圏論は「筋のいい制約」を与えてくれる
圏論をほかの分野に応用する時、その表現力の高さ、すなわち「それまでの(自然言語ベースの、あるいは「集合論的」な)アプローチでは言えなかったことが言える」という面に期待が集まることが多いと思う。
しかし実際は必ずしもそうとは限らず、むしろ圏論を有用にしているのは、布山&西郷(2022)のいう「(意外な)制約の強さ」の方であったりもする。
しかも重要なことに、その制約は単に「強い」だけでなく、少なくとも数学やその周辺分野では成功を納めてきたという実績を持つ非常に「良い」ものであり、無数にありえる仮説やモデル化の可能性の中から特に重要そうな「筋のいい」ものに選択的にリソースを集中させることを可能にしてくれるのである。
これについては、圏論を認知科学に応用しているStephen Phillipsが、圏論のオリジネーターの一人であるMac Laneの言葉を引きつつはこんなことを言っている:
There is more to category theory than arbitrarily identifying interconnections.
What matters is the many real [emphasis added] interconnections, not the wholly artificial ones.(Mac Lane, 1997, p. 121)
Phillips, S. (2021). A category theory principle for cognitive science: Cognition as universal construction. Cognitive Studies: Bulletin of the Japanese Cognitive Science Society, 28(1), 11–24.
Mac Lane, S. (1997). Categorical foundations of the protean character of mathematics. In Philosophy of Mathematics Today (pp. 117–122). Springer Netherlands.
またMac laneは『数学—その形式と機能』(p. 529)では以下のように述べる:
集合論は、手頃な道具ではあるが、これを使う構成法には、しばしば不自然なものが現れる。もっと突っ込んで言えば、集合論は明らかに一般的すぎるということである。かつて、ヘルマン・ワイルが注意したように、それはその中に"砂"がたくさん入っている["it contains far too much sand"]のである。
つまり、むしろ集合論の方が無規定な、「言おうと思えばなんでも言えてしまう」世界であるとマックレーンは言っている。
以下は、そのStephen Phillips氏が僕に直接説明してくれた、圏論の持つ制約の効用の一つの例である。
まず集合は、その構成要素を対象とし、そしてそれらの恒等射のみを射とする圏、すなわち「離散圏(discrete category)」と見なすことができる。
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構成要素がただ集まっているだけで、それらの間の関係になんの構造も想定されていない、それこそが「集合」である、ということ。
この時、集合間の写像(点から点へのマッピング)は、圏から圏への「構造を保つ対応づけ」としての「関手(functor)」の条件を自明なかたちで満たすことになる。
関手$ Fは、対象を対象に、射を射に割り当て、なおかつ以下の条件を満たすもの:
ある対象$ Xの恒等射$ id_Xはその対象の写った先$ F(X)の対象の恒等射$ id_{F(X)}に写り:$ F(id_X) = id_{F(X)}
射の合成を写したものは、それぞれの射を写してから合成したものに一致する:$ F(g∘f)=F(g)∘F(f)
つまり、離散圏の場合はそもそも「保つ」べき射の合成の構造が(恒等射と対象の一対一対応を除けば)最初からないので、真っ当な写像でありさえすればどんな対応づけであれそれは「構造を保つ」という要請を満たすことになる。
しかし、恒等射以外の射の存在も許すより一般の圏を考えると、そうではなくなる。
たとえば、2つの対象間の射がたかだか1つ(あってもなくてもいいが、あるなら1つまで)の圏を「前順序(preorder)」という。そして、前順序と前順序の間の対応づけ・マッピングにはいろいろなものが考えられるだろうが、それが関手の条件(恒等射と合成を保つ)を満たす時、それはいわゆる「単調増加関数」になる。これはある種の比例関係で、見渡してみれば我々の生活には比例関係が溢れかえっている。
例えば、何かの大きさを定規で測る時、室内の温度を測る時………
つまり、関手の条件という拘束によって、マッピングの無数の可能性の中から有益なものだけを抽出することができるのである。
また、圏論における最も重要概念(の1つ)である「自然変換」がなぜ「自然」と呼ばれるかというと、圏論以前に人々が「自然に」定義し用いてきた座標変換やフーリエ変換といった有益な変換たちが実は自然変換の要件を満たしており、逆に言えば、自然変換の定義に従えばその文脈において考えることができる無数の変換の中から恣意的でない「自然な」変換をある程度絞りこむことができるからである。
関手の「関手性 functoriality」の条件(合成と恒等射を保つこと)や自然変換の自然性の条件は「コヒーレンス(整合性)条件 coherence condition」と呼ばれる(『活躍する圏論』 p. 106参照)が、それらは、数学の諸領域における概念たち——それら自体、さまざまな定義の可能性の中から選び抜かれた成功例である——に繰り返し現れるいわば「勝ちパターン」のようなものを抽出したものなのだろう。
そして、この「勝ちパターン」が通用するのは、数学やその周辺分野(計算機科学や物理学)のみに限られないのではないか、というのがここでの仮説である。
西郷さんのApple Pencilには「Homo sum.」と刻印されている。これは「私は人間である」という意味のラテン語の有名な言葉で、後には「人間にかかわることで私に無縁なものは何もないと思う」と続く。 どの学問も結局は人間が同じ世界の中でやっていることであり、人間が世界のさまざまな断面を(ある程度真面目に)理解せんとすると、それが世界に関する有用な、「整合性(コヒーレンス)」を保った「理解」と呼べるものである限りにおいて、大体似たようなパターンが現れるのではないだろうか。
さらに言えばそれは、人間の認知や解釈の側だけに関する(人間の側が持ち込んだ、アプリオリな?)制約ではなく、世界の側にある実情についても多くのことを教えてくれるのではないか。
マックレーンも、数学は、現実とは無関係な理念的世界において確立された(基礎付けられた)上で現実世界の理解へと応用されるのではなく、人間が現実世界を理解しようとする時に現れる幾つかの普遍的なパターンを体系化したものであるという。
彼によれば、そうでないと、なぜ幾何学や代数といった特定の数学分野が研究され、集合論的な基礎付けからは無数にありえた他の可能性たちが研究されていないのかの説明ができないという。
たとえば、冒頭で挙げた布山・西郷による「不定自然変換」による比喩理解のモデル化においては、そもそもこれまでの比喩研究において比喩の成立条件としてさまざまなルールが列挙されてきたのに対し、個々の比喩理解の成立の条件を関手の成立、そして新しい比喩理解の成立を現状の理解(関手)から新たな関手への自然変換の成立として捉えている。
つまり、これまで色々なルールを追加することでありうる言葉同士の関係付けのなかから比喩として理解可能なものへと過不足がないように絞り込んでいたのに対し、不定自然変換の理論では、それらをコヒーレンス条件によって一括で、かつ「自然な」(恣意的でない)かたちで絞り込むことができている。
つまりそれらは、これまで想定されてきた個々の制約ルールに比べればかなり強い制約であり、ゆえにより倹約的(parsimonious)な定義を可能にしてくれるのである。
HSTによるアフォーダンス論文でも、圏と関手を非常に素朴なかたちで定めた上で自然変換を考えると、それがアフォーダンスの理論(生態心理学)が半世紀かけて到達したアフォーダンスの実在性の構造と一致する、という気づきが核になっている。 もちろん、圏論的な枠組みの中で整合的だからそれが絶対に正しいぞと言っているわけではない。個々の仮説やモデル化については、現実と付き合わせて検証する必要がある。
ただ、やたらめったら全部の仮説を検証するわけにもいかないのが世の常なので、ある程度「勝ち筋」のあるものにあたりをつけておく必要があるだろう。
そういう時に、圏論の諸々の概念による見立ては結構役に立つのではないかと思う。