カンザキイオリとの断絶
これはぼくの個人プロジェクトなので、語弊があるのを承知で書くのだけど、この立場で、この作り方で、この選択を出来るやつ、殺したいな。
自らが満たされることを自ら捨てることができるの、本当に、マジで、ふざけてる。その生き方は僕にとっての理想で、それを選択できるのは本当に…… 僕はそんなふうに生きられると思えない。器用なせいだ。
僕は満たされることが好きだから、満たされていたらそれで満足するし、罪悪感など何も感じないだろう。
僕は自らの器用さを憎んでいるし、自らの不器用さを憎んでいる。もっと器用であるか、もっと不器用だったら、どれだけ良かったのか。
もっと器用だったら、人生やあらゆることを様々に操作して、計画的に創作を行っているだろう。
もっと不器用だったら、何もかもを投げ捨てて人とのコミュニケーションなどせずに創作だけに打ち込んでいるだろう。
がんじがらめのしがらみの中で、上手く立ち回れる自分のことが嫌で嫌で仕方がない。
本当に殺したいのは、僕がする“これ”の全てだ。
いやマジで、ああいう作品作っててこの生き方してるのマジで殺すしかない こんな人間が存在すること耐えられない “ほんとう”の生き方を現代でするな、マジで。耐えられないから。
駄目だ…………いやもうそれができないならオレのことを殺してくれ。なんなんだ。いっそ首を切って諦めさせてくれ。マジで。
カンザキイオリには、というか、あんなものをつくってるにんげんには、もっと大衆を“エモさ”で操ってるみたいな態度をしてほしいんだよ。そうじゃないと耐えられないって。
もっとnabunaみたいな発言してくれ
よくわかる解説(2023/03/09追記)
この文章には、「不器用で感情を創作にぶつけなければ生きてけないやつ」が「満たされて安全圏で幸せになること」すら投げ捨てて、「抜き身の自分自身」で創作します!という宣言が書かれている。
しかも、そいつは好みの作風の創作者である
一方ぼくは「なんか小器用に生活してて多分創作なんかしなくても生きていける」のに「創作に囚われ続けてる」上に「誤魔化し/騙し続ける」ような、欺瞞の創作をする側の人間である。
創作者としてのぼくはこのカンザキイオリの状態のようなものが理想である
でも、その理想を追うと生活もできないし死ぬからなぁ~とやめている
……にもかかわらず、こいつはそれをやってて、しかもまだ生きてる
これに、圧倒的な断絶の感覚と、「こいつを認めてはいけない」という気持ちが永遠にある。
これが存在するのを認めたら、“でも死ぬからなぁ~”という言い訳や誤魔化しが機能しなくなり、認知が保てなくなるから。