『哲学は何ではないのか ――差異のエチカ』
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新書 – 2025/10/8
序論 これまでとは異なる哲学へ
p8 本書では、近代の意識中心主義的な人間の理解に対して、未来の人間の存在意識として、思考の重要性を提起する。人間は決して、この地球上の生命の最終形態などではない。人間に限らず、生命は常に外部の対象性を解釈し続け、その形態を乗り越えようとするからである(ニーチェ)。人人はこうした意識を持ったことがあるだろうか。こうしたことを考えたことがないなら、人間はこの自然界で最高の、そして最終の生命形態だと思い込んでいることになるだろう。何と傲慢な動物であろうか。 哲学は時間の様態としての現在とも過去とも結びつかない。
p10 現代思想はこうした問いなしに哲学の歴史の中に既に登録されていた様々な思考の仕方に改めて新たな衣装を着せて展開しているだけである。しかもそれはより多くの典型化された仕方での、つまりより多く歴史化への意志に溢れた仕方での「現代」という意味にほかならないのだ。 系譜学の様相を有しているように見えても、実は家系図の体系化にすぎない。 現代哲学から区別しようとする哲学のあり方
(1)思想の形式化によって消費可能になり、それを通した類型化によって、既存の社会問題と直ちに接続可能になるような哲学の現代思想化ではなく、いかなる時代においても共通に存在していた問題を、まさに現代において別の仕方で提起する哲学。
(2)相変わらずプラトン主義的な二世界論を前提としたような、その限りで知性と意志の区別を大前提としているような<科学/道徳>の中での哲学展開ではなく、知性と意志を同じものとして理解する限りで成立する理論と実践が不可分になる思考式の哲学。 (3)諸々の思想の序列と経過、あるいは頻度と共振の中で展開される歴史学的なマジョリティの哲学ではなく、価値転換の思考を必然的に含んだ系譜学的なマイノリティの哲学。
差異についての認識、同時に差異そのものの肯定に関わるもの。
スピノザ的に、知性と意志は区別不可能なものであり、ものを真に認識することは、そのものについての否定あるいは肯定を含んでいる。 差異の哲学の観点では、多様なものを理解すると同時にそれらの差異を肯定することである。
第一章 哲学は何ではないのか
差異を否定的にではなく、肯定的に理解すること
p50 否定は肯定と対立するが、しかし肯定は否定とは異なる。われわれは肯定に関してはこの肯定を否定に「対立するもの」として考えることができない。そうでなければ、これは、否定的なものを肯定にすることになるだろう。対立は、否定の肯定との関係だけでなく、その限りでの否定的なものの本質でもある。そして、差異はその限りでの肯定的なものの本質である。(ドゥルーズ『ニーチェと哲学』363頁)
対立や反対は、実際には差異や対立させたり反対のものにしたりする操作と不可分であり人間の恣意的虚構概念すぎない。
第二章 比較する思考の問題点
存在論は、日常的に有している「存在」についての或る了解の仕方と評価の仕方があり、それが哲学における存在論として概念化、言語化され、体系化されてきた。
この意味で存在論は価値論と不可分になる。
「存在」という概念は単に人間が物事を比較するための虚構的なパースペクティブでしかない。(スピノザの完全性、不完全性は思惟の様態にすぎないという議論)
比較は基準や規定、使用価値や交換価値などの価値基準が前提となってのみ可能。
比較に長けた動物としての人間
p61 しかしそれ(不完全と呼ばれるもの)は、そのものが我々が完全と呼ぶものほどには、われわれの精神を変状させないと言うだけで、何かが欠けているとか自然が過ちを犯したとかいった理由によるのではない。なぜなら、事物の本性には作用、原因の本性の必然性から出てくるもの以外は何も属さないし、また作用原因の本性の必然性から出てくるものは何であれ必然的に生じるからである。(スピノザ『エチカ』第四部序言 195頁)
不完全性というないものを自然や事物に持ち込むものが人間という動物である。
「競争」は比較に依拠することで実現されうる最大のものの一つ
p64 競争の起源は、実はニヒリズムにある。なぜなら、競争は超越への欲望そのものの一様態だからである。(・・・)
このようにして、存在するものの「多様性」を前提あるいは素材としつつも、それらの間に否定に基づく体系的な存在論と価値論の位階序列は、至るところでその力を発揮している。これは、つにね各時代において修正され変形されるものであるが、いかなる時代いかなる社会であれ、その基本構造はけっして変わることなく存続している。人間の歴史の一つにニヒリズムの歴史があるのではない。人間の歴史のそのものがすべてニヒリズムの系譜のもとで成立しているのである。
「存在の多義性」という思考様式
これまでの哲学の歴史の中で存在論の中心にあり続ける論
存在の多義性は存在するものの多様性を、否定を媒介にして序列化し理解することで成立する「存在」概念。
「存在する」という言葉は主語によって意味が変わる。
神、人間、動物、無機物…と精神と身体の優劣関係が存在の序列に本質的に関わっている。