スピノザ
Kai.icon個人的なスピノザ哲学の理解
すべての存在は神の変状であり、その様態である。
神に外部はなく、神自身による法則に基づいて様々な様態として能力を表象する。
人間は神の内の一部分が延長属性(物理的身体)と思惟属性(知覚とか考える能力)として表現されているみたいな解釈。
神と書かれてるが、外部がないので存在一般やそれについての観念等すべて含んだ総体を示している。
この宇宙に存在するものは物理法則にしたがって全てが宇宙の中にある材料だけで出来ているということ。
すべての物は自己の存在を 実存させ続ける努力を行っていて、その力(コナトゥス)が本性である。 そのためにすべての事物は 力の関わり合いとして表現できる。→ベルクソン、ドゥルーズのラインに影響与えたりしてる。 それぞれの存在者はその他の事物から力を受け、コナトゥスが大きくなったり小さくなったりする。
存在者の倫理的態度としては自分のコナトゥスを増大させる事物と多く結びつくことを目指すと言うことに尽きる。 世界全体を力の配置と舞台設定してしまうことで、個体内で行われる力のつりあいと他者や環境の釣り合いが同じ説明できる。
環境も他者も自分のコナトゥスを増大したり減少させたりするものとしてあるので、単に自己中心的にな倫理観にならなくて自分のコナトゥスを増大させる状況を構築することが存在論から導けるっていうのがヤバい。
それぞれの個体のコナトゥスは外的、内的に変化するので、善悪というのはその瞬間のコナトゥスが大きくなるか小さくなるかでしかなくて、実験するしかない。
ある意味で実験主義なのも好きですね。
スピノザは自由についても責任概念についても面白かった気がします。(気が向いたら書く) 存在論から倫理への流れがスムーズで飲み込みやすい。
もはや倫理=物理法則というか、存在のメカニズムとして倫理が成立するみたいなロジックなのかkbyshwtn.icon
とはいえ、人間は神とは違って不完全な存在で、人間主観では偶然性が入ってくる余地があるので全然変ではない気がしています。
プロ倫の「終末論から帰結する人間の限界を前提にしたうえで、何が正解かは絶対にわからんが、比較の上では節制と天職を全うすることが一番有利」っていうプロテスタントの倫理のあり方は、大いなる意志とそれに対する人間の偶有性を前提におくとこういう倫理になるわな、っていうスピノザの倫理の導き方と近そうkbyshwtn.icon スピノザの言う神は人格神的なやつじゃないので、あくまでコナトゥス(人間の感情としては欲望)を大きくして活動能力を大きくしていくっていうことですね。
プロ倫読んでなくてわかんないです笑Kai.icon
↓これだけ知ってれば大丈夫
たすかるKai.icon