美学のメタ的性格
Q. 今回の講義を通して身近に存在する分析美学を考えてみた。TwitterのLike欄やPixivのブックマーク欄にはさまざまなイラストが並んでおり、それらにLikeをつける時にいちいちどうしてLikeをつけるのかとは考えてはいないが、それらを一覧として眺めた時になんとなく構図、色の塗り方、イラストレーションされる場面に共通点があることがわかった、という経験を最近した。それらがどうして美しく感じられるのか、何を表していることが良いとされるのかを考えたという点では分析美学だったかもしれない。
Q. 分析美学がどのようなものであるか初めて知ったが、「美的なもの」という感覚的なもの(講義では「センス」という表現もされていたが)を学問として扱うのは難しいのではと感じた。
A.
(以下の内容は美学入門の初手です。一般向けの入門書にはだいたい書いていると思います。)
あるものが美しいと言われるとして、その理由の中身(なぜそれが美しいか)を考えることは現代的な意味での哲学的美学(分析美学を含む)の仕事ではありません。それは批評の仕事であり、美的判断の実践者の仕事です。あるいは研究としてやるなら、いわゆる感性工学や官能評価の仕事かもしれません。
美学の仕事はむしろ、「~は美しい」「~は美的に良い」といった判断の理由づけや正当化のあり方の独特さ(ほかの判断とどう違うか)を考えることです。その意味で、美学は批評や美的判断の実践に対してメタなポジションにあります。美学が「メタ批評」や「批評の哲学」とも言われるゆえんです。
メタ批評としての美学
ついでに言えば、美学は分野としての確立以来(少なくともカント以来)、「美的な良さの理由は、一般化できるものではない」言い換えれば「「xがこれこれの性質を持つならば、xは美的に良い」という一般的な条件を提示することはできない」という考えをオーソドックスな共通見解として奉じてきました(例外的にその見解に反対している人もいますが)。
というわけで、「分析美学は、個々の美的な良さや作品の価値の理由を探すもの/明らかにするもの/分析するもの」みたいな理解は、端的に誤解です。
ただし、分析美学のトピックをいろいろ勉強した結果として、個々の美的良さに気づいたりその理由を言語化したりする力が身につくことはあると思います。
名前の問題
実際のところ、分析美学に対するこういう誤解はあとを絶ちません。
これはおそらく「分析美学」という名前のせいだと思いますが、分析美学の「分析」は「美や作品の要素を分析すること」という意味ではありません。たんに「分析哲学」の「分析」を名前として引き継いでいるだけです。
ちなみに「分析哲学」の「分析」はもともとは「概念分析」の「分析」ですが、これもいまや名前と実態がまったく見合っていません(分析哲学者は概念分析だけをしているわけではない)。
さらに「美学」という語も俗に「美意識」の意味で使われるので(e.g. 「男の美学」)、それも誤解に拍車をかけているのかもしれません。