脊髄を観察する
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芸術作品や音楽を「鑑賞すること」には案外コツが必要だなと大学院で思った。 平倉さんの授業ではひたすらその「知覚」と「思考」の仕方、そしてその両者を一時的に切り離すことを深く教えられて、アートや音楽との接しかたが大きく変わったように思う ちょびちょび追補していきたい。
いずれnote化する
方法
絵や作品を前にした時、考える前に知覚に集中する
が、これが案外難しい
まず「自分が何を見ているか」を観察する
目が自然と吸い寄せられているポイント、視界に映っているもの、それを見ている時に起こる身体的な感覚、視線の動き、…をひたすら追う
なんとなく心地よく感じる色彩、やべぇと感じる動き、不安を感じる滲み、などなど
この時作品のコンセプトや文脈についての思考は極力宙吊りにする。
この時点ではなるべく言語野をOFFる。ただの身体になる。ここで作品について語ろうとしてコンセプトやタームを考えると全部がそれに束ねられてしまうので
そうしたポイントやかたち/動きに言葉を与える
仮置きの概念でいい。考えながら推敲していけばよい。
例
太い筆の動きによって、いくつもの並行な筋が同じように波打っている→「モジュレーション」
格子模様や点描によって同じ形が繰り返されている→「折り返し/反復」
仮置きした概念を踏まえてもう一度作品に目を走らせる この時その概念で全てを説明しようとせず、むしろその概念から漏れ出る作品のディテールにこそ目を向ける
そうしたディテールを通して概念に揺さぶりをかけ、推敲していく
例
「同じ形が反復しているように見えるけど、よく見ると線がかなりヨレていて不均一だ。でもその不均一さによって格子模様がうねり、平面的でなく波打っているように見えるな。」→皺化/襞化(非ユークリッド化?)
これを繰り返し、作品に相応しい言葉を作っていく
その概念を念頭に入れつつ、他の作品を観察する
ただしその時も概念を一旦保留して「何を見ているかを見る」フェーズが必要
繰り返す
思想
平倉さんが「山に登るように作品を見る」と書いていたのが印象に残っている。ただ外部から観察して品評するのではなく、作品のかたちに巻き込まれ、身体的に触発される。
これは単に「絵を見る」「曲を聴く」ということではなく、「絵を見ている自分の目を見る」「音楽を聴いている自分の耳を聴く」ということであると思う。
作品と身体の接触面に身を置くこと
僕は個人的にこれを「脊髄を観察する」ことと呼んでいる
作品を鑑賞する時、最初から考えながら見ている人が多いように思うし、自分もそうだった
そしてそうすると大概、自分が見たいようにしか作品を見られず、ラディカルな出会いが生まれない
思考すること自体はいいが、その前段にはなるべく純粋に知覚を観察するフェーズが必要
だし、作品について思考する時も、その思考と作品の間には直接の因果関係がないという留保は必要。作品を考えているのではなく、「作品を見ている自分の脳を観察する」という距離感。
ラディカルな「考えるな、感じろ」ではある
頭ではなく目や耳や肌や神経で考えろ、ということでもある
世の人が思うほど「身体で聴く」は簡単じゃない、という話でもあるkbyshwtn.icon
(そしてもちろん頭で聴く、も)
ふむkbyshwtn.icon
純粋知覚より先にテクニカルタームが動員されてしまうことの難しさisある
サイドに広がったサブベースを聴いて「位相差の美や!」とか思ってしまうこととか。
普通にやめたい。
これはもう修行ですnozakimugai.icon
一旦反射的にテクニカルタームを出した上で、「位相差の美というタームで自分がパッケージングしている直接的・身体的な感覚って何なんだ」と内観するという手も
そうして自分にマジレスを続けていると「いや、だから、ここの、これなんだよ!」としか言えなくなるのでここから再出発する
たしかにkbyshwtn.icon
テクニカルタームを引き出してくることが悪いのではなくて、それがブレーキになってしまうと良くないということな気がする。Kai.icon
考察厨と似たような罠(ブレーキ)にハマりがちな気はするkbyshwtn.icon むしろテクニカルタームがアクセルになって、それを引き起こした要因を素通りしてしまうことが良くないのかもnozakimugai.icon