自分で納得するために書いている
もし文章を読んで書き手が誰かとか、そういう幻覚が浮かんできたら、冷静になれていないと思う
相手の顔や温度を気にしないために対面以外の手段を取っている
テキストで親睦を深めることは否定しない
あらゆる行の論理性を保証するために不必要だと考える
否定する理由は、否定関係を示すことにより、特定の考えとなぜ食い違うかを記憶したいからだ
「なぜ」を知りたいケースが多いと思う
特定の考えと、否定対象行の間に存在するギャップが何であるかを言語化する行為
この言語化を促すために否定が必要
そういえば「自分の考えとは違うな」って思わないとなかなか書き足す動機にならないですよね
自分の考えと普通に同じ内容の行にわざわざコメントすることもないというか
たしかに
対立意見を並べるというのは必ずしも言語化を促さないと考える
促したとして、「否定関係そのものに対する言語化」にならない可能性がある
なぜを知りたい理由
自分にとってその行が非論理的であると感じられる
誰しも自分の書いた文章が論理的であることを期待する
論理的という概念を、客観性で分割すると2つに分かれる
客観的に論理的
論理的かどうかのマインドセットが共有されているのが、客観的に
客観的に評価することの難しさを感じたら、価値基準にずれがある
読み手の主観から見て論理的
納得をするか否かには、これの度合いが強く関与すると思う
読み手は文章に非論理性を感じるのが得意だと思う
センスがいいということではない
立場の問題
なぜ立場の問題か?
書き手は、自分の書いた文章が論理的であると期待している
読み手は、書き手ほど論理的であるだろうという期待をしていない
非論理的と感じられる部分に比較的気付きやすい
非論理的という感覚は、前提や世界観の違いから生まれる
知識や、過去に得た思考の種類には個人差がある
ひとまず文章を書き切った書き手からは、自分の文章が非論理的だという感覚は生まれないい
書いた人物と読む人物が同じだから
時間をおけば自分の文章にも非論理的部分を発見できるようになる
人間がひとりひとり違う存在であることの醍醐味ですね!
これをすることで新しい視点が根付くというか、違う考え方を知れる
自分が非論理的と感じる部分を、自然に埋めようとする人がいる
埋めることで自分にとって論理性のある文章になる
納得するというのは論理的というのを包含する概念かもしれない
ここで論理的という言葉を場に出すことで、より限定的な議論を促したい考え
自分にとって論理的だと思えるかが納得感につながるみたいな
なぜを知るための否定というのは納得感あるなと思いました
このとき否定を書かれた人がちゃんと詳しく説明できるくらい考えを固めてきていたら、ギャップを埋めて理解しあう工程を促進できますね
場合によっては、否定を書かれた人がまだくわしく説明できるほど言語化に成功していないパターンもあるかな、と思いました
この場合、返答に窮してつらくなってしまう可能性があります
なんとか助けられる方向性にもっていきたいですね
なぜを知るための否定は返答を得ることでギャップを埋めていけるので
勝手に自分で展開していくことも可能ではありますが、普通に言葉の解釈が違っただけなパターンもありますから
返答を得ることでギャップを埋められるというのは、そうだと思う
なぜを説明できる必要がある
疑問への説明は、疑問を読んでからはじめて考えるものではないか
窮するのが普通だと思う
「まだふわふわの状態だけど情報を生かすためにとりあえず書くぞ」「否定(疑問)がきたぞ」「説明できないぞ」「ということは違うのか」この流れを回避できないだろうか
これで最初に書いた人が消してしまったら情報は死ぬわギャップは埋まらないわでもったいない
押しに弱い?
どれくらい押しに弱いかをあらかじめ疑問投げる側が想定することはできないんで、書いた人が心を強く持って考えるのがベター
やわらかい言葉を選んで疑問を投げることで多少はマシになるか
窮して初めて、自分の想定していなかった部分を熟考することになる
窮するというのはそういうことだと思う
これによって考えを補強できるのがベストなんですよね~
つらくなるのは仕方がないかなと思う
なぜつらくなるのか
説明できないことに焦る
本来Scrapboxは時間かけていいツールだから焦らなくていい
時間かけてもなかなか答えられないとやっぱり焦るか
投げた側はそこまで深刻に聞いたわけでもないと思うが...
くわしく説明できるのだったら、言われなくても書いている可能性
「自分の考えと食い違う ーーー」と書こうとしたが、必ずしも自分ではないな
過去にこの行を書いたのだが、この行のリンク先は自分が普段持っている考えではない
対立する考えの断片も持っていないが
記憶している
リンクの内容を覚えていることが多い
覚えたリンクを自分の手の上で転がしている感覚である
自分の中ですべての行に
私が読んだあらゆる意見は、数学の証明を読むように、一行一行が自分のマインドセットの中で論理性を認められるものでないといけない
と考えている
論理性を認められない行があったら、
数学の証明でも、誤っているように見えたり、飛躍していると感じる行がある
そのような行に出会ったらきっと、書いた人や詳しい人に質問するはずだ
あるいは、
自分一人のprojectで一つの議題について議論していると、
Scrapboxでは一人で議論できる、というのも書いていなかったな
これは考えるということだ
議論するのと考えるのは、なぜ別物のように扱われているのだろうか
収斂させなくてよい
それは意思決定であり、期限がない限りしなくてよいこと 意思決定する方向に向かわなくていい
「人を納得させる」という言葉
もし納得させて人の意見を変えさせることをいうなら、意思決定に近いと思う
「納得させる」という言葉には、意志決定のニュアンスまでは含まないと思う
複数の立場に対して、それぞれの価値観の上での妥当性を認める、というニュアンス
論理的に見えないから否定したい
誰かの同意は求めていない
その指摘にはあたらない、という返答が来ることは予期している
反論に反論を書く、書くことがなくなるまで書き続ける
たしかにこの部分は違った、と返答が来ることも予期している
この場合は自分の中でその行が論理的に整合したので、それ以上言うことはない
論破したからというより、単にそれ以上書くことがない
書き続ける無限ループの終了
以降はまた別の枝を伸ばしに行く