キラーワードに逃げない
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共有可能性が低く、相手は「はい」というしかない言葉を、ある問題の一つの大きな原因として位置づけることは可能だが、大抵の場合、そこに至るまでの別の共有可能な問題があるはず。あるいは共有可能な「あるべき像」があるはず。
手前の問題だと、「J-POPのこういう制約が好きではない(僕らのいうイケメン音楽とか)」とか。後者だと「エレガントミュージック」とか。 政治的過程論系列の社会運動研究では,社会運動は,自らを正当化するために「集合行為フレーム」と呼ばれる信念や意味の組み合わせに依存するとされる。集合行為フレームを作りだし,適用する努力は「フレーミング」と呼ばれる。従来の研究は,がいしてフレーミングが運動の動員や展開にどのように,どの程度,有効であるかに注目してきた。 とはいえ、↓のような問題があることには留意。
社会運動のフレーミングには,特定のフレーム(マスターフレーム)の拘束力により,運動が対処すべき(だったかもしれない)争点が排除される側面がともなうことがある
妻から離婚話が出て思ったことキラーワードの手前には別の解決可能な問題があるし、またそれを導くためのあるべき像も含まれていたりはする。 例えば(実際に言われたことだが)離婚したい、あなたと子どもを育てなくない、は明らかにキラーワードである
なぜなら夫の弁解余地がないから
手前には「妻の逃げ癖」、「夫の強い権力」、「未精算の精神的コスト(お互いに報われていない)」、といった問題がある
先には「良き親」が導ける。
例えば、「良き親は権力関係が希薄」とか「良き親は他者の困難に辛抱強くあるべき」といった条件整理が可能。
無論、「根本的な思想・信条が概ね合致している」が本当に条件としてあるなら、それはもしかしたら解決不可能な問題かもしれない。それを捻じ曲げることで、その人たらしめているものが変わってしまうような条件を満たそうとするのはヒューマニズム的な解決とは言えない。
個人的にそれは条件じゃないだろう、と思うけど。うちの家族、思想合わなくても仲いいし。良い親なのかはしらんけど。
ひとまずは、「家計の分離」、「別居」により「権力関係の無化」を狙ってみてどうなるかの様子を見る、で着地した。
問題が解決していない状態での「固定費的な精神コスト」を払わなくてもよくなる、という副次的なメリットもある。
当然デメリットとしては「金がかかる」「お互いにアンコントローラブルになる」があるが、大したデメリットではない。
(ということを妻に伝えた結果、「この類のコミュニケーションに限界を感じる」「逃げることが許されないのきつすぎる」とのことで、気持ちがより離婚に傾いたらしく、他者に求めるのは間違ってるのかもしれない涙)
他者とのコミュニケーションにおいて、逃げ道を全て奪わないのはマジで大事だな…とバンドやコーチングしててめっちゃ思います…nozakimugai.icon
あと我々どうしても言語的な思考を特権化して考えてしまいがちですが、感情的で非合理的に見える思考や非言語的なものも、形はどうあれ「思考」であって、それらが言語的な思考に劣るものでは決してないという姿勢はマジで大事だと思います。うちのバンドこれで一度解散しかけたので。
キラーワードの「手前」と「先」を考えるなら、言語的なレベルだけで考えるのではなく感情的、あるいは身体的なレベルでそのキラーワードが出るに至った「手前」と「先」の要因にも目を配らなければならない。
これはそうした非言語の要因を「コントロールする」「解消する」という意味では決してない
なぜなら言語的にみえる我々の思考自体も、それを動かしているのは非合理的な感情や物質的な反応みたいな「底流」みたいなものだと思うので…
端的に「情動」ありきだろ、を前提に置かなきゃ解決しない問題はあり、その対処法がいまいちわかってない、という個人的な問題はあるなkbyshwtn.icon
いつも相手の情動をどうにか言語化して(僕のふるい研究テーマで言えば「社会学的介入」をして)対処しようとするけど、それで解決した問題なんか片手で数えるほどしかないような気もしなくはない。つまるところエリーティズムは問題解決にならないというか。
制作だと感情の問題はとりあえず留保しておいて、やっぱり感情がポイントか?という雰囲気になったら頑張る、みたいなのあるな。
toreytak.iconさらにつけくわえるならば、言明(statement)を表すという行為が、それまでの事態の解釈を再定義するという説明も付けくわえることができます。(社会学者 N.Luhmannによるシステム論の一部です)
言語に出てきたものだけを見て「キラーワード」として退けるのは、それはそれでキラーワード的(というかワードによってワード以外のものをキルしていないか?)
あるいは離婚を切り出された勢いで生み出したこの思考こそが、相手から逃げ道を奪うためのある種のメタな「キラーワード」になってはいまいか?
怖いことを言う、が反論はできぬkbyshwtn.icon
言い難い情動は本質的に重要、はわかるのだが、他者からぶつけられたときのアプローチがわからんのよな。kbyshwtn.icon
言葉を介さない反射行動を心がけるべきなのか、ただ余白として残すべきなのか、言語的に介入していくべきなのか。
ファニーな話なら「一緒にゲラゲラ笑う」で済むのだが。
一人の人間が情動を大事にするのと他者の情動にどう対処するのかでは話が異なってくる。
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相手の情動をどう確保するか、みたいな話は一旦受け入れるぐらいしかできない気がしてます。
そのうえで、自分ができることとしては自分の情動を正確に伝えることな気がします。
「どうしたら受け入れることになるかはわからんけど受け入れたいと思ってる」ぐらいの手前のことをちゃんと伝えるのが一番クリティカルかつ限界でそれ以上はもう運ゲーと思ってます。が、意外とこれが難しい。
ショックだった、とか悲しい、とか意外とまっすぐ言えない。
この例ではないが、起こっている人は自分が何故怒っているのかわかっていない、みたいな状況に陥りがちでちゃんと自分に向き合ってその原因をまっすぐ伝えるみたいな省察の技術と勇気を出すのが最善かなと。
受け入れたつもりでも「受け入れられた感じがしない」みたいなバリア張られると、結局そういう行為を非合理に招く2人の関係の歴史が悪い、修正不可、みたいな元も子もない話になってしまう。まあ世の中には「取り付く島もない問題」がたくさんあってその一つになっちゃいました、ってことなのかもだが。kbyshwtn.icon
これは別の問題なのだが、情動を大事にすると表明する割にあんまみんなそれ上手くなくね?という疑いがある。
真にそれを本質と捉え尊重するなら、言語的思考と情動的思考とに優劣をつけない(もっとラディカルには区別を認めないとか?)ことが「上手」ってことになるのだと思うが、なぜそんな卓越した術をなんのトレーニングもなしでできると思ってんだ?情動にも言語にも鈍感過ぎやしないか?みたいな。
情動が大事みたいなことを「言う」のは半分憧れみたいな言説だと思ってます。自分もそうだし。Kai.icon
「言う」ことはできるが、結局情動を重んじたことになることがわからんみたいな感じ。
大切にするべき情動は自分のものであって、他者の情動は行為として受け入れるみたいなことしかできないでしょという気もする、だいぶスピノジスト的な感じですが。そのへんをちゃんと切り分けて情動の話ししてる人あんまいない気も。
あと、情動が大事論は単に情動が「あってしまう」ことをちゃんと直視しようねってことに尽きる気もする。
何かを言いたい、こだわるってしまうことに理屈で武装するのではなくて、根本に「あってしまう」情動にちゃんとアクセスしようとしないとこじれるよ的な。
まあこの居直りはわかる。俺も内心はそんな感じだけど「考えれば考えるほど」難しいのであんま言明はしなくなった。強いて言うなら「信仰心を持ちてえ」と言うくらいだな。kbyshwtn.icon
まあでも普段からある意味ではストイックな考え方してるやつが、たまに「僕はこう感じてるし思ってるんや」とか言ってもあんま信用されなさそう、みたいな感覚は普通にあるから、毎日フィールを吐き出すべきなのかもしれん。
意外と全く伝わってないんですよねフィールって…Kai.icon