自己複製子の強弱
https://baku89.com/ja/遺伝子として生きるか、ミームとして生きるか
てっきり自分も言及していると思ってたけど、今確認したら別に書いてませんでした
生物・人間に纏わる万物の理論
だと信じ込んでいるcovelto.icon
自己複製のみがあり、それの特徴量は〈強弱〉のみであるということ
"強弱しか無い"というのはどういうことか
一元的に比較可能である
自然淘汰が起こる
以上である
他は無い
ここにおいて、遺伝子とmeme 模倣子を二分する必要はないのではないか
ドーキンスがあてた「自己複製子 Replicators」の語を両者に共通するものとする
あらゆる存在の自己複製的な性質は唯一の超越論的な性質として表すことができる
自分の認識が正しければマジで超越論だ
模倣についてボードリヤールを避けるとガブリエル・タルド
スーザン・ブラックモアみたいなそのまま文化人類学に持っていくアプローチはカテゴリーエラーが指摘される
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ミームは「遺伝子だけが唯一の自己複製子単位ではない」ということを説明する一例として登場した「目新しいイメージ」(A: pxvi)であり、もともと「文化はミームにより成り立っている」というような強い主張(B: p181)ではない。また、「単位ミームが何から構成されているか」(A: p301)については、遺伝子の単位でさえ厳密に限定できない(B: p217)のだから「自明ではないことははっきりしている」(A: p301)。さらに、「利己的な遺伝子」というアイデアが生物学上の新発見ではない(A: pxvi)ことと同様に、「ミーム」というアイデアは文化人類学上の新発見ではない(B: p215)。また、ミームが「生物学的有利さ」(A: p298)にどう関係するかは重要ではないことも、初めからはっきりと書いてある。しかも、これらの基本的な部分はその後ドーキンスによって書かれた「延長された表現型」(1982)でも殆ど変更がないのだ。
それなのに、文化進化の理解にミームを持ち出す「ミーム論者」が後を絶たないのはなぜだろう?ミームの生みの親のドーキンスが「ミームはそういうものじゃない」と言っているのだから、わざわざミームという言葉を使いたがらなくてもいいんじゃないのか?「模倣」は文化を理解するための多くのキーワードのうちのひとつであることは確かだと思うが、それを殊更に「ミーム」と呼ぶことで、文化研究のフィールドをいたずらにかき回しているような気がする。