欺瞞的結び
そもそも単純な相反する倫理対立にまつわる問いかけをしている場合がほとんどであるため当然こうなる
暗にこれを自覚している答えを求める気がない問いかけは極めて欺瞞的であり、相対主義・倫理学的なアプローチを用いらなければ有意な結論をもたらさない
バリエーションがたくさんある
保留でしかないが何かしらの取り組みは継続してそうな感じ
現時点での本来の結論が不服だがアンチテーゼを導けないときこのように書くと煙に巻ける
正直に書いたほうが主張がわかりやすいのでこのようにすべきではない
文化的な経年変化などによって解決する可能性があることに期待しているという表現か
最初の倫理的問いかけとこの結びに挟まれた情報はすべて一般性を失い無になる
@RikutakaMuse: 震災前のオシラサマ展の後、オシラサマアソバセでオシラサマの感想をお聞きしたところ、「行ったこともない博物館ってところに行って面白かった。が、誰も何もお供えをしてくれなかった。」と言われたので、今回は全てのオシラサマに小さいお菓子をお供えして展示作業完了。 https://pbs.twimg.com/media/GiDOAlYaIAAHIFy.jpg
@srgmtaro: これ、昨年のヒンドゥーの神像展行った時思ったんだよね。人々の熱烈な祈りの対象であったものが博物館に展示され、誰からも祈りを向けられることなく、上から眺められ好奇の視線に晒される。ああ、いかん。これはいかん。そう思って一体一体プラナームして回ったらえらい時間がかかってしまいました。 来館者の信仰の自由の侵害を避ける必要があり、周辺をぐるぐる回る言説に留まる @Yoquisi: @srgmtaro 信仰の対象を「展示する」ということの無神経さはずっと問題だと思っています。文脈から切り離して展示とかの、「切り離す」という思考の傲慢さ、無神経さ、不可能を可能だと信じている西洋的幼稚さが、結局消費文化へ転換させて破壊していく要因になっているとも。祈りを甘くみてはいけないですね。 もっと徹底的に対立すればいい
もっともヘゲモニーは獲得できないとは思う
相対的、客観的な信仰の記録として残ることは大いに歓迎される
@Langhans_gc: 「それ誤用だよ!」と突っ込めるうちはマシで、勢いを食い止められず誤用が完全に市民権を得ると「誤用と分かってて使いたくないし正しい意味で使いたいがそれだと他者に誤用の方の解釈をされる」という問題にぶつかり、自分の中で実質的にその言葉は使えなくなり、言葉が死んでしまうのがとても悲しい 新たな意味と用法の発生を止め孤立するときはじめて言葉の死が起こりうるのではないか
@tzlm_: 目にしてしまい,言及すべきか強く迷いましたが,わたしたちに課せられた義務だと思うので申します.かりそめにも言語研究の科学コミュニケーションをされているのならば,「言語の保全(language preservation)」と linguistic conservatism/protectionism は区別されるべきです. 苦手 残念 など