「よい」とは何か
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よかった、かっこよかった、面白かった
音楽を聴き始めてからずっとこれらの言葉の意味について考えている気がする。
「好き」もこの辺の問題に近接する
作家的な目線で、本当に作りたい音楽(エレガントミュージック)は1つか2つくらいの焦点に絞り込まれる。 もちろん他にも色々あるがどんなプロセスにおいても参照点になるアーティストはこの2つだけ。
作家によってはジャンルかもしれんし、機材かもしれんし、時代の雰囲気かもしれんが、ともあれ「この曲よかったわ」で済ませるような音楽とは一線を画す重要な参照点があるはず。
クライテリアの話なのか、選好の話なのか。
、、、みたいなやり方で意味に迫ろうとすると言葉に背負わせる機能が明晰化されるだけで、肝心なものが遠ざかる印象がある。
結局、趣味判断/価値判断の問題に収束したが、それは過程の話で、ここで肝心なものといってたのは「何にキレてるのか」だったのかもしれないkbyshwtn.icon
あと趣味判断的には良くても価値判断的には良くないものを愛情の一点突破で、批評や制作を通じて価値判断的に良いものに創り変えたいんだ、ということがわかったのでよかったkbyshwtn.icon
作家とは愛で趣味と価値を橋渡しするのを生業にしてる生き物なのかもしれん。
𝓛𝓸𝓿𝓮…
これすごい分かるnozakimugai.icon
その翻案が結果上手くいっているのか、という部分を「良さ」の判断基準にしている時もあるかも
離れた距離にあるリファレンスを両目に入れてる感覚が常にあるんだけど、それは多分翻案の成否を気にしてるからなんだろうなkbyshwtn.icon
知りたいのは自分にとってのよさなのか?
それは知ってるし、知ってることがいつでも変わりうることすらも知ってるので別にどうでもいい。
自分や誰かが「良い」という言葉で自らの軽率さを露呈させてることに腹が立ってるだけなのかもしれん。
自分が「良い」というときの「良い」は「印象に残りました。君もどうぞ。」くらいの意味合いしかもってない/もたせてない
あれこれ説明付けた上で「良かったです」と言うが、印象に残った後、印象を振り返ってるだけのことが多い。
印象に残らん曲が後々になってその価値を現わしてくること、枚挙に暇なし。
まあでも軽率に「印象深かったわ」というの別に悪いことじゃない
印象止まりなのが雑魚い。
その印象を深ぼるか、後々印象に残ったもんかき集めて思考するかなんかしないと雑魚。
どちらかというと前者の方が大事だと思う。後者は図式的な発想に陥りそう。
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ストイックだ…
印象止まりなのが雑魚い、というのはわからなくもないですが、自分は言語化できずとも記憶されていることは多いのでは?とある意味無責任に考えているかも。
「良い」っていうのは一般化されざるもので、「印象に残った=良い」ぐらいが言葉としての限界な気はします。
広範囲に届いたりヒットする、またはアングラ的にでも影響力を持っている、というのは「良い」という言葉とその運用とは全く別の問題なのでは?という気もする。
「良い」ではなく「良かった」しか存在しないのでは?
個々の経験の結果の集積でしかない派。
さわりしか読めてないけど参考になりそうな美的価値論入門記事。 言葉の運用という側面で考えると、、、kbyshwtn.icon
「印象に残った」ことを「良かった」と言い表すのは、「印象に残った」という表現の堅さを回避したい気持ちと、なるべくポジティブに表現したい気持ちが反映されてる気がする
なので「良い」が使いやすい言葉なのはよく分かる
ただ、「悪い印象が残った」とか「印象に残らなかったがあとから価値を見出すようになった」みたいな事象にこそ主観的には重要な事柄が隠れていたりもするので、「良い」ばっか言ってないで「クソだった」とか「つまんなかった」ともっと言うべきなのかもしれない。
「良い」という言葉から「印象に残った」というヌルいニュアンスを消し去るために、本当に美的価値を感じたものにだけ「良い」と言ったり、「印象に残りはしたが別に良くねーわ」と言いまくるという好戦的な道もある。
運用の話とずれるが、実際のところ「印象に残りはしたが良くない」の体験めっちゃ多いんだよな。
「好きだけど良くない」も多い
思い出枠に入ってるタイプの音楽とか。
懐古趣味は基本的に「良く」ないので、好きなサウンドだったとしても「良くない」という判断を下す。
この場合の「良くない」という判断の主体は自分ですか?Kai.icon
公共的な価値判断をする主体としての自分、が多分正確kbyshwtn.icon
「価値」という言葉自体に公共性がある気がしますね。「良い」という言葉が価値判断の言葉なのかはびみょい気がしますが。趣味判断(フェチ判断)と価値判断の違い?Kai.icon
そうね。価値は基本的に公共のものとして取り扱われるべきな気がするkbyshwtn.icon
※超メタ(形而上学的といってもいい)な世界だと絶対的価値みたいな概念とか出てきちゃってややこしくなるからスコープ外とする
「これはとても「良い」!あなたも「良い」と思うはず(≒(公共的な)価値があるよね)!!」みたいな振る舞いをしてくる連中に苛立っているのかもしれない笑
僕はフェチ判断と価値判断をごっちゃにしたくない、という気持ちが強いのかもしれない。
とはいえ、その判断は明確に分けたいのだが、フェチとして好きなだけものを愛さないというほど過激ではないので、そいつからどうにか価値を見出す&救い出すんだぜ、みたいな愛情はある。
OPNのニューエイジ趣味とかBon Iverのフォーク趣味とかはそういう感じなんじゃない?と思ったりもする。
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公共的価値を帯びた「良さ」というものがあるとして、その「良さ」を持った作品を作るプロセスが必ずしも「良い」プロセスであるとは限らないのが難しいなと思う
「神秘体験は存在し得るがそのプロセスの非神秘性に目を向けなければならない」みたいなことを宮台真司が言ってた気がするけどそれに近い チ見てるとこれを感じる笑kbyshwtn.icon モジュラーシンセのライブがおもろいのか問題がたまにXとかで流れてくるの思い出しますね。モジュラーは触るの楽しいけどアウトプットが公共的良さにリーチしにくそう。。Kai.icon
確かに。そう考えると「良さ」を感じる主体がどこにあるかも問題
聴取側だけど創作者的立場に感情移入して「良きプロセス」を汲み取ることもあるけど、これが果たしてどこまで妥当なのか?
触ってる主体にとっては良いが、聴いてる主体にとってはまだ良くない。が、聴取者はモジュラーを触るという良い(であろう)行為に開かれている状態にはなれるので、モジュラーを演奏することにはショーケース的な公共的価値がある、みたいなイメージ。kbyshwtn.icon
モジュラーライブ/モジュラー動画が手段として最適かは別の問題として再検討すべき
その「良さ」が制作〜聴取〜感受〜思考のどの局面、どのインターフェースで発生したのか?によって分類することもできるかも?
反則技に感じることあるけど、まあ制作体験/聴取体験などの音楽に関連する行為それ自体が音楽というものの公共的価値を形成しているみたいなミュージッキング的な発想はこれの一形態かもkbyshwtn.icon 価値を形成してるというか、音楽それ自体がそうである、みたいな論法だったと思うが。
ミュージッキング概念、割とANT的なつまらなさがあるというか、価値判断ができないという部分が良くも悪くも射程を制限している感があるnozakimugai.icon
わかるkbyshwtn.icon
インターフェイスはインターフェイスでしかないと割り切って、最後の判断する主体にしがみついたほうが回り道しなくて済みそうkbyshwtn.icon
「印象に残る」ことと「良い」ことと「フェチい」ことの射程
単に「引っ掛かり」であることもある、ある意味不快なものが意識的に処理される中で「良さ」に転化することも多い
美学的に言うと「崇高」の問題?
作者が意識的に作ってたとしても耳を素通りしちゃうフックと、そうじゃないフックってあるよね、みたいなんあるkbyshwtn.icon
僕自身の思想としては結局最終的には修辞性に帰着するんじゃないかと感じる。 コンテキスト依存性?Kai.icon
特にファインアートやオルタナティブな音楽において作品の「強度」みたいなものを汲み取った上で「良い」と判断されることが多いけどその「強度」や「良さ」を表出するのは結局ある種のレトリックなんじゃねえの?という
これは上の宮台の話とも通じる
そういう意味ではモジュラーライブは修辞性の不在と言えるのかも。他者にリーチするにはレトリックが必要。
その上でレトリックそのものの美もあり得る、というのが自分の立場かも
樋口恭介、好きと嫌いが半分ずつくらいあるんだけど「構造素子」にはレトリック自体の構造的美みたいなものを感じた 純文学なり古典なりを読んでるときにこの感覚を覚えたりはするかもkbyshwtn.icon
価値とか趣味とか強度みたいなの、前に「絶対的」ってつかなかったら全部相対的な概念なのでレトリックで補強しないと存立しえない、って側面はあると思うkbyshwtn.icon
その上で仮固定しときましょ、っていう千葉雅也の立場は大人(リベラル)で偉いなと思ったりもする。 その上で千葉雅也自身がある意味修辞性の薄い自己満足的な創作行為自体を肯定しているのも面白い。センスの哲学の最後に「作れるものを作ればそれでいいのです」と書いてあって良かったnozakimugai.icon レトリックの発生の偶然性?を直視すると、自己満も肯定できるっていうのは元気でますよねKai.icon
レトリックが内在的に価値をもちうる、というかレトリックはレトリックとして使用されることによってのみ美的価値を帯びるようなものである、みたいな議論は、まあわかるのだが多分僕の趣味ではない笑kbyshwtn.icon
マテリアルから公共的価値を引き出す行為(創作)自体はレトリックにしかなりえない?Kai.icon
ヒューマニズムの立場からって感じだが、自身が人間をやめない限りor自死しない限りはYesな気がするkbyshwtn.icon
極論自分が石になれば、石それ自体が公共性を帯びる(あるいは世界から公共性が無に帰す)。
何かが形を持つ、ということに介在する力としてレトリックを考えると存在してる時点でレトリカルであるみたいな話になるし、バルトが目指した零度のエクリチュールの不可能性もそこに根がありそう 自然発生的なレトリック、無意識的なレトリックの美?
「自然発生的なのにレトリカルである」ということ自体が美しい?
バルトを参照するなら制度的な言語?を乗り越えるものとしてレトリックが高く評価されてるけど、じゃあ制度的無意識が生み出すレトリックはどうなんだという気もしてくるな。社会的行為と言い換えても良いkbyshwtn.icon 美しい社会的行為はあるのか?というか。
社会的行為は観察道具でしかなく現実に存在するものじゃないから問いの立て方が不適切だったかも。
作品そのものの美はある意味作家が完成とみなした時点で完成しており、それが公共性をもつかはその流通経路のレトリックの問題がデカいのかも。Kai.icon
確かに流通や消費のプロセスにもめっちゃレトリックの力が働くのはある
後付けされたジャンルや時代的文脈との関係性によって事後発生するレトリックもあるし
こーーーーれ無限ですkbyshwtn.icon
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勤務中だったから完全に話に入るタイミング失ったので、今ログ見ている
自分の話をすると、飽き性だから常に「良かった」と感じるクライテリアがころころ変わってしまう
音楽は特にその時のコンディション・ムードによって自らの判断基準が変わり得るから、例えば以前までDDS(death's dynamic shroud)良いと思っていたけど、今のクライテリアに照らし合わせると「あんまり...」となることが少なくない
それ故に、「良い」って極めてややこしい気難しい概念