花盛り桜は映えるとスマホを向ける人々が踏んだ地面のはなびら
見上げる桜へスマホを向けて、そのまま地に落ちた花弁を踏んでいる。
これが、無常だなと思う。彼らは咲いている美しさにしか興味がなくて、散った花弁が泥だらけであることに興味がない。
花が咲いている。わぁきれい、ときみはスマホを取り出す。散った花弁を踏みにじって。
1 花盛り桜がきれいで写真を撮った人々は散ったはなびらを踏む
写真を撮った→人々は散ったの流れちょっとおかしい
現在進行系で踏んでるし、写真を撮ってる
あと写真ってよりスマホのがインスタント感が出ていいかな?
花盛り桜がきれいでスマホを向ける人々は散ったはなびらを踏む
踏む、踏む、かぁ。「踏んでる」のが感覚に近い
散ったはなびら、はなんか重複感がする。
音読してみたけど散った、はやっぱなんか気になるな
そんなこといったら花盛りと桜ももう一緒なんだけど、そこは一旦許容かな。
きれいっていわなくてもよくない?
綺麗さは対比のために必要か
花盛り桜は映えるとスマホを向ける人々は靴で花びらを潰す
潰す、踏む……うーん。もうちょっと冒涜感が欲しいなぁ
靴で花びらを汚す
靴で、か?これがよくなさそうか?
あぁ、映像化して残せばいいのか
1.花盛り桜は映えるとスマホを向ける人々が踏んだ地面のはなびら
こんなもんなかんじする
花盛り桜は映えるとスマホを向ける人々が踏んだ花びらも桜
添削メモ
映像化はうまくいってるかもだが、ぼくの感覚を言い表せていない気がする。「これだってきれいなのに」という寂しさがある。
そして「きれいなものが汚れている様は、それもきれい」というところか?無常観もありつつ、でもきれいだとは言いたい