写真の特徴と透明性
※以下「写真」には実写映像も含まれる。
🐫 写真についてよく言われること
痕跡としての写真
写真は、パースの記号の三分法のうちのインデックス(👉 踏み台としての類似説)に属するものとして考えられることがしばしばある。
地面についた熊の足あとが熊がかつてそこにいたことを示すというのは典型的なインデックス的記号の働きだが、写真もそれと同じくある種の「痕跡」であると考える論者もいる。
参考:写真論 第9回 - 佐藤守弘の講義情報
そのアナロジーが適切かどうかはともかく、この手の考えのポイントは、写真とその被写体のあいだに明確な因果関係があるということ。手描きの絵とその主題のあいだには、そこまではっきりとした因果関係はない。
写真はその被写体が(少なくとも撮影時に)存在したことを必然的に示すが、手描きの絵はその主題(この授業の言い方だと指示対象)が存在したことを必ずしも示すわけではない。
本物そっくり?
写真はリアリズム(👉 画像のリアリズムの基準)の点で手描きの絵よりも原理的に優れているわけではない。写真の特徴として言えるのは、せいぜいのところ、〈リアリスティックな描写を特別な技術なしに手軽に作れる〉くらいのことである(昔の写真にはそれすら言えなかったかもしれない)。
「真を写すから写真」みたいなことがたまに言われるが、「写真」は日本語での言い方でしかない。
"photography"という語に「真を写す」というニュアンスはない。
そもそも"photography"の昔の訳語は「光画」だった。「光画」のほうが逐語訳としては正確。
Etymology of ‘photography’ - Oxford Reference
信念独立
写真は、〈対象の性質を正確に描く〉という点で独特というよりは、〈対象の性質を正確に描いているかどうかはともかく、そのような何かが存在したことを不可避に(撮影者が意図しようがしまいが)示してしまう〉という点で独特だと考えたほうがよい。
このように表象の働きが人間の思惑ぬきに(ある意味で自然に)成立することは「信念独立(belief-independent)」などと呼ばれる。
参考:写真のニュー・セオリー:批判的吟味と応答(その1) - #EBF6F7
認識的価値
裁判や身分証明などにおいて、写真は一定の証拠能力を持つものとして扱われる。手描きの絵にそのような能力はない。
写真が持つこの能力は、「認識的価値(epistemic value)」という言い方で論じられることが多い。
写真の認識的価値は、対象の存在を信念独立にあらわすという特徴にもとづいている。
🐫 写真のフィクションと嘘
👉 フィクションの標準理論
👉 フィクションの標準理論を画像に適用する
写真はフィクションになりえる
前回の授業で示したように、フィクションであるかどうかは表象の使い方の問題である。
なので、それを見る人に特定の内容を想像(メイクビリーブ)してもらおうという意図のもとで写真を提示すれば、フィクションになる。
ふつうの実写映画における映像は、実際そのようなものとして使われている。
写真は嘘をつきうる
前回の授業で示したように、嘘は不誠実な主張(聞き手に特定の内容を信じてもらおうと意図しているが、発話者は自分の言っていることを真だと思っていないケース)である。
なので、使い方次第でふつうに写真を使った嘘はつける。
指示対象についてあざむくケース
e.g. 別の人の写真を自分のプロフィール写真にする。
帰属性質についてあざむくケース
e.g .写りがよすぎる自分の写真をプロフィール写真にする。
👉 指示対象と帰属性質については描写内容の理論を参照。
写真の独特さ
フィクションや嘘として使われる場合でも、写真は上で述べた信念独立な情報を(写真の使用者の意図にかかわらず)不可避に持ってしまう。
実写映画は、鑑賞者が想像すべきフィクショナルなキャラクターや世界を提示すると同時に、現実の俳優や舞台セット(そのようなものが存在したこと)についての情報を伝える。
嘘写真は、それを見る人が誤った信念を抱くかどうかに関係なく、特定の条件下でそのような見え方をする何かがどこかに存在したという情報を持っている。
🐫 ウォルトンの議論:透明性
文献
Kendall Walton, "Transparent Pictures: On the Nature of Photographic Realism," Critical Inquiry 11, no. 2 (1984): 246–277.
日本語まとめ:
レジュメ|ケンダル・ウォルトン「透明な画像」(1984) - obakeweb
清塚「写真を通して物を見ること:K・L・ウォルトンの透明性テーゼをめぐって」 http://id.nii.ac.jp/1348/00001068/
ウォルトンは、因果関係や信念独立といった上記の特徴を基本的に認めている。
ウォルトンの基本的な主張
ある対象Oを写した写真を見ることは、その写真を通して本当にOを見る(genuinely see it)ことである。
言い換えれば、写真は視覚の補助(aid to vision)の一種である。
本当に見ること
さまざまな視覚の補助の例:
メガネを通して見る。
鏡を通して見る。
望遠鏡を通して見る。
顕微鏡を通して見る。
ウォルトンによれば、望遠鏡で火星を見ることによって「本当に火星を見た」と言えるのであれば、防犯カメラで犯罪者の挙動を見ることやテレビ中継でスポーツの試合を見ることによって「本当に犯罪者を見た」「本当にその試合を見た」と言っても何も問題ない。
ウォルトンは、このように〈Rを通してOを見る〉が〈本当にOを見る〉になることを「Rは透明である(transparent)」と表現する。
ウォルトンの「透明性」は、カルヴィッキの「透明性」とはまったく別の概念なので注意!
透明であることは、必ずしも対象の正確な姿をうつすことではない。魚眼レンズのように対象を歪めることもあれば、くもった鏡のように対象を不明確にすることもある。
反事実的依存関係
ウォルトンによれば、透明性は、RとOのあいだに自然な反事実的依存関係があるおかげで成り立っている。
自然な反事実的依存関係:
「もし撮影時に被写体が別のありようだったら、写真も自然に(撮影者の意図と関係なく)別のありようになっていたであろう」という反事実条件文が必然的に成り立つということ。
ようするに信念独立な因果関係があるということ。
手描きの絵の場合は、これが言えない。写生する場合でも、つねに画家の信念や技術を経由する。そもそも、モデルがなくても絵は描ける。
自然な反事実的依存関係は上記の視覚の補助(メガネ、鏡、望遠鏡)のすべてに当てはまるし、肉眼でものを見ることにも当てはまる。
それゆえ、対象とのあいだにそうした依存関係がある〈見ること〉は〈本当に見ること〉なのだとウォルトンは主張する。
🐫 コーエン&メスキンの議論:自己中心的な位置情報の伝達
文献
Jonathan Cohen and Aaron Meskin, "On the Epistemic Value of Photographs," Journal of Aesthetics and Art Criticism 62, no. 2 (2004): 197–210.
日本語まとめ:
レジュメ|ジョナサン・コーエン&アーロン・メスキン「写真の認識論的価値について」 - obakeweb
ウォルトンの透明性テーゼに反論している論文。
コーエン&メスキンの基本的な主張
写真を見ることは、鏡や望遠鏡を見ることとは重要な点で異なる。
鏡や望遠鏡は自己中心的な位置情報を伝えるが、写真はそれを伝えない。
自己中心的な位置情報は、見ることにとって本質的である。
したがって、写真を通してOを見ることは、本当にOを見ることだとは言えない。
自己中心的な位置情報の伝達
自己中心的な位置情報(ego-centric spatial information):
知覚者と知覚対象の空間的な位置関係についての情報のこと。
ようするに、自分の位置を基準にしたときに、対象がどの方向にどれくらい離れてあるか、という情報のこと。
肉眼であるものを見る場合、見る人はふつうそのものについての自己中心的な位置情報を直接的に把握している。メガネも同じ。
望遠鏡、顕微鏡、鏡といった視覚の補助もまた、間接的にではあれ、対象についての自己中心的な位置情報を伝えている。
この位置情報は、見る人がそれを実際に把握する必要はない。たとえば、鏡あわせにすると方向がよくわからなくなるし、望遠鏡は距離感がよくわからないだろうが、適切に計算すればその情報を引き出せるという意味で、鏡や望遠鏡にうつる像は、見る人と対象の位置関係についての情報を実際に持っている。
一方で、写真はそれを見る人と被写体の位置関係について、まったく何も伝えていない。そもそも、どの場所でどの向きを向いて見ようが、写真の内容は変わらない。むしろ写真が伝えているのは、カメラと被写体の位置関係である。
🐫 余談
VRデバイスならではの特徴を説明するために、「透明性」や「自己中心的な位置情報の伝達」を持ち出す議論もある。
以前そのへんの話を含めてVRについて発表した動画があるので、興味があればご覧ください(45分くらい)。
👉 【XR Kaigi 2020】VRはリアルかフィクションか、あるいはその問いは何を問うているのか? - YouTube
Tavinorの論文のレジュメ:
Grant Tavinor, “On Virtual Transparency” (2019) - Google Docs