『物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために』
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(著)難波優輝
新書 – 2025/7/17
序章 人生は「物語」ではない
▼物語篇――物語の魔力と危うさ
第1章 物語批判の哲学
1 他人を物語化することは正しいか
2 自分語りの罠
自分語りは本当に自己理解に寄与するのか
就活の面接における自己の再編成
他人のために物語化することの不愉快さ
3 感情と革命
4 キャラクターをアニメートする
▼幕間――物語から遊びへ
▼探究篇――物語ではない世界理解
第2章 ゲーム批判の哲学
1 人生はゲームなのか
人生をゲーム化することの良さと悪さ
「人生を未来から逆算して設計する」というムーブが可能なのは人生をゲーム的に見ている。
労働や活動についてのゲーム的言語「成長/現状維持」「課題/挑戦」「仕事ができる/できない」「努力/怠惰」「勝つ/負ける」…
松永伸司:「ゲームが人生をシミュレートするのではない、人生がゲームをシミュレートするのだ」
オスカー・ワイルドのモジり
ゲームの言葉で現実を理解すること
人生を攻略すべき対象であると考える。
各ステージには明確なクリア条件があり、失敗すればゲームオーバー。
人類はもっと死にゲーをやるべきでは?Kai.icon
このメタファーが前提とするのは、人生の諸問題を数値化しうるという発想。
マックス・ブラック:ある戦いをできるだけチェスの用語を使って描写するとすると、ある面が強調され、ある面が無視され緊張感が増す。
p111 メタファーは常に何かを際立たせ、何かを隠す。
フラグ、ガチャ、無理ゲー、MP
資本主義を正当化する遊び
人生はゲームである、というメタファーが正当化する資本主義社会の富の不平等。
ミゲル・シカール:「遊び心資本主義(playful capitalism)」私たちの社会が資本主義を正当化するために「プレイ」を役立てている。
p113 シカールは遊び心資本主義を、利潤を引き出すために必要な抑圧的インフラ・装置に対して、ユーザー(労働者)が批判的に関わることを妨げるために、ソフトウェア(労働)との相互作用を「プレイ(Play)」の形態に変える、資本主義の種類や様式だとしている。
Amazon倉庫の評価におけるゲーム性の導入。
私たちには資本主義しかないのか
p114 プレイは伝統的に、ルールの自発的な受容に基づく自発的な活動であると論じられてきたため、プレイを資本との共犯関係のために道具化することで、プレイを自発的な行為のように⋯⋯感じさせてしまうのである。(Sicart 2021)
「人生はゲームである」というメタファーは、資本主義リアリズムを補強するために役立てられてしまっている。
資本主義の支配は、資本主義を私たちが正当化することによってしか正当化されない不良品である。
2 ゲーム的主体と力への意志
ユールのゲーム的要素
p117-118 ①「ルール」 ②「可変かつ数量化可能な結果」 ③「結果に対する価値設定」 ④「プレイヤーの努力」 ⑤「結果に対するプレイヤーの[感情的]こだわり」 ⑥「取り決め可能な帰結」 (ユール 2016,50-61)
意味を求めるためのゲーム化
「今の仕事にどんな意味があるのかわからない」という悩みは、仕事を通じて自分の介在価値を見つけていき仕事の意味を見つけることで解決する、自分自身で意味をもたせるべきという言説
ニーチェの力への意志
ショーペンハウアーなどのニヒリズムは、一階の欲求(ex,なにかを所有したいというベタな欲求)と、二階の欲求(ex,何かを欲求している状態に有りたいというメタな欲求)が同時に達成することができないから幸福は不可能であるという。
ニーチェはむしろこのゲームの終わらなさ自体を楽しんで小さな障害を超え続けることで幸福を得るということを提案。
労働文化においては力への意志にあふれていて、「一階の欲求」の是非を問わない。
一階の欲求への無関心は新たなニヒリズムを招く。アウシュビッツ ガス室に喜びを感じることも可能になってしまう。
ゲーム的主体でない生き方
例えば「世界を良くするため」のような長期的な一階の欲求を基礎に置く。そのうえで、二回の目標の達成を問わない。
バランスの問題なんだろうが、それでいいのか?感もあるKai.icon
グエン:ゲームプレイ主体のエージェンシーと日常生活のエージェンシーの区別
ゲーム内のゴールは「勝利」「得点」のような明瞭な目標はその外では最終目標として機能しない「ローカルな目標」であり、人間が持っている「持続的な価値観」とははっきり区別されている。
ゲーム的規律型社会
あるゲームから別のゲームへ移動し続ける社会。勝手に競わされているのに、没入しないと生きづらくなる。
3 競争しながら、ルールを疑う
RPGという物語とゲームの合せ技で人生を理解することの危うさ
「ゲームデザイン」という実践
単に人生をゲームと考えると、社会制度や経済制度、道徳的規範を変更不可能なルールと捉えてしまう。
ゲームにはハウスルールの追加やMODなどの遊び方が少なくない。
「ゲームの外に出て、デザインから組み立て直してしまう」姿勢。
自分が勝てればそれでいい、というゲーマーとしての徳だけでなく、ゲーム全体をより良い方向へ調整するという徳を身につける必要がある。
ゲーム内在的批判
ゲーム的メタファーに問題があるならむしろ積極的にプレイして機能していること、問題を考えルール変更を提案することが有効。
コンテニューボタンを押し続ける
勝つために負けそうになったらリセットするのは逃げ。失敗は失敗としてコンテニューする。
第3章 パズル批判の哲学
1 陰謀論と考察の時代
考察
定義:作品に特定の正解となる解釈があるものとして作品を解釈する実践を指す。
批評はむしろ社会変革などの目的や表現の一般化や価値付けを行う。
陰謀論:秘密裏に共謀する複数のエージェントの因果関係を伴う出来事の説明案であり、その目的はしばしば、または通常、邪悪なものである。(Feldman 2011,5)
ダニエル・ムンロなどによって物語的解釈がされてきた。
陰謀論と考察、プロセスの快
自分で謎を発見し、それを手掛かりから分析して一つの答えを得るという「認識論的なプロセス自体」が美的経験を与える。
ジェレミー・キリアン:人が陰謀論に惹かれるのは「探偵小説」的構造や語り口がもつ美的魅力によるもの。
「気づく」こと自体の快感
古代から続くパズル的な世界認識の系譜、一つの本能
パズル的自己の最新系が考察と陰謀論であれば、パズルを分析することに意味がある。
2 パズル化するポストモダン
答えなきパズルはありうるか
先行研究を踏まえたパズルの特徴
p150 「一意な答えがあり、答えや答え方が直ちに明らかではなく、解決にあたって認知的プロセス(推論、論理的思考、パターン認識、創造性)を要する問い」ということになろう(cf. Karhulahti 2013)。
パズルの美的経験のフェーズ
1、正解がただ一つであること
集中、不満を解消してくれる答えを期待することができる
正解があることを確信しているからこそ難しくてもある程度付き合える。
逆に正解があることを信頼できないとパズルといえない。
2、「じりじり」を経た「思いつき」という美的経験
解決されることが約束された不快感
3、答えがわかったときの「すっきり感」
すっきり感はジリジリを経なくても感じることができる。
4、エレガンスさ
パズル解法の純粋さ、問題提示の仕方の明瞭さ、謎の仕掛けの美しさ、解答の簡潔さ
パズルをあたかも工芸作品や芸術作品であるかのように味わうモードに関わる感覚
世界をパズル化する人々
ヴァリ=マッティ・カルフラハティはRPGは物語とパズルとゲームが複合したジャンルであると主張。
プレイヤーに世界への興味を喚起させ、複雑に入り組んだ物語の断片をつなぎ合わさせることで作品への没入を濃密にしていく。
物語とパズルの交差点としてのデータベース
東浩紀の『動物化するポストモダン』におけるデータベース消費概念は、考察や陰謀論の消費様式と近い。
p158 細部の設定やデータを寄せ集め、再編成することで「ハッとする」快感を、「DIY的に」得ている。
世界をパズル化する主体はポストモダン的消費者として読める。
「正解はただひとつ」の世界
リ・ジニン『アニメの知識文化』
アニメの特徴を「サイバネティックな遊び」と定義。膨大な情報を制御し、トゥルーエンドにたどり着くかという遊び。
STEINS;GATE
コミュニティ単位でのルート分岐の整理とwiki化。
情報の氾濫とコントロールへの欲求が同時に走る構造は、サイバネティックな制御メカニズムそのものを体現している。
p164 これは、「カオス(複数可能性)とコントロール(唯一性)とのあいだを揺れ動く」サイバネティックな欲動だ、とリは論じる。表向きには無数の可能性(増殖するストーリーライン、「世界線」)があるかに見えて、その背後では「唯一無二のゴール」や「真のエンド」を強く要請する構造を持つ。膨れ上がる情報エントロピーを、繰り返し制御・最適化しようとしながら「トゥルーエンド」を目指すこの遊びのモードは、「パズル的自己」と呼んでいいはずなのだ。
複数の物語の相互参照や影響などのメタ的な情報でカオス化すると、一元的に理解したい欲求が高まり「フィードバック型の学習ループ」に没入する。
3 答えなき、なぞなぞとしての世界
p165 世界をパズルに見立てる思考の過ちとは、世界を見くびっているところにある。
世界の問題が解けないという事実そのものが、私たちを解釈に誘い続け、考えることの意義深さを与える。意味がないからこそ、いつまでも問い、一つ明らかになるたびにまた不明さが増える。世界はますます謎めいて魅力的になる。
それな!!!!Kai.icon
すっきりできない居心地の悪さを味わう能力としてのパズル的徳を身につける必要がある。
最良のパズル的態度の一つである、C・ライト・ミルズの社会学的構想力
p168 社会学的構想力とは、個人的な経験(トラブル)と、構造的・制度的な次元(イシュー)とを行き来しながら、「自分がいま直面している困難が、果たしてどのような社会的文脈によって生み出されているのか」を考える力だ。
p170 つまり、パズル的な最良の態度とは、謎解き(問題解決)の「じりじり」を愛する探究心を持ちながら、社会的構想力によって個人の経験と社会の構造を往復し、「ハッとする」ことを味わいながらも、一つの単純な答えに固執しない柔らかさと、再び「じりじり」を味わい、解けなさと共に生きる粘り強さを兼ね備えることにあるといえる。
第4章 ギャンブル批判の哲学
1 人はなぜギャンブルに飛びこむのか
ゴフマンのギャンブル研究
実際にディーラーとして勤務。
論文「アクションのあるところ」
人々は自分の性格を発揮するためにギャンブルに参加する。
アクションを求める人にとって生活は小さなエピソードのつながりで、生活のリズムはその事柄の刺激の強さによって高揚する。
p175 私がパチンコを好きな理由は、「抽選が受けられるから」でございます。抽選を受けることが大好きなんです。だって皆さん、毎日寝て起きて仕事に行ったりするだけでは、意外と抽選って受けられないものじゃないですか。(岡野 2022)
p176 そうして抽選を楽しんでいるうちに、徐々に当たり外れなんてどうでもよくなって、本質がずれていき、「どっちだろう?」とひりひりする時間を軸にして生きるようになってしまった人間、それが私でございます。(岡野 2022)
岡野陽一が引用されてるのウケるな
退屈の研究 マリウシュ・フィンキェルシュタイン
状況的退屈:目の前の状況に関心が湧いて来ず、そこから自分が離れている状態
目の前の状況に関心が持てない理由の一つ:「その状況に自分が必要でないから」
慢性的退屈:状況的退屈の慢性化
実存的退屈:人生全体に対して退屈している状態で、関心を向ける対象も向けるべき方向性もない気分。
2 ギャンブラーが生きる「現実」
ギャンブルのひりつきと崇高
ギャンブル的主体は運を支配しようとする。
不確定性を減らそうとすることで理性では把握できないコントロール不能領域の輪郭が浮き上がる。崇高な経験。
バタイユぽくもある。Kai.icon
ギャンブルの明晰なルールはその不明性をあぶり出すためにある。
宝くじはギャンブルの一種であるがコントロール可能な部分がなくひりつきがない。
カジノや競馬などは確率が見えてくる。
p184 ギャンブル的主体にとってのギャンブル的な喜びとは、ある設えられた空間で、確立の手触りを感じることなのだ。
人生を「切断」するギャンブル
編む物語と偶然に自己を賭けて切断するギャンブル
不確定性を絞り込む必要があるためゲームでないギャンブルは存在しない。
そのためゲーム的主体でないギャンブル的主体も存在しない。
ギャンブラーにとっての「現実」
オーレ・ビャウ:資本主義社会では、貨幣はしばしば「崇高な対象」として働いている。(Bjerg 2009)
人々はお金を単なる交換手段以上のものとして想定しがち。
ギャンブルによる切断
資本主義的なM-C-M(貨幣-商品-貨幣)と言う循環を解体し、M-R-M(貨幣-現実-貨幣)という偶然を介した直接的なやりとりに変える。
ここで言うRはラカン的な「現実界」を指す。
象徴界の今のシステムが存在しない、賭けるための金になる。
貨幣の崇高が解体されることで、資本主義的な日常に回帰するのが難しくなる。
ギャンブルにおいては、貨幣よりも「どこまで行っても見通せない偶然」の方が崇高さとして際立つ。
p192 ギャンブラーは、偶然と結びつくことによって、象徴的秩序を象徴しうるもの以上の何かに開いていく。これは、シャーマンが骨を投げて霊と交信することに似ている。ギャンブルでは、それ以外では見えない何かが姿を表す。この何かこそが「現実」であり、「現実」とは無である。そして、まさに無であるからこそ、何にでもなりうるのである。(Bjerg 2009,57)
3 ギャンブル的生の解放
ギャンブル依存症はギャンブルそのものにとって生み出されたのか。
むしろギャンブル的な行為を行える場がパチンコやカジノに囲い込まれていることこそが問題なのではないか。
ギャンブル的な生の実感を得られる場所はごく限定的。
p196 ギャンブルと資本主義の違いは絶対的なものではなく、程度の問題である。株式市場での取引も、お金の価値が失われるという同様の経験をもたらす可能性がある。これは、先物やオプションの取引では特に顕著であり、投資額に比べて損失や利益が指数関数的に変動する可能性がある。(Bjerg 2009,61)
ギャンブル的な労働というのは、「現実界」を必死に「象徴化」しようとする努力。
労働者として「示しがつかない」
p198 私たちにできるのは、ギャンブル的主体が真にカオスと戯れることを資本主義的に搾取しないことであり、同時に、彼らが秩序の側に帰ってこれるようにもしておくことだ。
不合理で愚かに見えるかもしれないが、それは象徴的秩序の側の主体の偏見でしかない。
第5章 おもちゃ批判の哲学
1 原初、世界はおもちゃだった
p200 おもちゃ遊びは、大人が最も注目しない遊びだ。それ以上に、消し去ってきた遊びだ。
p201 結論をいえば、おもちゃ遊びはすべてを破壊する。おもちゃ遊びは物語を破壊し、意味を破壊し、ルールを破壊する。
それはデモーニッシュな、悪意を持った破壊ではない。あっけらかんとした破壊だ。赤子がするような、楽しい破壊である。物語が積み上げてきた因果や、ゲーム大事にする勝敗を、パズルの謎解きを、ギャンブルの不明性を、すべておもちゃにしてしまう。けれどもそれは、ある意味で「愛すること」でもありうる。
大人がする現代のおもちゃ遊びはネットミーム遊びである。
おもちゃ遊びの特徴
1.脱目的性:偶然で目的がない
2.中動相性:おもちゃが私になり、私がおもちゃになる。
西村清和「遊ぶという行動形態は、常に、同時に遊ばれることでもある」
3,同調と浮遊:軽やかさと裏切り
最もプリミティブな遊び
すべてをおもちゃ化するという姿勢しかない。
クリス・クロフォード:遊び道具/おもちゃ
道具を使うことに明確な目標がない場合はおもちゃ
アラン・レヴィノヴィッツ「おもちゃには、遊び方についてのルールも、組み込まれた目標も、プレイヤーの進むべきスキームもない」。
モノ化/おもちゃ化 の悪さ
モノ化は利用する側面が強いのに対して、おもちゃ化は対象丸ごと遊びの道具にしてしまう。
おもちゃ化の悪さの体現としてのひろゆき、Vtuber
切り抜き・誹謗中傷めいたからかいを通じて消費する側はVtuberたちを軽やかに扱う。
2 すべてを破壊する「おもちゃ遊び」
おもちゃ的な人物は自分語りを批判する存在となり得る。
悲劇的なキャラクターとしてパフォーマンスする人の言い間違いに目を輝かせて話の腰を折るやつ。
やってまうわ。。。Kai.icon
ゲームも破壊。
ボードゲームのコマで別の遊びをし始めてしまう子ども。
p213 「で、何がしたいの?」とゲーム的主体がおもちゃ的主体に問う。将来のことをどう見据えるべきかを教えようとしてくれる。
だが、おもちゃ的主体には未来にやりたいことなどそれほどない。いまやりたいことはあるけれど。そう答えるとゲーム的主体は匙を投げる。こいつはやる気がない!人生というゲームは遊びじゃないんだ!つみたてNISAもしなきゃいけないし、老後に向けて戦略的に振る舞わなければならないんだぞ!
パズルの核である「唯一の正解にむかうじりじりと思いつきのプロセス」自体を破壊する。
ギャンブルの「賭ける」という行為の真剣さを破壊する。
おもちゃ的主体はノリで適当に賭ける。
ギャンブルの崇高さをシラケさせる。
リスクそのものを雑に扱う楽しみ。
p215 おもちゃ的主体は、楽しげな気分のまま、真剣に積み上げられたシステムを倒し、流用し、故意に歪める。子どもがブロックを積み上げた途端に崩して遊ぶように。破壊と想像は同じことだ。
そして、子どもがそうであるように、おもちゃ的主体はあらゆる人に怒られる。あらゆる真面目な遊びをする者たちの邪魔をするからだ。
3 遊び遊ばれ、ニルヴァーナ
フェミニズム哲学の第一人者、マリア・ルゴネスの「『世界』を旅すること("world"-traveling)」概念
「遊び心、『世界』ー旅行、そして愛する知覚」
「世界」とは環世界のような社会的・文化的文化的な空間を意味する。
マイノリティは常にアウトサイダーとして扱われ、「世界」を切り替える能力が生存の術として不可欠になる。この能力が「『世界』を旅すること("world"-traveling)」概念である。
「世界」を行き来することで、相手を主体として理解する努力が欠かせない。この態度を取るためには「遊び心」が大きな役割を果たす。
p219 ルゴネスが肯定する「遊び心」は、相手や状況に身を委ね、自分が持っているものの見方、考え方を一時的に解除する態度を示す。
p219 自分も相手も固定化された存在ではない。オープンさ、不確定性への寛容さ、自分を過度に重要視しないこと、馬鹿げたことや冗談に身を投じる柔軟性。これがルゴネスの遊び心だ。
異なる価値観や規範の中で生きる相手に対して、相手の想定外の行動や発言を柔軟に受けとめ、自分も一時的に別の自己と遊んでみること。それは「演技」や「偽り」ではない。相手の「世界」に一度旅してみること。
この態度が愛や連帯を可能にする。
人を「やさしく」傷つける
すべての弄ぶ行為が愛につながるわけでなはない。しかし、おもちゃ的逸脱はおもちゃ遊びの相手と共に新たな存在の可能性を見出す遊びともなり得る。
ときに暴力的になったり、倫理的な危うさもあるが、おもちゃ遊びの破壊は「愛する知覚」の実践と矛盾しない。
同じ「世界」を生きていれば摩擦は少なくなっていくが、原理的に全く同じ「世界」に住むことは不可能である。
この摩擦を見て見ぬふりできるのはマジョリティだけである。
p223 けれども、誰もが互いの「世界」を行き来して、摩擦し合うとき、そのとき、「愛する知覚」がそこここで実践されることになる。自分たちの「世界」に安住するだけでなく、他の「世界」との摩擦を見出して、その摩擦をむしろ遊べるようになること。
まじでこれすぎるKai.icon*5
新しい「責任」や「倫理」のかたち
責任とは普通、何かを「グリップ」することを意味する。
この説明簡潔だけどすごいいいなKai.icon
それが倫理の基礎になる。
おもちゃ遊びは、責任感を持たないという責任感がある。
p224 自分の遊びに固執しないこと、他の人の遊びに首を突っ込むこと、摩擦の中で遊ぶこと。それがおもちゃ的倫理である。
p224 責任感を持たない責任感。それは一つの遊び方に没頭しすぎない倫理である。
まじでハグしたい。敵は同じだ!!!!Kai.icon
p225 それは共感の連帯というよりも、その場所でともに遊ぶ連帯だ。
終章 遊びと遊びのはざまで
あとがき
参考文献
さらに考えたい人のために ブックリスト