風の歌を聴け
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【作家】
【出版年度】
対象読者 :
(身もふたもないが) 賞の審査員
喪失感、漠然とした虚無に共感できる人
ジャズやクラシックの音楽が好きな人
謎解きが好きな人
村上の文がすきな人 (kana.iconはこれかな!)
目的 :
目的というか、テーマは学生運動後の、喪失感だろうか... 問題意識・新規性 :
翻訳調で、音楽のようなリズム感のある軽妙な文章は新規で独特なもの。
日本的情緒によって塗られたアメリカふうの (アメリカの何処かを舞台にしたような、あるいは現代アメリカ小説の影響下にある) 小説である (丸谷才一, 島尾敏雄) 書き出し
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」 僕が大学生のころ偶然に知り合ったある作家は僕に向ってそう言った。僕がその本当の意味を理解できたのはずっと後のことだったが、少くともそれをある種の慰めとしてとることも可能であった。完璧な文章なんて存在しない、と。しかし、それでもやはり何かを書くという段になると、いつも絶望的な気分に襲われることになった。僕に書くことのできる領域はあまりにも限られたものだったからだ。例えば象について何かが書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない。そういうことだ。
kana.icon え。(koboで)2pまで読んだ(再読した)けどこれってグレート・ギャツビーなの? 2022/2/14 頑張っても無意味みたいな虚無
<文明とは伝達である。表現し、伝達すべきことが失くなった時、文明は終る。パチン……OFF。> ーー<今に頭の中でカチンと音がして楽になれるんじゃないかってさ。でも現実にはそううまくはいかない。音なんてしたこともないよ。>
死
鼠と僕は同郷なのだろうか?
<俺は俺なりに頑張ったよ。自分でも信じられないくらいにさ。自分と同じくらいに他人のことも考えたし、おかげでお巡りにも殴られた。だけどさ、時が来ればみんな自分の持ち場に結局は戻っていく。俺だけは戻る場所がなかったんだ。椅子取りゲームみたいなもんだよ。>
鼠も学生運動をやっていた? しかし金持ちだった。実際には、当人が嫌っていた「なにも考えずにすむ人たちだった?」 それで、なんでかわからないけど「戻る場所がなかった」
「なぜ、訊ねられるまでなにも言わないの?」 それはたぶん、<僕はそんな風に全てを数値に置き換えることによって他人に何かを伝えられるかもしれないと真剣に考えていた。そして他人に伝える何かがある限り僕は確実に存在しているはずだと。しかし当然のことながら、僕の吸った煙草の本数や上った階段の数や僕のペニスのサイズに対して誰ひとりとして興味など持ちはしない。そして僕は自分のレーゾン・デートゥルを見失ない、ひとりぼっちになった。>このようなかんじで、「表現し、伝達すべきこと」 がないから
おお、すごくおしゃれなつくりだ。「ねえ、迷惑かけてない?」 と聞く小指のない女、そのあと帰り道に「僕」 はデートで「退屈じゃない?」 とひっきりなしに聞いていたことを思い出す。→小指のない女はきっと「僕」 のことが好きで、「僕」 はそれに気が付かなくて、それでなにかがおこる?
おそらく、小指のない女は死んだ。ネクタイとスーツ。→かと思ったけど違った。堕胎しただけ。→三番目の女の子と、小指のない女の子のことがだんだんどっちがどっちかわからない感じになっている?
美人ではない、しかし「彼女にふさわしいだけの美人ではない」 女。つまりないめんてきには美人なんだけど外面的には美人でない女。
年前、ニューギニアのジャングルには虫よけ軟膏を塗りたくった日本兵の死体が山をなし、今ではどの家庭の便所にもそれと同じマークのついたトイレ用パイプ磨きが転がっている。
「子供の頃はもっと沢山の飛行機が飛んでいたような気がするね。」 鼠が空を見上げてそう言った。「殆んどはアメリカ軍の飛行機だったけどね。プロペラの双胴のやつさ。覚えているかい?」
kana.icon ひえー、戦後だ!!!
たぶん、女と寝る寝ないというのは、大人になったとかなにかが変わったとかそういう意味だなきっと。
……もちろんどんな墓にだって意味はある。どんな人間でもいつかは死ぬ、そういうことさ。教えてくれる。でもね、そいつはあまりに大きすぎた。巨大さってのは時々ね、物事の本質を全く別のものに変えちまう。実際の話、そいつはまるで墓には見えなかった。山さ。濠の水面は蛙と水草でいっぱいだし、柵のまわりは蜘蛛の巣だらけだ。俺は黙って古墳を眺め、水面を渡る風に耳を澄ませた。その時に俺が感じた気持ちはね、とても言葉じゃ言えない。いや、気持ちなんてものじゃないね。まるですっぽりと包みこまれちまうような感覚さ。つまりね、蟬や蛙や蜘蛛や風、みんなが一体になって宇宙を流れていくんだ。
「みんな同じさ」
これで鼠は失望した。なぜなら、自分と、必死で島まで泳いでいる人が「同じ」 であることにたえられなかったから、だろうか。
君の抜けてきた井戸は時の歪みに沿って掘られているんだ。つまり我々は時の間を彷徨っているわけさ。宇宙の創生から死までをね。だから我々には生もなければ死もない。風だ。
井戸のこと
三年前に脊髄の病気。14歳のときの写真。ということは、例の写真はその人のもの? それで、三番目に付き合った女の子は、実は小指のない女の子で、双子の妹が脊髄の病気の? わからなくなってきた。鼠はなぜ彼女を知っている?
通り過ぎる。
「多くのものが僕を通り過ぎていった」 からはじまって、<あらゆるものは通りすぎる。誰にもそれを捉えることはできない。 僕たちはそんな風にして生きている。>これで終わり。
しかし意外にもというのか、鼠も僕も生きていて、なんだかんだジェイ含めてたのしくやっているらしいのだ
ハートフィールド。そんな作家はいない。あとがきでその作家の名前を出してみる。なんだこれは?すべてがフィクションということ? いわゆる私小説ではないよ的アピール? ただのジョーク?
kana.icon
主人公がある場所に行ったり出来事があったりすると関連する昔の知り合いのことをいちいち思い出して感傷的になることにキモいなと思ったけど
これが実際には人間ではなくて,ここで人間として出てくるものははもっと大きな「失われたもの」の比喩だとしたらすごくいいかんじがする.
戦争も終わって,学生運動もひどい終わり方をして,消費社会はどんどん発達していって高度経済成長機で,そんなふうに日本が変化していくなかで失われてしまうもの,変わってしまうものについての郷愁だとしたら.
しかしそれはまるでずれてしまったトレーシング・ペーパーのように、何もかもが少しずつ、しかしとり返しのつかぬくらいに昔とは違っていた。
こういうところからもそう思える.
小説を読んでいるというより,音楽を聴いているような感じのする文章だった.心地いい.ジャズか,あるいはサティのような感じ.
小指のない女の子は鼠が主人公に会わせたがっていた人なのではないか?
普通に過ごしているだけなのに,なぜかトラブルが起こる,人に嫌われるというような言い方をしているが,ほんとうにこの人は何もひどいことをしていないのか?何もしていないからこそそうなのか?
信頼できない語り手的な存在であるように思われる.言うべきことを言っていない(あるいは言えない)ような.
翌日、僕はかつてクラス・メートだった何人かに電話をかけて、彼女について何か知らないかと訊ねてみたが、誰も彼女については何も知らなかったし、大部分は彼女が存在していたことさえ覚えてはいなかった。最後の一人は何故だかはわからないが僕に向って、お前となんかは口もききたくない、と言って電話を切った。
このへんとか,すごく怪しい!
机の上には書き置きらしいノートの切れ端があり、そこにはたった一言、「嫌な奴」と記されていた。恐らく僕のことなのだろう。
1章は最高.
ハートフィールドが良い文章についてこんな風に書いている。「文章をかくという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ。」(「気分が良くて何が悪い?」1936年)
文章を書くことは楽しい作業でもある。生きることの困難さに比べ、それに意味をつけるのはあまりにも簡単だからだ。
僕たちが認識しようと努めるものと、実際に認識するものの間には深い淵が横たわっている。どんな長いものさしをもってしてもその深さを測りきることはできない。僕がここに書きしめすことができるのは、ただのリストだ。小説でも文学でもなければ、芸術でもない。まん中に線が1本だけ引かれた一冊のただのノートだ。
もしあなたが芸術や文学を求めているのならギリシャ人の書いたものを読めばいい。真の芸術が生み出されるためには奴隷制度が必要不可欠だからだ。古代ギリシャ人がそうであったように、奴隷が畑を耕し、食事を作り、船を漕ぎ、そしてその間に市民は地中海の太陽の下で詩作に耽り、数学に取り組む。芸術とはそういったものだ。 夜中の3時に寝静まった台所の冷蔵庫を漁るような人間には、それだけの文章しか書くことはできない。
「フローベルがもう死んじまった人間だからさ。」「生きてる作家の本は読まない?」「生きてる作家になんてなんの価値もないよ。」「何故?」「死んだ人間に対しては大抵のことが許せそうな気がするんだな。」
わかる!!!!
鼠の小説には優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ。放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ。
これはなかなか自己言及的で笑える.村上春樹はけっこうこういう自虐ネタを多く挟んでくる.ねじまき鳥でもそうだった
自分のやっていることが正しいかどうかを実はけっこう気にしている?
猫を殺した話
虎をたくさん殺したひと
「魔女」への言及
幾ばくかの小銭の代償に死んだ時間を提供してくれる
ソシャゲみたい.
戦争が終ると彼は軟膏を倉庫に放りこんで、今度は怪し気な栄養剤を売りだし、朝鮮戦争の終る頃には突如それを家庭用洗剤に切り替えた。それらの成分はみな同じであるという話だった。ありそうなことだ。 25年前、ニューギニアのジャングルには虫よけ軟膏を塗りたくった日本兵の死体が山をなし、今ではどの家庭の便所にもそれと同じマークのついたトイレ用パイプ磨きが転がっている。 そんなわけで鼠の
こういう,どうしようもない理不尽さ
時が来ればみんな自分の持ち場に結局は戻っていく。俺だけは戻る場所がなかったんだ。椅子取りゲームみたいなもんだよ。
そいつはあまりに大きすぎた。巨大さってのは時々ね、物事の本質を全く別のものに変えちまう。
戦争なんかのことかな?
「でもね、よく考えてみろよ。条件はみんな同じなんだ。故障した飛行機に乗り合わせたみたいにさ。もちろん運の強いのもいりゃ運の悪いものもいる。タフなのもいりゃ弱いのもいる、金持ちもいりゃ貧乏人もいる。だけどね、人並み外れた強さを持ったやつなんて誰もいないんだ。みんな同じさ。何かを持ってるやつはいつか失くすんじゃないかとビクついてるし、何も持ってないやつは永遠に何も持てないんじゃないかと心配してる。みんな同じさ。だから早くそれに気づいた人間がほんの少しでも強くなろうって努力するべきなんだ。振りをするだけでもいい。そうだろ? 強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ。」「ひとつ質問していいか?」 僕は肯いた。「あんたは本当にそう信じてる?」「ああ。」 鼠はしばらく黙りこんで、ビール・グラスをじっと眺めていた。「噓だと言ってくれないか?」 鼠は真剣にそう言った。
ここの流れが全くわからない!!!
トルストイの「戦争と平和」については彼は常々批判的であった。もちろん量について問題はないが、と彼は述べている。そこには宇宙の観念が欠如しており、そのために作品は実にちぐはぐな印象を私に与える、と。「宇宙の観念」という言葉を彼が使う時、それは大抵「不毛さ」を意味した。
小説は不毛でなければならないという考え?
「誰もが知っていることを小説に書いて、いったい何の意味がある?」
これは自虐ネタなのか,それともほんとのことなのか,どっち?
「ねえ、私を愛してる?」「もちろん。」「結婚したい?」「今、すぐに?」「いつか……もっと先によ。」「もちろん結婚したい。」「でも私が訊ねるまでそんなこと一言だって言わなかったわ。」「言い忘れてたんだ。」「……子供は何人欲しい?」「3人。」「男? 女?」「女が2人に男が1人。」 彼女はコーヒーで口の中のパンを嚥み下してからじっと僕の顔を見た.「噓つき!」 と彼女は言った。 しかし彼女は間違っている。僕はひとつしか噓をつかなかった。
これ,どれがひとつの嘘なんだろう?
自分は,きっと「私を愛してる?」「もちろん.」だと思う.
あらゆるものは通りすぎる。誰にもそれを捉えることはできない。 僕たちはそんな風にして生きている。
それで,風の歌?
それは火星の地表に無数に掘られた底なしの井戸に潜った青年の話である。井戸は恐らく何万年の昔に火星人によって掘られたものであることは確かだったが、不思議なことにそれらは全部が全部、丁寧に水脈を外して掘られていた。いったい何のために彼らがそんなものを掘ったのかは誰にもわからなかった。実際のところ火星人はその井戸以外に何ひとつ残さなかった。文字も住居も食器も鉄も墓もロケットも街も自動販売機も、貝殻さえもなかった。井戸だけである。それを文明と呼ぶべきかどうかは地球人の学者の判断に苦しむところではあったが、確かにその井戸は実にうまく作られていたし、何万年もの歳月を経た後も煉瓦ひとつ崩れてはいなかった。 もちろん何人かの冒険家や調査隊が井戸に潜った。ロープを携えたものたちはそのあまりの井戸の深さと横穴の長さ故に引き返さねばならなかったし、ロープを持たぬものは誰一人として戻らなかった。 ある日、宇宙を彷徨う一人の青年が井戸に潜った。彼は宇宙の広大さに倦み、人知れぬ死を望んでいたのだ。下に降りるにつれ、井戸は少しずつ心地よく感じられるようになり、奇妙な力が優しく彼の体を包み始めた。1キロメートルばかり下降してから彼は適当な横穴をみつけてそこに潜りこみ、その曲がりくねった道をあてもなくひたすらに歩き続けた。どれほどの時間歩いたのかはわからなかった。時計が止まってしまっていたからだ。二時間かもしれぬし、二日間かもしれなかった。空腹感や疲労感はまるでなかったし、先刻感じた不思議な力は依然として彼の体を包んでくれていた。 そしてある時、彼は突然日の光を感じた。横穴は別の井戸に結ばれていたのだ。彼は井戸をよじのぼり、再び地上に出た。彼は井戸の縁に腰を下ろし、何ひとつ遮るものもない荒野を眺め、そして太陽を眺めた。何かが違っていた。風の匂い、太陽……太陽は中空にありながら、まるで夕陽のようにオレンジ色の巨大な塊りと化していたのだ。「あと25万年で太陽は爆発するよ。パチン……OFFさ。25万年。たいした時間じゃないがね。」 風が彼に向ってそう囁いた。「私のことは気にしなくていい。ただの風さ。もし君がそう呼びたければ火星人と呼んでもいい。悪い響きじゃないよ。もっとも、言葉なんて私には意味はないがね。」「でも、しゃべってる。」「私が? しゃべってるのは君さ。私は君の心にヒントを与えているだけだよ。」「太陽はどうしたんだ、一体?」「年老いたんだ。死にかけてる。私にも君にもどうしようもないさ。」「何故急に……?」「急にじゃないよ。君が井戸を抜ける間に約15億年という歳月が流れた。君たちの諺にあるように、光陰矢の如しさ。君の抜けてきた井戸は時の歪みに沿って掘られているんだ。つまり我々は時の間を彷徨っているわけさ。宇宙の創生から死までをね。だから我々には生もなければ死もない。風だ。」「ひとつ質問していいかい?」「喜んで。」「君は何を学んだ?」 大気が微かに揺れ、風が笑った。そして再び永遠の静寂が火星の地表を被った。若者はポケットから拳銃を取り出し、銃口をこめかみにつけ、そっと引き金を引いた。
このくだり,めちゃくちゃ重要な気がする
参考
wikipediaより
タイトルは、トルーマン・カポーティの短編小説 "Shut a Final Door" (「最後のドアを閉じろ」)の最後の一行「Think of nothing things, think of wind」から取られた 後のインタビューによれば、チャプター1の冒頭の文章が書きたかっただけで、あとはそれを展開させただけだったと語っている。
村上は後年、本作について「『風の歌を聴け』という最初の小説を書いたとき、もしこの本を映画にするなら、タイトルバックに流れる音楽は『ムーンライト・セレナーデ』がいいだろうなとふと思ったことを覚えている。そこにはエアポケット的と言ってもいい、不思議に擬古的な空気がある。僕の頭の中で、その時代の神戸の風景はどこかしら『ムーンライト・セレナーデ』的なのだ」と語っている public.icon