕込みとともに、その攻防というメタゲームも視聴者は同時に楽しんでいた。 ところが、これが番組の都合なんだろうが、ある時から罰ゲームとか関係なく、松本も浜田も、ダウンタウンそろって最初から「笑わせられる側」として画面の中に登場するようになる。こうなると何のために「笑ってはいけない」なのかが全然わからないというか、なんでこの人たちは「笑ってはいけない」という責苦を負っているのかが視聴者には(実は)全然わからない。松本も浜田も何もしてなくても毎年年末は笑ってはいけないし、笑うと尻を叩かれるのである。
そしてそれは結局のところ、「笑ってはいけない」が「笑わなければいけない」と機能的にはまったく同じ意味になっている、ということだったりする。だって、年末の特番内でタレントが笑わないわけにはいかないでしょう。「笑ってはいけない」は「ダウンタウンという、笑いにとてもストイックで厳しい、芸人の最高峰が、笑ってはいけないのにそれでも笑ってしまう。それくらいおもしろい番組なんです、笑ってね、っていうか、これで笑えないとか感性大丈夫? 笑えよ」=「笑わなければいけない」なのだ。
「笑ってはいけない」が成功したからだろう。その後も「笑ってはいけない」圧をかけた番組を松本人志は「プレゼンツ」していくことになる。Amazon primeで配信された『ドキュメンタル』シリーズとか。たくさんの芸人が100万円を自腹で出し、レースに参加。笑った人間から脱落。最後に残った一人が掛け金をすべてゲット!という企画なのだが、これも要するに「(賞金がほしければ)(そして相当な高額なのだから賞金はほしいに決まっているのだが)笑ってはいけない」、つまり「それでも笑うくらいおもしろいんだから、笑わなければならない」である。 『人志松本のすべらない話』もそうだろう。一見、これは話し手にとって高いプレッシャーのあるシチュエーションのようだが逆である。「すべらない話」という番組が成立しているということはつまり「すべらない話をオレは今してる」=(番組出演者のお前らは)「笑わなければいけない」だったりする。 「大ウケする話」でないところもミソで、めちゃくちゃウケる話ではなくすべら「ない」(否定系)話でさえあればいい。これはハードルを高くしているようで低くもしている。松本人志の「プレゼンツ」は「笑うことと笑わないこと」との間に厳然とした線を引く。そこに固執する。そのため、不条理なほど極度にストイックでシビアな世界をこちらに想起させるが、実はそれは「笑い」さえすればすべてが得点になる大甘な世界だとも言える。一段でも十段でも飛べたなら跳び箱。一緒のことやどちらも合格やと言われたらどうか。
『笑ってはいけない』や『ドキュメンタル』のような「笑ってはいけない」系の番組は、「笑うのを必死に我慢している」と「そもそもまったくウケてない」状態のどちらも「笑っていない」としてカウントする。これもつまりその2つの間にある差異をつぶしているのである。解像度を低くすることによって、わかりにくくしてる。気づかなくしてる。「ウケてない」ことを。
松本人志は昔『一人ごっつ』やそこでの「24時間大喜利」などで「ただ一人、笑いだけを追求し、常に24時間、限界ギリギリを攻めて勝負してた」イメージがある。確かにその時の松本は「攻めていた」。youtubeなどで当時放送された番組を見直してみると、寺で一人、次から次へと来る大喜利のお題に、「まっちゃんだから絶対笑わせてくれる」「どんなもんだろう」を期待して集まってる人たちを前にして、回答していた。そして当たり前だけど、たくさんスベってる。「高速道路で脇見渋滞1000km 反対車線で起きている出来事とは?」のお題に「ミッキーが轢かれていた」と回答し、ほぼほぼウケてない。別に大喜利だし、お笑いやってるんだから、ウケないときだってスベるときだってあるよ。それでいいのになあ。 そして、松本のその「笑いの求道者」というストイックイメージを引きずったまま、その後の「すべらない」「笑ってはいけない」系企画が実現している。そのため「笑ってはいけない」は「笑わなければいけない」という、視聴者に対する構造的な押し付けになっていることがあまり気づかれていないのではないか。
中川家のコントに「時代警察」というシリーズがある。これは「今の時代、そんなこと言うたらあかん」ということを言った人を取り締まる警察が出てくる「ポリコレをネタにしたコント」なのだが、その中で「おもろい話あってん」という振りをした会社の上司が取り締まりを受けている。 松本人志や「ダウンタウン的なもの」はまさにこの「おもろいことあってん」と部下に言う上司とまったく同じになってしまっている。これこそが「最近のダウンタウン/松本人志はつまらない」の根幹なのではないか。
個々のボケやツッコミを見れば、松本人志やダウンタウンはそれでもまだ全然おもしろい。「そこでそこに食い込むか?」というひらめきや勢いは今でも十分に天才だろう。倫理的に問題だからとそこを否定しても仕方ない(また別の場所で書くが、無根拠な「ダウンタウンはおもんない」という否定は問題の構造を見えなくしてしまう危険性すらある。おもんないと正しくないは概念として区別すべき)。だけど「笑ってはいけない」と言いながら「笑い」を強要してこられると、視聴者は笑えないし、演者も(すべりにくくはなっても)笑わせにくいのである。 https://youtu.be/5rX5zxS8kOc?si=LrzCV82DpDreWpwm
そんなないって意外とおもろいことなんか。芸人は芸人で必死でつくりだしてるんやから。そんなないって毎日そんなおもしろいこと。/ (すべらない話とか)一生懸命考えてんねん。一を十にしてんねん。 なんでつっこまなあかんねん。あかんでつっこめよ言うの。
おもろいこと言えよはあかんで。おもろいこと言えなくなるから。なんかある?くらいにしとかんと。
中川家がコントにしている「上司のお笑いパワハラ」、ここでの上司とはダウンタウンの松本人志そのものではないか。そういう意味でとっくに松本人志はお笑いにおいても「パワハラ上司」なのである。