崇高
カントによれば「ただ不快を媒介することによってのみ可能となるような快」
①われわれは強大な自然や複雑な人工物を前にして、そこから一定の「快」を感じるとともに、その十全な把握の不可能性に起因する「不快」を感じとる。②この「快」と「不快」によって織りなされる複雑な経験が「崇高」の大きな特徴である。--ここまではよいだろう。だがそればかりではない。カントは、ここからもうひとつのステップを用意する。③今しがた見たようなプロセスにおいて、われわれはおのれの外にある具体的な対象を通じて崇高さを感じとる。④しかしその崇高な感情は、結果的に人間の内なる理性への尊敬へとすり替えられる。--そのように言うのだ。
カントの言い分は、わかりやすく言えばこうである。われわれは、自分のまわりにある自然や人工物のような「対象」こそが崇高なのだと考えるきらいがあるが、厳密にはそれは正しくない。むしろその場合の崇高さは、目の前の対象を通して崇高さを感じとる、われわれの「心」のうちにこそあるのだ。
僕の追求する美はある種の崇高なのではないかという指摘を教授にされた