第8回リアぺのQ&A
🐪 画像のリアリズムの基準に関して
Q. 正確さと情報量のトレードオフの関係というのがイメージしづらかったです。具体的な例など挙げてくださるとうれしいです。
Q. 正確さと情報量がトレードオフの関係にあるということがよくわかりませんでした。何か具体例はあるでしょうか。
Q. 情報量の多さと正確さは必ずしも比例しないというところがよくわからなかったのですが、たとえばどのような例がありますか。
A. カルヴィッキが想定しているのは、内容の正確さを維持しようとした結果、画像表面の要素を無視する(これは前回話した内容だと第3の基準に相当しますが、カルヴィッキは実質的に情報量の話として考えています)というケースですね。逆に言うと、画像表面の要素をすべて描写内容を持つ有意味なものとしてカウントしてしまうと正確さが犠牲になってしまうということです。おそらくデフォルメが強い似顔絵などが具体例になるかなと思います。
Q. リアリズムの3つの考え方のトレードオフの関係についてですが、例えば、電子顕微鏡で見た小さな細胞の画像(例えば細菌の顕微鏡画像)は具体例として適切でしょうか?その画像から得られる情報量は肉眼で見る場合より圧倒的に多くなりますが、いじわるな言い方をすると肉眼でその細菌を眼にした人はいないのだから正確性が高いとは言えないような気がします。
A. 近い話ではあるでしょうね。同じ方向でよりカルヴィッキの議論に近い事例を考えると、テレビの解像度が上がりすぎると、普段の肉眼で見える以上の情報が見えてしまって(毛穴とか)逆に本当らしくなくなるみたいな話だと思います。
Q. 画像のリアリズムにおいて、真偽とは異なる段階という話でしたが、それは画像の目的と関係の深いことかもしれないと感じた。例にあがっていた法廷画は「嘘をかかない」「その人らしさ」が分かることが目的で、「配置を正確に再現する」デッサンとは異なるということ。絵でなくても、例えばモノマネ芸人の場合は「似ている」と感じさせる目的で多少正確性を欠いてもデフォルメされるし、笑いをとる目的でデフォルメされることもあるので、画像に限る話ではないと感じた。
A. その通りだと思います。今回時間がなくて説明から省きましたが、正確さ(おそらく情報量についても)の判断において関連性(relevance)が重要になるという議論もあります。この場合の「関連性」は目的とおおむね同じと考えてかまいません。どういう目的が背後にあるかによって、〈目的に関連するかぎりでの正確さ〉や〈目的に関連するかぎりでの情報量〉というかたちで評価が変わりうるということです。
Q. 正確さと情報量がしばしばトレードオフにあるという点が興味深かったです。私はトレードオフというよりも、リアリスティックかどうかは「この程度の正確さにはこの程度の情報量、この程度の情報量にはこの程度の正確さ」といったように適切な程度が互いに決まるような印象があります。そしてその程度は右上がりになっているわけではないという点で、トレードオフというような表現をしているのではないかと思いました。
A. そういう感じかもしれません。少なくとも互いに独立の変数ではないということでしょうね。加えて、ひとつまえのコメントにあるように、文脈ごとに関連性(目的)が違っている結果、リアリスティックの判断が文脈ごとに変わるということもあるように思います。
Q. 画像のリアリズムの3つの考え方のうち、「正確さ」が最も妥当であるように感じました。ただ、選択肢①と②の違いがよくわからず、いずれにせよ対象の実際の視覚的情報(ないしは想定される見た目)と画像表面から見て取れる視覚情報の一致度のことを表しているのではないかと思いました。また、「情報量」という考え方においては、例えば同じ画像であっても画素が高い方がよりリアリスティックであるように感じられ、これは「情報量がより多くなる」からだと考えて良いのかと気になりました。
A.
選択肢①と選択肢②の区別は自分でもよくわからなくなっています。その点で何かしらの区別はしたほうがいいという考えは引き続きありますが、いまのところ明確に言語化できないですし、区別したほうがよいことを示す具体例もとくに思い浮かんでいません。なのでとりあえず忘れていただいて、書いておられる通り、選択肢①の方向で考えていただいて大丈夫です。
情報量と解像度の関係については、少なくともカルヴィッキの考えではひとまず別のこととされていると思います。カルヴィッキが言う情報量は、直接的には、描かれる内容がどれだけ細かいか(豊かか)ということであって、描くもの(画像表面)の解像度の話ではありません。とはいえ、写真やモニターが典型ですが、解像度が上がれば上がるほどその分内容もリッチになる傾向にはあるでしょうし、カルヴィッキもそれを認めているはずです。なので、解像度が高いほどリアリスティックに思えるという経験は、情報量が多いケースとして説明してよいと思います。
Q. 実際にリアリスティックであるかどうかと、リアリスティックだと感じられるかどうかの区別はどうつけるのかが気になりました。もとい、その区別がどの理論で説明されるのかということです。リアリスティックだと感じるかを正確だと感じるかどうかとするならば、「実際には正確ではないが二次元に落とし込んだ際にそうしないと正確に見えない」ものをどうするのかということです。例えば、これは特撮の実写映像なので例として不適切ですが、ウルトラマンの登場シーンで、ウルトラマンが拳を突き上げてそれを真上から見ているシーンがありますが、あの画像での拳は実際に人が手を突き上げて真上から撮ったものよりも大きく作られ、そうでないと拳を突き上げているように見えないそうです。こういった例は、今日説明された理論のうち、どれで説明されるのでしょうか?
A. この授業ではその問題はほぼ取り上げていませんが、リアリズムの問題にかかわらず、描写という現象を経験レベルで考えるか、何らかのかたちで客観的に判別可能な事柄のレベルで考えるかは、論者や論点によってけっこうまちまちです。個人的には、少なくともリアリズムの話は基本的にすべて経験の話でいいと思います(なので人によって個別事例についての判断が違っても何も問題ない)。そう考えるかぎりでは、ここでの「正確さ」は客観的な正確さではなく、見る人が正確であると思うかどうかの問題です。ただし、リアリスティックか否かを、当の作品が実際に持つ性質として言えるかどうか(あるいはそうした性質帰属が正当化されるかどうか)といった話になると、鑑賞規範の問題(その作品をどう鑑賞すべきか)が別途出てくると思います。その場合は、たとえば理想的な鑑賞者(👉 ウォルハイムの〈うちに見る〉説)のような、なんらかの「適切な」能力を備えた人の判断が「正しい」という考えかたをする必要があるかもしれません。 余談:ウルトラマンの例に近いもので古典的な話としてあるのは、建築におけるエンタシスですね。
とりあえず概要としてウィキペディアを貼っておきますが、研究はそれなりにあるトピックだと思います。
Q. 画像の、特に絵やイラストのリアリズムについてですが、画像のリアリズムの3つの考えかたのうち特に一つ目の正確性に関して、現実のものを描く場合でもまずそもそもどのような状態で描かれていれば「正確」なのか、という視点が授業ノートにもリンクされた日本語のまとめ記事にもあまりないのがきになりました。目で見えるように描いてある=正確だという風には少なくとも一般には言われておらず、目で見てもそうはみえないだろうけども写真を想起させるような絵も「写実的」と言われることが現実には多いと思います。(新海誠作品のカメラ的演出が「リアルだ」と評価されたりするのが一例となるでしょうか)逆に、目で見たものを写し取ろうとする絵としてはデッサンがあるかと思いますが、こちらでは逆に方法論として「実際には見えなくてもらしくするためにうそをつく」みたいなことが言われたりします。目で見えるように写さ「ない」ほうがリアルに見えるという場合があることも考えるべきではないでしょうか。どちらもかなりリアリズムな画像の話なので切り捨てていい誤差のようなものかもしれませんが、正確性の議論における「視覚的側面」や「一致度」について考える余地があるのではないかというのが私の考えです。
A.
難しいですね。ひとつまえの回答で答えになっているでしょうか。この件については積極的な答えを用意しているわけではないのですが、分析美学者よりは現象学者が好きそうな話だなと思います。
分析美学者の一般的な傾向から言えば、正確さの測定基準(もしあるとして)を明らかにする以前にわれわれはすでに正確さの判断とその共有をすることができるので(美的判断がそうであるのと同じように)、そのかぎりで基準ぬきに〈正確さ〉という概念を使うことには何も問題ないと考えるのが普通な気がします。その測定基準(もしあるとして)を調べたければ認知科学をすべし、くらいの話でオチをつけるということです。
説明対象の外延(「写実的」が指す具体例)がそもそもずれているという指摘であれば、そうかもしれません。その場合は言葉づかいの問題をまず解決したほうがいいという話になると思います。
Q. 制作者が正確に描いたつもりでも、他の人からするとリアリスティックに見えない場合もあるのでしょうか。虹が何色かは文化圏によって違うと聞きますが、例えば我々が虹を「見たまま正確に」描いたとしても、ヨーロッパの人が見たら違和感を覚える事がありうるのでしょうか?そもそも虹の色はグラデーションになってるので「何色」と切り分けること自体がデフォルメ的かも知れませんが。
A. いくらでもあると思います。ただ一定程度文化相対的ではあるとしても、どこまで文化相対的なのかははっきりしません。一般的な話として、20世紀の論者は基本的に文化相対性をむだに強調したがるので、それは割り引いたほうがよいです。
Q. ある程度写実的な絵同士で比べる場合は必要だと思いますが、少なくとも写実的かデフォルメされているかを区別する場合、うちに見る内容と認識内容の比較は関係が無いと感じます。その絵に対する認識が得られる前でも、それがデフォルメ調かリアル調かは分かるからです。
A. その通りでしょうね。カルヴィッキも個別の作品以前の「種類」のレベルでリアリスティックかどうかを判断できる面もあるという話はしています。それがリアリズムの基準の3つめに相当するのですが、そこの記述が難しくていまいち理解できていない結果、前回の授業で微妙な説明になってしまったかもしれません。
Q. 画像のリアリズムの「正確さ」について。ドラゴンの例の「難点の回避方法」は、本当に難点を回避できているのだろうか、と思った。①は、そもそも〈われわれが想定しているドラゴンの見た目〉自体人によって微妙に違ってきそうなあやふやな定義であるし、②ではそれは「リアリスティックなドラゴンの絵」というより「リアリスティックな爪(皮膚など)の絵」になってしまうのではないかと思う。でも、ドラゴンの絵を見て「リアリスティックだ」と感じることはある。どう説明づければいいのか難しいところ。
A. おっしゃる通りですね。実際、フィクショナルキャラクターについてのリアリズムの判断は説明が難しいですし、とくに定説があるわけでもないので、考えてみてください。
Q. 画像のリアリズムの基準「(C) 統語論的に有意味な性質の多さ」に関して、「有意味な性質の多さ」や「無視される要素がどれだけ少ないか」というのは、有意味な性質や要素の絶対量が多いor少ないという話でしょうか?それとも有意味な性質や要素の割合が多いor少ないという話でしょうか?1文目は絶対量の話で、2文目は割合の話をしているように思えます。
A. あまり考えていませんでした(カルヴィッキも考えてないと思います)。どちらかと言えば割合でしょうね。いずれにしても、ほかの画像と比べた場合の「相対的な多さ」になると思います。
Q. 講義内で、カルヴィッキによる画像のリアリズムの三種の特徴付けが紹介されましたが、そのうち一つ目の「正確さ」について疑問が生じました。例えば、海、滝のような水や、炎など、常に動的で変化を続ける対象物について、カルヴィッキのいう「正確さ」を持つ画像を描くなら、流動的な対象のコンマ一秒の瞬間を切り取り、その視覚的側面と一致するようにしなければならないということだと思います。しかし、実際にそのような描き方をされた画像にリアリスティックさがあるかと言われると微妙な気がします。動的なものは動的なままに描いてこそリアルだと私は感じるのですが、この点をどう説明するのか疑問に思いました。
A. 非常に難しい話ですが、実際はともかく「想定されている見た目」ですべて処理してしまうのはひとつでしょうね。その場合、たとえば写真の登場以降で動いているものの瞬間的な形状をとらえられるようになった結果、「想定されている見た目」が変化し、正確さの基準も変わったという話になると思います。
Q. ここで言われている「正確さ」を考えるときには、鑑賞者の「世界に何が存在するかについての知識」が完全であるという前提に立っているのでしょうか。「間違ったタヌキの絵をリアリスティックだと思っている人」と「間違ったタヌキの絵が現実のタヌキの姿とは異なると知っている人」の視点がごちゃ混ぜになっているような気がして、うまく理解できませんでした。
A. とくにそのような前提はないです。ただ特定の絵がリアリスティックだ(あるいはリアリスティックではない)という判断を正当化しようとすれば、完全かどうかはともかく判断者の知識の有無は重要でしょうね。タヌキの絵の例については、描かれている主題が〈タヌキ〉なのか〈タヌキと見なされている何か〉なのかという区別を設定して説明したほうがいいのかもしれません(2つ下のコメントを参照)。
Q. 「認識内容から引き出された想像」や「認識内容の視覚的側面」というものは、認識内容の非視覚的側面(言語的側面?)に対応する「ある概念のプロトタイプ」のような理解でいいでしょうか?(イメージ:「特定のうちに見る内容(図像)」→「「たぬき」という言語的認識内容」→「典型的たぬき像(図像)」、グッドマン的に言えば最初の矢印が「例示」、後の矢印が「指示」を示していると思います。)
A. プロトタイプに近いというのはそうですが、タヌキの図像ではなく、タヌキの個体が想像されるというプロセスを想定しています(「図像」という語の用法がよくわかっていませんが)。絵を見る人が、描かれたものの個体を知らない(まったく想像できない)ケースだとどうなるかはわかりません。
Q. カルヴィッキによるリアリズムの分類のうち、「正確さ」で指摘された「間違いたぬき」の難点は、認識内容がどんな概念であるかの問題(「たぬき概念」なら非写実的で「間違いたぬき概念」なら写実的)、つまり解釈の問題で、リアリズムの難点ではない気がしました。「この「間違いたぬき」は写実的だねえ」という言明がおかしいのは「間違いたぬきの絵」と解釈したことに由来するということです。むしろ「情報量」と「統語論的に有意味な性質の多さ」が、(これらでリアリズムが説明できるかはともかくとして)どのように「正確さ」の難点を補うのかがよく分かりませんでした。(どちらの条件も十分満たす「間違いたぬき」の絵はありそうな気がします。)
A. そう考えたほうがいい気がしますね。言い換えると、間違いタヌキをある種のフィクショナルキャラクターとして考えるという方向かもしれません。
Q. もう一つの「真実と想定される姿との一致」という要件については、真実の姿が想像、描写できないと形容されるような超自然の、例えばコズミックホラーに出てくるような手合いのイラストが媒体で異なっていることがある理由にも関係しているように思えました。
A. いい話ですね。
Q. 非実在物を描くにあたる正確さ判定の難点を回避する方法が二つ挙げられていたが、「想定されている見た目」とは異なるが「見た目を構成する各部位」の描写は正確である場合はどちらに従うのだろうか。原田直次郎の『騎龍観音』の龍を見て、想定された龍とは何か違うという印象を受ける。これは、龍の頭はより爬虫類らしくあるべきと想定されるのに対し、この龍の頭は大型犬のような顔をしているからだと思う。しかし大型犬の描写としてはそれなりに正確であるように感じる。ユニコーンのようにベースがほぼ馬で構成されているものの判断は難しくないが、いくつかの部位を組み合わせて出来上がり、特に一つ一つの部位の特徴まで明示されていない存在の場合はしばしば想定と構成の各部位の矛盾が生じるように感じた。
A. 面白い例ですね。「どちらに従う」かは一概には言えないし一概に言う必要もないと思いますが、全体に対する判断と部分に対する判断が別々にありえて、それぞれの判断が逆方向になるケースが普通にありえるということだと思います。
Q. 今回は「画像」のリアリズムについての話でしたが、基本的には絵についての理論が挙げられていたように思います。「写実性の高い絵」(写真のような絵)のリアリズムについては3つほどの考え方があり、それぞれ大まかに理解できましたが、逆に、真偽が問題ではないという前提のもと「絵のような写真」の場合を考えると、実在する風景を収めた写真であってもあまりにも情報量が少なく、(もちろん写真なので正確性は保証されますが)絵のように見えたとしたらそれはリアルではないということになるのでしょうか。
例: ナミビアのデッドフレイ
A. 様式として理解したほうがいいものでしょうね(リアリズムもある意味で様式の一種ですが)。ようするに、〈写真っぽいスタイル〉というのがあって、デッドフレイの例は〈写真だけど写真っぽいスタイルではない〉(あるいは現実の風景だけど現実の風景っぽいスタイルではない)くらいのことかなと思います。あるいはカルヴィッキの第3の基準は、慣れ親しんでいる(模範的な)画像に近いかどうかという話なので、その観点からも説明できるかもしれません。つまり、「絵のような写真」は、正確さと情報量の点ではかなり程度が高いが、慣れ親しみという点で程度が低い(ふつう写真に期待するものとはぜんぜん違う)ので、その意味でリアリスティックだと言いづらい、という説明です。
Q. 今回の話を聞きながら、これ触覚とかで説明できないのかなーと私としては思いました。例えば、写真と絵を比較した際に、それはどちらも「視覚」を通して「見る」わけですが、他の感覚の依拠するところが違っているのではないかということです(視覚からどのようにして他の感覚が喚起されるか、ということがリアリズムに影響を与えているのではないか、ということです)。それでわかりやすいのが触覚だと思うのですが、例えば、絵に美しい鹿が描かれているとして、絵の場合は、それに触りたいと思った時の皮膚は実際の鹿の皮膚ではなくて、油絵具の皮膚だと思います。ですが、写真に関しては、その皮膚が実際の鹿の皮膚になる(写真っていうペラ1枚の紙という皮膚に触りたいとは思わない。写真の場合は、触覚においてマテリアルが消失する)のではないでしょうか。これが〈うちに見る〉の時点での違いであり、どうにかしてリアリズムを説明できるんじゃないかなーと授業を受けながら考えていました(なんですけど、結構ずれたこと言ってるような気もします)。写実とデフォルメを描く時点でも、前者は頭の中に現実の対象が浮かんでいるけど、後者は頭の中で素材が踊っている(?)という感じの印象があります(素人の人の方が写実的に描こうと奮闘するのに対して、イラストレーターがやけにデフォルメして描く場合が多いのは被写体よりも素材の方と楽しく遊んでるからなのかな、と思ったり)
A. マチエールの質感がリアリズムにどれほど寄与するかという議論はいまのところ見ないですね。面白い論点だと思います。今回の授業では扱う予定はありませんが、屈折(inflection)という概念で議論されていることとして、画像表面上のデザインが持つ質感が描写内容に間接的に寄与する(たとえば、荒い筆致で描写された人物に、〈荒々しさ〉という本来描写されていない性質が付与される)という話はあります。そういうプロセスの一種として考えることはできるかもしれません。