説明すべき事例群
ナナイにならって、描写内容の理論が説明すべき画像の事例を示しておこう。
こうした種類の画像の描写内容を明確に分析して記述できなければ、理論としては不十分である。
🐪 1. デフォルメ・白黒・ラフスケッチ
デフォルメ(様式化)
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/masa10xxxxxx/20170424/20170424223734.jpg
五十嵐かおる『いじめ』の有名な例
ある意味で極大の目が描かれていると言えるが、一方で本当にそのような大きい目を持っていると解釈するのはおかしいとも言いたくなる。
参考:
近い話:
白黒画像
https://intojapanwaraku.com/wp-content/uploads/2017/10/69af21c0253c5535ca499b3f335d0dde-620x329.jpg
雪舟《天橋立図》
加工されたカラー写真は(被写体の色に関して)「嘘をついている」としてしばしば非難されるが(最近の例)、白黒写真に対して「嘘をついている」などという指摘は普通されない。 つまり、白黒写真は白黒の光景を描写しているという解釈は普通されない。〈物の形や明度についてある程度確定的に描写しているが、色相や彩度については不確定なまま済ませている〉というのが標準的な解釈になると思われる。
手描きの絵についても同様である。水墨画が実際に白黒の風景を描いているなどとは普通考えない。
しかし一方で、目で直接に見て取る内容は、モノトーンで静謐な風景だと言いたくなる。
ラフスケッチ
https://d3d00swyhr67nd.cloudfront.net/w1200h1200/collection/BRM/BIFA/BRM_BIFA_36_6_1-001.jpg
ティントレットのドローイング
見て取れる内容としては、体が部分的に透けているように見える、輪郭線が何重にもなっているせいで腕の輪郭がはっきりしない、といった特徴を持つものがたしかに描かれている。しかし一方で、そうした〈半透明かつ多重の輪郭を持った人物〉が描かれた絵だという解釈はおかしいとも言いたくなる。
「ホプキンスの言い方では、「われわれは筆跡(mark)のもとに幾つもの異なる輪郭を持った腕を見る。しかしわれわれはそれをけっして絵の表象内容とは受け取らない」。」(清塚『フィクションの哲学』p. 244)
分離
以上の例に見られるような「描写内容が2つある」と言いたくなる現象は、描写の哲学において「分離(separation)」と呼ばれることがある。
勉強用の文献:
清塚邦彦『フィクションの哲学 改訂版』勁草書房、2017年、7章
🐪 2. 何だかわからないものの絵
https://static.wixstatic.com/media/d446f0_3bc0c535974846cc951b013b2fa907d8.png/v1/fill/w_566,h_512,al_c,lg_1,q_95/d446f0_3bc0c535974846cc951b013b2fa907d8.webp
https://static.wixstatic.com/media/d446f0_3f17ddc78dac4de1ab965dc49c2994ca.png/v1/fill/w_566,h_416,al_c,q_95/d446f0_3f17ddc78dac4de1ab965dc49c2994ca.webp
https://static.wixstatic.com/media/d446f0_24a16aea3c6b48ed934d9cc182ba3527.png/v1/fill/w_285,h_207,al_c,q_95/d446f0_24a16aea3c6b48ed934d9cc182ba3527.webp
『ヴォイニッチ手稿』のイラスト
三次元的な形状と色はある程度見て取れるが、それが「何」なのかが言えないケース。つまり、描写内容を概念化できないケース。
これは、対象が何であるかを把握する再認能力が働いていないという面もあるだろうし、描かれているものについての手がかりがないせいで推測すらできないという面もあるだろう。
ある種の抽象画
https://www.tate.org.uk/art/images/work/T/T03/T03256_10.jpg
ハンス・ホフマン《Pompeii》
ある種の抽象画もこれと同種のケースとして語られることがある(上のハンス・ホフマンの作品はウォルハイムが出している例)。
ウォルハイムによると、この種の絵は、純粋な二次元の表面しか見えないというわけではなく、奥行を伴った三次元のものが見て取れるという(つまり〈うちに見る〉知覚が生じる)。そのかぎりでは、描写内容はたしかにあると言える。しかし、それが何を描いているのかはわからない。
比較:
キュビズムなどは、むしろ何を描いているかがわかるケース。なので、上記の様式化の事例に入る。
🐪 3. 肖像画とトシテ描写
肖像画
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/31/David_-_Napoleon_crossing_the_Alps_-_Malmaison1.jpg/655px-David_-_Napoleon_crossing_the_Alps_-_Malmaison1.jpg
ダヴィッド《サン゠ベルナール峠を越えるナポレオン》
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/40/Napoleon_in_His_Study.jpg
ダヴィッド《書斎のナポレオン》
画像には、大きく分けて、〈不特定のものを描く画像〉と〈特定の個体を描く画像〉がある。たとえば、🍎は、何か特定の個別具体的なりんご(that apple)を描いているわけではなく、不特定のりんご(an apple)を描いている。
肖像画は、特定の個体を描く画像の典型例。そこで描かれる特定の個体は「主題(subject)」と呼ばれることが多い。上のダヴィッドの作品は、ナポレオンを主題とする絵である。
https://www.lib.pref.ibaraki.jp/guide/shiryou/digital_lib/valuable_m/001051355335/001051355335.jpg
蓮田市五郎《桜田門外之変図》
特定の人物というよりは、特定の個別的な出来事(事件など)を描く絵もある。これも描写内容が特定の個別具体的な事柄を主題にしているという意味では、肖像画と同じ種類だと言ってよい。
主題は明らかにあるが、まだ判明していないケース
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/76/Minamoto_no_Yoritomo.jpg/804px-Minamoto_no_Yoritomo.jpg
《伝源頼朝像》
肖像画なのは明白だが、誰の肖像画であるかが判明していないという事例はしばしばある。これは上記の〈何だかわからないものの絵〉のケースとは違う。
たとえば、上のいわゆる神護寺三像のひとつである《伝源頼朝像》は、誰の肖像であるかはわからないとしても、何を描いているかは明確に概念化・再認できる。 Wikipediaから引用:
「三像とも束帯姿で、黒色の袍(ほう)を着用し、冠を被り、笏(しゃく)を持って威儀を正し、太刀を佩用する。伝頼朝像、伝光能像は足には襪(しとうず)を履くが、伝重盛像の足は現状では見えない。足の上あたりに見える細長い布は太刀の平緒である。袍の文様は、伝頼朝像が輪無唐草文、伝重盛像、伝光能像が轡(くつわ)唐草文である。太刀は、伝光能像では柄(つか)部分が剥落しているが、伝頼朝像、伝重盛像のそれは、柄の形式から毛抜形太刀であることがわかる。有職故実的な検討から三像とも四位以上の公卿であり、武官であることが判明している。」
この絵を、肖像画としてではなく〈不特定なものを描く絵〉として見るかぎり、不明な点はほとんどない。一方で、ヴォイニッチ手稿の絵は、〈不特定なものを描く絵〉として見ても何の絵なのかがはっきりしない。
トシテ描写
https://www.napoleon.org/wp-content/thumbnails/uploads/2006/01/t5_09ter_napoleon_fontainebleau_full-tt-width-637-height-911-crop-1-bgcolor-ffffff-lazyload-0.jpg
ドラローシュ《フォンテーヌブローのナポレオン》
当然ながら、同じ主題を描く場合でも、その主題を〈どのような特徴を持つものとして描くか〉という点でいろいろな描写内容がありえる。たとえば、上のドラローシュの作品の上掲のダヴィッドの作品と同じくナポレオンを主題にしているが、どのような特徴を持つものとしてナポレオンを描いているかという点で違っている。
ダヴィッドの絵
主題:ナポレオン
主題に帰属される特徴:山岳地帯にいる、馬に乗っている、帽子をかぶっている、右手を挙げている、etc.
ドラローシュの絵
主題:ナポレオン
主題に帰属される特徴:部屋の中にいる、椅子に座っている、ぽっちゃりしている、髪の毛が薄い、etc.
グッドマンは、このような〈何か特定の個体をしかじかの特徴を持つものとして描く〉という画像表象のあり方を「トシテ描写(representation-as)」と呼んでいる。グッドマンによると、以下のような風刺的な画像もトシテ描写の事例である。
https://scrapbox.io/files/6191295baab9e80021d08bb1.png
第二次大戦中に英タブロイド紙に掲載されたSidney Strubeによる風刺画
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/37/Les_Poires_cropped.jpg/996px-Les_Poires_cropped.jpg
ドーミエ《ルイ・フィリップ洋梨王》
Strubeの絵
主題:チャーチル
主題に帰属される特徴:グレートブリテン島の上にいる、人面のブルドッグである、「GO TO IT」と書かれたヘルメットをかぶっている、「No. 10」と書かれた首輪をつけている、etc.
ドーミエの絵
主題:ルイ・フィリップ
主題に帰属される特徴:洋梨型の顔である、なんなら顔がついた洋梨である、髪の毛と見せかけて葉っぱである、目がハの字である、etc.
🐪 4. 主題とモデルの食い違い
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2c/Rembrandt_Harmensz._van_Rijn_016.jpg/766px-Rembrandt_Harmensz._van_Rijn_016.jpg
レンブラント《ダビデ王の手紙を手にしたバテシバの水浴》
たいていの肖像画はモデルと主題が一致するが、特定の個別者を主題として描くときに、それとは別の個別者をモデルとして採用するケースもある。
たとえばレンブラントは、バト・シェバを描く際にしばしばパートナーのヘンドリッキエをモデルにしたらしい。
それが正しいとすれば、この絵の主題は聖書に登場する特定の人物だが、この絵のモデルは18世紀のオランダに生きた特定の女性である。つまりこの絵は、少なくとも作者の意図としては、〈ヘンドリッキエをしかじかの特徴を持つものとして描いた絵〉ではなく、〈バト・シェバをしかじかの特徴を持つものとして描いた絵〉である。
https://coin-walk.site/S000.files/S129A1.jpg
日本銀行改正兌換券(200円)
戦中に発行された日本銀行改正兌換券(200円)は藤原鎌足の肖像を採用しているが、モデルは松方正義だという。
キヨッソーネによる有名な西郷隆盛の肖像画は、実は大山巌と西郷従道をかけあわせて描いたという話もある。
🐪 5. なぜ理論があったほうがいいのか
描写内容の理論に求められるのは、こうした複雑なケース(描写内容はこれこれだと一言で言いづらいケース)の描写内容を分析・記述するために使える概念群を用意することである。
ここで挙げたような画像のあり方を十分に整理したかたちで理解し、明確な言葉で言い表したいというニーズがあるかぎりで、そうした理論には明らかな有用性がある。
ここで挙げた以外にも、もっとさらにいろいろな種類の複雑な画像のあり方があるかもしれない。理論がそうした新しい事例を十分に説明できなければ、また理論の改定が求められることになる。