人間には宗教かその代わりの信念が必要なのではないか
日本人は神道にどっぷり浸かった価値観を持っている(と思うcman.icon)が、けっして「神道を信じています」とは言わない
宗教を信じるということは外部からの自己概念の強烈な定義である
「キリスト教徒である自分」は、行動指針や迷いを教義に照らし合わせて考える事ができる
外部から導入された世界観で生きられるのはわりと気が楽というか、たぶん救いになる
で、じゃあ信仰してないとどうなるのよっていうと
全部を自分で決めなくてはならない
あるいは他人に評価を委ねなくてはならない
自分が信じられなくなったとき、外部から輸入できる価値観が他人しかない
支えとしてすごく曖昧だし、絶対的じゃない。
相手も人間なので絶対的指標として成り立つこととか責任を取ることとかが出来ない
そうすると寄りかかって潰してしまったりする
稀に出来る人がいるが、その人は多分支配欲の塊かつ傲慢な自信を持つ
そうしないと絶対性を確保できないだろうと思う
まぁなんか、わかんねーけど苦しそうだよなと思う
なにせ、自分が揺らいだときのセーフティネットがないから
じゃあどうすんのっていうと、宗教の代わりに自分で宗教を作らなきゃならない
それは信念と言い換えてもいい。
一本硬い芯が通ったような、あるいは絶対にゆらがない土台のようなものを作る必要がある
自分が揺らいだとしても「これだけは変わらない」と定義できる価値観や世界観
これを自分で作るのはめちゃくちゃ難しいし体力がいる
しかも、作ったところで社会と合うかはわからない
社会は他人の価値観の集合だから
あるいは偉い人が考える評価軸の世界だから
世界を敵に回しても、滅ぼしてもいいほど強烈なゆらがない信念と自己定義が必要だと思う
ちなみに、これはめちゃくちゃ社会性がない信念/世界観である
なにせ、感性に従うなら、生活している場合ではないから。
生活よりも世界の観察と記述と感じることが上位にあるから
なんか現代におけるSNSの闇とか病みたいなものは、わりとこの信念を作る難しさにある気がする
揺らいだり悩んだりすると容易に病むし
病むことも健全なものではあるかもしれないが、みんなそれで悩んでてつらそうじゃん
だったら、幸せになれるような形になる方がいいとおもうんだよな、ぼくは
どうにかならないもんだろうか
ぼくが教祖になるしかないか……(??)