ウォルハイムの〈うちに見る〉説
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リチャード・ウォルハイム(Richard Wollheim, 1923–2003)
イギリスの哲学者で、美学分野の業績が多い。初期の分析美学を代表する人物のひとり。1992年から10年以上イギリス美学会の会長職にあった。主著『芸術とその対象(Art and Its Objetcs)』は、大半が芸術存在論(👉 分析美学とは)の話題だが、部分的に描写の話を扱っている。分析美学内での重要さにもかかわらず、日本では専門家以外にほとんど知られていない。実は「ミニマルアート」という語の発案者でもある。 1. 前提
文献情報
〈うちに見る〉説はいくつかの著作で展開されている。代表的な参照先は以下の2つ。
Richard Wollheim, "Seeing-as, Seeing-in, and Pictorial Representation," in Art and Its Objects, second edition (Cambridge: Cambridge University Press, 1980).
【邦訳】「〈として見ること〉、〈の内に見ること〉、および絵画的再現」松尾大訳、『芸術とその対象』慶應義塾大学出版会、2020年
Richard Wollheim, Painting as an Art (Princeton: Princeton University Press, 1987).
ほかにもいろいろ描写の哲学の論文がある。詳しくは以下の清塚論文を参照。
描写の哲学における位置づけ
知覚説の代表的な論者。画像を見るわれわれの知覚のあり方の観点から描写の働きを考えようとするという点では、ゴンブリッチの〈として見る〉説を継承している。 ゴンブリッチの説に対する批判を1960年代から展開し、それに代わるものとして〈うちに見る〉説を提唱した。
また同時期に登場したネルソン・グッドマンの記号論的な理論に対しても積極的に批判を加えている。
少なくとも1990年代までの描写の哲学は、グッドマン(およびそれに対する大量の批判者)とウォルハイムが牽引したと言ってよい。
〈うちに見る〉説は、部分的な批判は受けつつも、われわれの画像経験のあり方をそれなりに説得的に説明する説として受け入れられてきた。
2. うちに見ること(seeing-in)
〈うちに見る〉説の基本的な発想
ゴンブリッチの〈として見る説〉では、画像を〈表面として見ること〉と〈主題として見ること〉は同時には起きないとされていた。
それに対して、ウォルハイムは、画像を見るとき、われわれは二次元の表面と三次元の主題を同時に知覚していると主張する。そこでは見方の切り替えなどは起きておらず、両方の側面を同時に見るという独特の知覚が生じている。「表面を光景として見る」のではなく、「表面のうちに光景を見る(see a scene in the surface)」のである。
ウォルハイムは、この表面と内容の同時知覚という特徴を「二重性(twofoldness)」と呼ぶ。
ウォルハイムによる〈として見る〉説批判のポイント
なぜゴンブリッチの〈として見る〉説はだめなのか。
ウォルハイムによる批判は多岐にわたるが、とくに重要と思われるポイントは以下の3つ:
① ゴンブリッチは描写内容の知覚をある種の錯覚(イリュージョン)として考えているが、絵を見るときに普通錯覚は起きていない。というのも、絵を見ているときに、たとえその内容に注意を向けている場合でも、本物の事物に対面しているなどとは普通思わないからである(描写内容の非現前性)。錯覚が起きるとすれば、それはよくできたトロンプルイユのケースくらいである。 ② ある絵を真正面から見るのと、少しななめから見るのとで、知覚される描写内容が変わるわけではないという事実がある(見づらさは変わるかもしれないが)。これは知覚の恒常性が成り立っているからだが、それが成り立つのは、絵の表面との距離や角度にもとづいた知覚の補正メカニズムが機能しているからである。もしゴンブリッチが言うように描写内容を見ているときには表面に気づいていないのであれば、この補正メカニズムが働きようがなく、結果として絵をななめから見れば縦長の物体が描かれているように見えるはずである。しかし実際にはそんなことにはならない。
③ トロンプルイユのようなトリックはともかく、絵画作品を美的に鑑賞する際に、描写内容だけに注目するということは考えられない。その内容がどのような仕方で描かれているか、どの表面的な特徴がこの内容を作り出しているのか、といったことに注目しないと、美的な鑑賞とは言えない。
3. 画像の定義と正しさの基準
画像知覚以外の〈うちに見る〉
ウォルハイムによれば、〈うちに見る〉という独特の知覚のあり方は画像を見るときに典型的に生じるが、画像経験以外の場面でも〈うちに見る〉が生じるケースはある。
たとえば、自然物のうちに何かの姿かたちを見て取るという現象はよくある。壁のしみに人の顔を見る、雲の形状のうちに熊を見る、月の模様のうちにうさぎの餅つきを見る、犬のおしりのうちにイエス・キリストを見る、etc.
ロールシャッハテストも、同じ意味で〈うちに見る〉の事例だ。
正しさの基準
そうしたいろいろな〈うちに見る〉をもたらす事物と比べたとき、画像の特殊性(〈うちに見る〉をもたらす他の事物との違い)はどの点にあるのか。
ウォルハイムによれば、画像は、その描写内容(うちに見られる内容)について正誤が言えるという点で、〈うちに見る〉をもたらす他の事物とは区別される。
ロールシャッハテストに正解はないし、壁のしみのうちに何を見ようが人の勝手だ。しかし、画像の描写内容については、どう見るのが正しいかということがある程度は言える。
ウォルハイムは、これを「正しさの基準(standard of correctness)」と呼ぶ。
というわけで、〈画像(描写の働きを持つもの)とは、〈うちに見る〉をもたらす事物のうち、正しさの基準を持つものである〉という定義が得られる。
正しさの基準は何によって決まるのか
ウォルハイムによれば、手描きの絵と写真とで正しさの基準の決まり方が違う。
手描きの絵における正しさの基準:
手描きの絵の場合は、作者の意図、およびその意図がちゃんと達成されているかどうかで決まる。
つまり、ある絵が特定の〈うちに見る〉知覚を意図して作られ、かつ実際にその意図された〈うちに見る〉知覚を与えてくれるならば、その知覚の中身がその絵の描写内容である。
例1:
Kさんは、表面のうちに〈長毛種の猫〉が見えるようにするという意図をもって、絵Pを描いた。
Pを見ると、実際にその表面のうちに〈長毛種の猫〉が見える。
この場合、Pの描写内容は長毛種の猫である。
例2:
Tさんは、表面のうちに〈ジョー・バイデン〉が見えるようにするという意図をもって、絵Qを描いた。
Qを見ると、実際にはその表面のうちには〈ドナルド・トランプ〉しか見えない。
この場合、Qの描写内容は定まらない。
微妙な例:
小さい子どもが描いた絵:
描き手が〈うちに見る〉を意図していない場合は、描写内容を持っていないと考えたほうがよい。
描き手が〈うちに見る〉を意図していても、〈うちに見る〉を引き起こすことに失敗している場合は、描写内容を持っていないと考えたほうがよい。
写真における正しさの基準:
因果的に決まる。
つまり、本物の被写体(撮影時にカメラの前にあった光景)がその写真の描写内容である。
撮影者の意図は関係ない。
正しさの基準における〈うちに見える〉は誰にとっての〈うちに見える〉なのか
例1の改変:
Kさんは、表面のうちに〈長毛種の猫〉が見えるようにするという意図をもって、絵Pを描いた。
AさんがPを見ると、その表面のうちに〈長毛種の猫〉が見える。
しかし、BさんがPを見ると、その表面のうちには〈お餅〉しか見えない。
この場合、描写内容はどうなるのか?
ウォルハイムはこの問題を明確に論じているわけではないが、いくつかの記述から推測すれば、次のように答えると思われる。
描写内容になりえるのは、「可能的知覚」の内容だけである。
ここで可能的知覚とは、「関与的な技術と信念をすべて持っている観者に実現可能な知覚」のことである。
可能的知覚に〈長毛種の猫〉が含まれるならば、描写内容は意図通り〈長毛種の猫〉になるし、そうでないなら〈長毛種の猫〉にはならない(意図された内容ではないので、〈お餅〉にもならない)。
内容の「正しさ」と受容者の標準化
理想的な鑑賞者 idealized appreciator
内包された読者 implied reader
4. 〈うちに見る〉説の難点?
難点はいろいろ提示されていますが、ひとまず自分で考えてみてください。
加えて、〈うちに見る〉説だけでは説明が難しそうな現象が何かないか考えてみてください。
思いついた難点や論点や事例をリアクションペーパーに書いていただければ、次回取り上げます。