戦闘美少女の精神分析
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【著者】
【出版年度】
【目次】
第1章 「おたく」の精神病理
第2章 「おたく」からの手紙
第3章 海外戦闘美少女事情
第4章 ヘンリー・ダーガーの奇妙な王国
第5章 戦闘美少女の系譜
第6章 ファリック・ガールズが生成する
序章
戦闘美少女という徹底した虚構的コラージュであるべきイコンが,欲望され消費される過程の中で獲得してしまう逆説的リアリティ.
素朴な史実としての実在性は,ときとしてリアリティを遠ざけることがある.
消費の対象としての虚構,その質的な差異
ファリックマザー,ファリックガール
ファリックマザー
権威的な女性
万能感,完全性
ファリックガール
性的欲望の対象
第1章 「おたく」の精神病理
おたくの「精神病理」
主体を媒介するものの指向性
メディア
おたくの定義
1 進化した視覚を持つ
2 高性能のレファレンス能力を持つ
3 あくなき向上心と自己顕示欲 岡田斗司夫『オタク学入門』 斉藤自身の提唱するおたくの特徴
虚構コンテクストに親和性が高い人
愛の対象を「所有」するために,虚構化という手段に訴える人
二重見当識ならぬ多重見当識を生きる人
虚構それ自体に性的対象を見出すことができる人
マニアとおたくの差異
マニアの一部がメディア環境の変化に対応して一種の「適応放散」を遂げた形がおたくなのではないか?
ジャンルクロスオーバー性
虚構コンテクストのレベルの違い
マニアの対象物には比較的「実体性」がある
例:コレクター
「おたくの熱狂」
マニアの熱狂よりも演技性が高い
熱狂というコードで他のおたくに交信しているような状況
「斜に構えた熱狂」
虚構コンテクストに親和性の高いおたくの本質
「実体=オリジナル」を求めるのがマニア,「虚構=複製物」を自ら仮構して見せるのがおたく
kana.icon二次創作との親和性?
おたくと所有
虚構化の手続きにとって,おたく活動の対象をわがものにする(「虚構化する」「それを自分の作品にする」という方法しか知らない)
ありものの虚構を自分だけの虚構へ
パロディ,コスプレ,同人誌など
「所有の儀式」
作品を自らに憑依させ,同一の素材から異なった物語を紡ぎ出し,共同体へと向けて発表する,この過程がおたく共同体で営まれている「所有の儀式」である
kana.iconおたく共同体内での,二次創作を作っている人の方がより「エライ」みたいな価値観(おけけパワーとかでもあらわれている)はこの考え方による?
岡田斗司夫が尊敬されるのは,彼の虚構想像能力による,そしておたく業界は優れた批評性が高い創造性にそのまま結びつきうる領域であるという斎藤の指摘
おたくの評論衝動
作品について,あるいは作家について語りたい
kana.iconこれはあまり昨今のBL業界,ソシャゲ業界などには当てはまらない気がする(そもそも,彼らが「おたく」であるか謎だが)
虚構コンテクスト
虚構とは,「現実」を一定のバイアスのもとに抽象したものと仮定
虚構の度合いについて(虚構コンテクストのレベルの違い)
一次資料に基づいたドキュメンタリーは虚構性が低い
メタフィクションはフィクションよりも虚構レベルが高い
つまり,オリジナルの情報を媒介するメディアの数が多いほど,虚構レベルは高い
虚構コンテクストのレベルの高さと,虚構性の高低は比例しない
例:嘘ばっかの自伝よりは,誠実なメタフィクションの方がリアルであるということもある
コンテクストとは
ある刺激の意味を決定づけるような,講義の文脈性(ベイトソン,ホール)
虚構コンテクストは,その作品が成立するための媒介として必要としたメディアの数によって規定される概念
とは言っても,それ自体絶対ではない.ある引用があったとして,それをオリジナルと受け取った受け手がいれば,その人の中において「虚構コンテクスト」は低くなる
「現実」とはなにか
これも虚構の一種である
「われわれが生きる日常世界」という名の虚構
精神分析的な理解
ラカンによれば,「生の現実」には触れることすらできない.「現実」とは不可能なものの別名なのである
「現実界」「象徴界」「想像界」
現実界は「不可能の領域」
象徴界はほぼ言語のシステムと同義
言語は他者である
言語システムが我々の主体にとって外部に位置する超越論的な存在である
語ることでその存在を体験しているが,その体験そのものを完全に認識することはできない
想像界はイメージや表象の領域
「意味」や「体験」が可能である
つまり,この意味においては「虚構」も「日常的現実」も想像界で起こっているものであるため,本質的な区別はない
日常的現実はいかにして体験されるか?
虚構と区分されるのは,「体験が媒介される度合い」による
その体験が媒介されたものであるという意識によって「虚構」は成立する
「日常的現実」とは,「媒介されない意識」のもとで成立する体験である
「媒介されるーされない」という意識の差異も,想像的なものでしかない
例:離人症患者
おたくと虚構
おたくは,虚構コンテクストのレベルを自在に切り替えることができる
アニメに関しても複数のレベルで楽しむことができる
多層的なリアリティ
脚本,監督,評論など,虚構のあらゆる水準においてリアリティを見出し,それを楽しむことができる
「粋の目」「通の目」「匠の目」(岡田)
つまり,アニメそのもの(作品世界)にべったりのめり込んでいるわけではない
例えば,気に入った作品が不満な終わり方をするときどうするか?
作品にのめり込んでいる人々であれば,作者を糾弾したり,作品を否定したり,暴力的な行動に出たりするかもしれない(例:ミザリー) 真のおたくは,自分好みのストーリーを作り始める
作者を絶対視しない
目利きであり,批評家であり,作家である
受け手と送り手の差異は,必然的に曖昧になる
「虚構と現実の対立」をあまり重視しない
虚構にも現実にもリアリティを見出すことができる
多重見当識とは
「二重見当識」
例:自分は東京都知事だ,というような妄想を語りながらも,清掃員をやっているなど
妄想と実際の立場は区別されている
「見当識」
自分の立場の理解のこと
おたくの多重見当識
作家としての立場,視聴者としての立場,など易々と立場が入れ替わる
ディズニーの実体性
見当識が働きにくい
下敷きとなる作品の需要のされ方,制作過程の違い,「ディズニーランド」,著作権管理の徹底性
全体を見通すどころか,「入国」すら困難である
kana.icon女性のディズニーおたく?などはどうなのだろう.ここでいう「おたく」とはみなされないだろうか.
おたくが高度に機能するのは,多重見当識をはっきしつつ,俯瞰的に見渡すことができるような虚構について語る場合のみである
企画や制作の裏側まで見通しの効くような対象が心を捉える
作者の顔や楽屋裏がちっとも見えてこないディズニー作品や,「日常的現実」は厳しい
kana.icon虚構コンテクストを自由に行き来できないことが問題?
多重見当識への過度な没入がおたく化の本質的契機である
なぜ,このような没入を行うか?
セクシャリティの問題
セクシャリティの虚構性,多層性に気づくことが分岐点である
性の虚構性,性の共同体性
kana.iconセクシャリティだけでなく別のものであっても,虚構性や多層性に気づくことでおたくになりうると思うけどな つまり現実の絶対性が揺るがされればいいわけだよね,例えばうまそうな飯の漫画とかに衝撃を受けるとかはありそうだけど
ディズニーアニメとセクシャリティ
ディズニーでは,セクシャリティが排除されているわけではない
が,その行為すら破綻なく様式化され,虚構化され尽くしている
kana.iconこれはけっこう面白い.
リアルなセクシャリティが介在する余地がない
ナウシカではむしろ,セクシャリティは徹底的に排除されている
むしろ宮崎駿はそうみられることを望まないように見えるが,でもおたくはそこにセクシャリティを見出してしまう
おたくとセクシャリティ
みずからの趣味の領域に性生活の全部または一部を確保しているとき,その人は「おたく」なのではないか
この,セクシャリティに対する嫌悪感こそがおたく観を偏ったものにしているのではないか
女性おたくにも,「やおい」「ショタコン」など存在する
ここには嗜好と行動の乖離があることが重要である.
セクシャリティと距離をおくおたく
「そのキャラクターを好きな自分」を揶揄する言葉が「萌え」ではないか?
おたくはキャラクターを偶像視しない
キャラクターに入れ込んでいて,特定の同人誌の存在を許さないファンの方が虚実混同的な要素を持っていて,おたく共同体からおたくとみなされない
子供のおたくは存在し得ないか?
アニメに性欲を持たないという点で存在しない
斎藤は,アニメに欲情しないから自分はおたくではないと言っているが
kana.iconちょっとこれは狭い理解なのではないかと思う.今まで何度も述べられてきた,「虚構化」と「自分の作品にする」という特徴をもっと大事に扱ったほうがいい.セクシャリティと関係ないところで虚構コンテクストの行き来を行っている場合も「おたく」ではないのだろうか.セクシャリティが全ての要因・原因というわけではないと思うのだけど.
kana.iconそもそも「やおい」の人々にしても,別にキャラクター同士をつがわせて性的に興奮しているという人ばかりでもないと思うのだけど...
ベンジャミン・リュウによるおたく作品とフェミニズムについての指摘
「ベルサイユのばら」「ミンキーモモ」「セーラームーン」あるいは宮崎駿作品などの作品は,女性の地位の向上を象徴しているのではないか?
戦ったり,男性的に振る舞ったりする
戦闘美少女は男の欲望の産物ではない
日本では女性のアイデンティティが曖昧で限定されている.戦闘美少女はこうした拘束からの逃避を提案する.少女が自分自身や愛する人を守るという発想は日本の少女たちにとって価値がある
フェミニズム運動はセクシャリティと関わらざるを得ない.女性は,男性が望ましいとする少女のあり方から抜け出し,彼女たち自身の性的自由を宣言しなければならない.性的に成熟し,みずからの外見やセクシャリティをコントロールできるキャラクターは女性の自立を表す
子供のキャラクターが中心となっているのも,「無力な若者」というステレオタイプを打破しようという試みなのではないか?
kana.icon個人的にはむしろリュウの指摘の方が興味あるな.これに関しては斎藤は,斎藤美奈子「紅一点論」を読めとのこと. 日本のおたくの共同体性
雑食性と演技性が,多様性よりも単調さをもたらしていないだろうか
漫画,アニメ空間に必然的につきまとう単調さと平行的な関係ではないか
作家の創造性と受けての感受性とが過剰に同一化された表現空間の単調性
戦闘美少女アニメの歴史(kana.icon抜粋)
石ノ森章太郎などの「レインボー戦隊ロビン」
海外ドラマでは女性隊員は非戦闘員の立場を与えられるが,女性兵士として登場する
「セーラームーン」
戦闘美少女であると同時に魔法少女であるというクロスオーバー
「魔法使いサリー」
「奥様は魔女」にヒントを得て制作
子供向け番組のモデルを成人向けのドラマに求めている
「ルパン三世」
作家をかえ媒体を横断し,際限なく物語のヴァリアントを紡ぎ出す巧妙なキャラクター設定
「ウルトラセブン」は実写特撮であるが,ヒロインのアンヌの虚構性は特筆すべきである
kana.iconこれは面白い.実際の俳優が演じていても,虚構性を担保することができるのかー
「トップをねらえ」
少女が「少女らしさ」を犠牲にせず戦うという表現の可能性をひらいた
永井とジョージ秋山
おたく的セクシャリティを発明した永井
永井作品には,虚構の力によって「現実」が改変される契機が含まれている
主だった登場人物の死
ジョージ秋山は絶望と断念によって逆説的に「現実」を肯定する
虚構は「現実」に奉仕するためのものでしかない
「タイムボカン」
少女の正義と,成熟した女性の悪徳という対立
「成熟=悪」の構図
ヘンリーダーガーの描いた,少女と大人の戦争というモチーフが想起される
「スケバン刑事」
実写でも違和感なく可憐さと強さの統合が展開しうる
トランスセクシャル性
プロレス・ブームでの女子プロレス
プロレスという表現それ自体が,虚構のあわいで我々を楽しませるという特異なスポーツのジャンルである
女子プロレスは,虚構性を積極的に楽しむという姿勢抜きでは考えられない
プロレスというジャンルそれ自体の虚構性
「ナージャ海を騒がす」
中国アニメだが,性差の曖昧な思春期のヒーローという点で日本のアニメに近い
「ドクタースランプ」
「中心気質」の性格類型が,戦闘美少女を造形する上での重要な参照枠となっている
「童夢」
日本のアニメ的,漫画的ではなく西洋的な描線を選ぶ作家であっても,「力」を発揮する主人公は女性である
「ミンキーモモ」
大人向けとして作られた魔法少女アニメ
最終回で普通の少女に戻った桃はトラックに轢かれて死んでしまう
これは作者が,「虚構と現実の対立」をどのように理解していたかを知る上で重要なエピソードたりうるだろう.つまり彼らは,アニメの中で現実をリアルに描くことが,現実の表現そのものであると信じていたのではないか.
「ストップ!ひばりくん」
少女の表面と少年の内面という対比,その効果としてのめまいのようなリアリティ
OVA創成期を支えたアダルトアニメ
「メディアの形式が作品内容を規定する」という典型例
荒木飛呂彦漫画におけるリアリティ
おたく的なものを意図的に排除しようとしている
「おたく向け」の絵柄を嫌う
漫画としてのリアリティをどう維持したか?
戦闘美少女ものは,少女のセクシャリティをリアリティの核に置く
荒木漫画の核は,情念・パトスの表現である(梶原一騎に影響)
アニメ的な自意識の葛藤(エヴァのラストのような)を回避すべく,圧倒的な情念描写を前景化させている
アニメ作家であるためには,平板な世界に耐え,むしろそれを偏愛する才能を必要とするのではないか?
その才能を育む契機となるのが「萌え」ではないか
「ふしぎの海のナディア」
魔法少女系にせよ巫女系にせよ,アニメの「少女」はしばしば何らかの生成変化を触媒するような位置に置かれる.
(中略)その存在の空虚さによって物語全体を牽引しつつ,そこに一種の逆説的リアリティがはらまれていく過程に貢献している
「ストリートファイター」など
メディアの発達が促した特異な表彰物としての格闘技美女
「ワンダーウーマン」など
明らかにフェミニズムという政治的な背景を踏まえている.
存在意義は女性の社会的地位の向上の反映であり,一種のPCの効果に他ならない.
虚構の枠組みを超えるだけの力はない
90年代後半の,海外における「戦闘美少女」近縁作品
メディア環境の発達とセクシャリティの問題として一般化できるような,何らかの作用関係?
メディアミックス戦略を明確に意図
作家性の強さ
作者に馴染みのある地名の頻出
只野和子,幾原邦彦,などによる重層的な作家性
魔法少女について
変身によって成熟と退行を反復しつつ,本質的な成長に至ることはない
第6章 ファリック・ガールズが生成する
想像的空間は,基本的に「倒錯」に親和性が高い
松浦「電子的レアリスム」によると,「イメージ」が欲望の消費を遅延させ撹乱させるものである以上,それは必然的に倒錯している,らしい.
大衆的な虚構表現は,比較的単純な欲望の原理によって支えられる
ゴダール「女と銃があれば映画は作れる」
ポーリン・ケイル「kiss kiss bang bang」
「環境」の特殊性
漫画・アニメという「メディア空間」の特殊性
これらメディア空間は,おたくという特殊な共同体の需要によって成立させられてきた
漫画・アニメ空間の特異性とは?
無時間
ハイコンテクスト
多重人格空間
無時間
メディア固有の「時間制」の存在
あらゆる視覚表現には,そのメディア固有の運動性が刻印される.漫画,アニメ,映画それぞれが,「運動」表現のための固有の文法を持っている.
映画のモンタージュ,漫画のスピード線などの技法
技法が十分に活用されれば,「運動のリアリティ」がもたらされる
アニメのリアリティは,写実的な背景や映画的手法の模倣によってではなく,アニメ固有の運動性の元で初めて見出される
石ノ森&大友と永井漫画の比較
石ノ森&大友の場合はクロノス時間的であり,映画の影響を受けている.
永井作品では,「時間は流れない」
時間は,読者の主観に従って伸縮する
時間と空間は,主人公の情念と迫力表現のために著しく歪曲,誇張される
永井漫画の表現技法を受け継いだアニメ
講談などもこの「特権的瞬間の無限の引き伸ばし」が行われている表現形式の例である
※宮崎駿はこういった描写を厳しく退けている
カイロス時間
無時間的なストーリーの循環
サザエさん,ドラえもん
「トーナメント形式」
「声優」
主観的没入,極めて早い読解
「速読」を可能にしている
場面の迫力は,描写に費やされる時間と語りの密度に比例して際限なく高められる.こうした技法は,漫画・アニメという表現において最も効果的に用いられてきた.映画はもちろん,小説においても,無時間性をこれほど違和感なく取り込める表現手段は他にない.
高密度かつ高速度
カラマーゾフやユリシーズは高密度ではあるが,「速度」は欠けている
漫画のコードについて
人物はあくまでも記号的省略によって描かれなければならない
人物の図象同一性を保持するためでもある
感情や動きも「記号的」に表現される
「記号的」とは
単純なコードとして意味を直接に伝達し,そこに複数の解釈の余地がほとんどない
「コード」の系列
無意味な描写がありえず,全てが何らかの意味伝達に寄与している
吹き出し,表情,スピード線,コマ割り,余白...
漫画の特異性
多重的なコードがユニゾン的に作用する点
それぞれが集まって単一の意味を表現する.同期する
コードそれぞれは不完全で,相互に補完し合う必要がある点
過度に意味づけられた冗長性の高い表現空間としての漫画
関連して,テロップや合成された笑い声(TVの演出)がある
日本の漫画の特異性
画力が重視されない点
キャラクターは一つのコードである
漫画作品の多重人格構造
それぞれのキャラクターが部分人格化し,相互補完による総合化に成功
「複数の個性や運命が単一の作者の意識の光に照らされた単一の客観的な世界の中で展開」され,「主人公の言葉の役割は通常の意味の性格造形や筋の運びのためのプラグマチックな機能」を負わされ,同時にまた「作者自身のイデオロギー的な立場を代弁」させられる
kana.icon必ずしも,作者自身の,ではないかもしれない.
追記:これはバフチンのポリフォニー空間への対応.
漫画の自由度の低さ
多くのサブカルチャーがそうである.
小説と比べると,漫画は様式性,物語の振幅,記述の視点などではるかに狭く規定されている
その代わり,多様な「文体」が可能である
水平的な構造において貧しいが,垂直的な分岐において豊かである
他の例:ポピュラーミュージック
構造はシンプルだが,多様な音色とアレンジが可能である
複雑な物語は難しい
登場人物の性格が単純である必要
個々の人格単位は必然的に典型である
キャラクターが単一の意味を担うコードなので
ハイコンテクスト性
複数のメディアは,複数の虚構性を担う
表現内容と同時に表現形式を受け取る
メディアは一種の文脈である
内容を意味づける全体制
メディアそれ自体の固有の文脈性
例:ドラマに出ている俳優がCMで全く別の役をやっていたとしても構わない
視聴する文脈を瞬時に切り替えているから
表現の文脈
物語の文脈→表現の文脈(シリアスか.ギャグかなどを決定する)→表象コンテクスト(メディア固有の文脈性)
表彰コンテクスト性の度合いについて
コンテクスト性
表現形式それ自体が表現内容を規定する度合い
コンテクスト性の高い順に,アニメー漫画ーTVー映画ー写真 など
「私は写真を見た」では何の具体性も持たないが,「アニメを見た」であればより具体的なイメージを換気しやすい
表現内容の範囲を狭く限定するから
一般的には,大衆的な表現ほどハイコンテクストになる
また,画面あたりの情報量が少ないほどコンテクスト性は高くなる
アニメ・漫画のハイコンテクスト性
形式と内容が密接に結びつけられる
未知の作品であっても,容易に推測できる
1つの画面がジャンルや内容の傾向,作家の名前を伝達してしまう
アニメ文法(ギャグとシリアスの一瞬の転調)
ハイコンテクストであるということは,受け手と送り手の間に距離感がないことによって成立するのではないか?
メディア手段の多様化
内容と形式の貧困化をもたらす可能性
多様なメディア空間で語られる物語は似通ってしまう
メディアの多様化は作品の見かけ上の多様化に寄与するが,ジャンル全体としては閉塞化を促進してしまう可能性
例:パソコン文体
伝達性に優れるが,描写性と記述性においては著しく単調なスタイル
kana.iconウェブ小説とかもそうかな?
画像情報の貧困かは,「アニメ絵」の普及という形式において最も顕著である
過度の記号化を防ぎつつ,製作費と日数を稼ぐ方法としての「大きな瞳」
眼と手の動きが大切(表情をつけられる)
最小の描線で最大の伝達
アニメの絵柄は,必要以上の「動き」も求めず細密である必要もないので,メディアミックスしやすい
容易に共有可能である
虚構のリアリティ
「現実」という担保を必要としない虚構を作り出すためには,虚構それ自体が欲望される必要がある
虚構と現実という対比が十分に機能していない「日本的空間」
「西欧的空間」ではどうか
プラトンは「イデアー現実ー芸術」という区分を唱え,芸術は現実の模倣にすぎないとした
コピーの連鎖
芸術はコピーのコピーであるという劣位
アメリカの大衆文化において最も上位に置かれる虚構は「映画」
実写映画は現実の最も忠実な模倣・再現であるという信仰があるのでは?
これを踏まえて,西洋では虚構がそれ自体として魅力的であってはならないという制限があるのではないか.
図象への禁忌
リアリティが一定の限度内に制限
常に現実的対象を代替する仮称の地位にある
日本的空間ではどうか
虚構が自立的リアリティを持つことが許されている
現実という担保を必ずしも必要としない
虚構は自前で独自のリアリティ空間を開くことができる
kana.iconここで斎藤はリアリティを支える最も重要な要因がセクシャリティであるというが...あやしい.戦闘美少女も女主人公も女道楽も,現実ではありえないからこそ逆説的にリアリティを持つというだけの話で,セクシャリティの問題に矮小化できないと思うし.少なくとも「最も」には同意できない
「仮想現実」ではなく「もう一つの現実」としての虚構
ハイコンテクストな表象空間は,了解過剰性によってリアリティ効果が減衰してしまう危険性があり,それに対する抵抗の一つがセクシャリティである
構造や形式のリアリティを利用できない分,コンテクスト間の切り替わりや移動の瞬間に発生する強度がリアリティ効果として採用される
ヘテロセクシュアルな欲望のコンテクストをどう乗り越えるか?この「乗り越えのリアリティ」の発生
kana.iconそもそも斎藤はヘテロセクシャルの人間を前提としているが,おたくにはゲイもレズビアンもいて,例えばレズビアンでかつ「ショタコン」「やおい」である人もいるのだけど...
「自立的」であるということは,受け手の欲望の単純な投影であることを離れて,表象空間内で「自律」する欲望のエコノミーが成立しているということ
現実とはむしろ離れている必要がある
ファリックガールとは何か
「外傷」の存在しないナウシカ
人間的なクシャナに対して,ナウシカの行動は個人的な動機に裏付けられておらず,空虚なものに見える
いかなる実体性もたない「存在」
異世界を媒介するメディアのような存在
彼女らのはっきする破壊的な力は,異世界間で働く一種の斥力のような作用である
媒介としての彼女らが空虚であるのは自然である
「無根拠であること」こそが漫画・アニメという徹底した虚構空間の中では逆説的なリアリティを発生させる
日常的リアルからの乖離がむしろリアリティを担保する
だからこそ,製造過程を明らかにし,パロディによって虚構化する
世界がリアルであるためには,欲望によって十分に帯電させられなければならない
ファリックガールは,虚構の日本的空間にリアリティをもたらす欲望の結節点である
リアリティを維持する基本的力どう
参考文献(の中で読みたいもの)
『文脈病』/斎藤環
『日本・現代・美術』新潮社