ポスト・トゥルース
There are no facts, only interpretations.
偽情報の道徳的責任を重視する必要はない
真偽はその1ビットのプロパティそのもので評価されるものではない
本質的に真実であることは、関連するあらゆる情報や概念と適切に噛み合うことから評価されるはずだ
これは逆もありうる
完全な検閲が実行されきった際など、真実だった情報のエビデンスが完全に失われればそもそも真実としての強度がない 情報は全く不可逆ではない
訂正は全くコストの無駄でなく、むしろ再検討によって価値を高める基本的な情報保全の工程と見ることさえ出来る
@banfuture: 僕はたぶんMDM天の音MAD史あたりから仲邑飛鳥/神長タクミさんが語る音MADの歴史を「仲邑史観」と個人的に呼んでいて、まあ偏ったものではあるが個人の語る歴史としての意味を鑑みて一定の距離で観察していたのだが、戦うべきところはちゃんと戦っておいた方が良かったのかなと最近は思う。 @yuiyui12322: ここだけの話なんですが、大学で学ぶあらゆる専門分野の内容の90%は市販の書籍に載っていて自習可能です それは不可逆だろうか
@maiko_universe: かくいう自分も我が身を振り返った時、大学時代に自衛隊と憲法とか歴史に興味を持って雑誌でも読むかとなった際に「なぜ『文藝春秋』や『論座』『世界』ではなく『SAPIO』や『諸君!』だったのか」と問われてても、「そりゃ格段に読みやすかったもん」としか言いようがないし別に後悔もしてないす @maiko_universe: それは保守本・保守雑誌が悪いというよりも「それがすべてだと思ってしまうこと」「部分的にでも左派のカウンターさえしていれば、左派よりも優れていると思い込んでしまうこと」であって、「保守言論、それすらも世界や言論の一部に過ぎない」と理解していればいいのではないかという風に思っている 試しにChatGPTやGrokで色んな美術書の内容を聞いてみたら全て間違っていました。
間違いを指摘してもその知ったかぶりを止めようとはしません。
AIには無知の知ができないという致命的な欠陥があるように思います。
kuguiartには無知の知ができないという致命的な欠陥があるように思います。