『プレイバック』
レイモンド・チャンドラー遺作
いい終わり方だったなぁ
マーロウが女性のもとに消えていくみたいな感じ
チャンドラーの当時の状況と重ねてしんみりしてしまった
なんでマーロウそんなにモテるんだ…出てきた女性全員にモテてる
If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive.
有名なセリフ引用してくるな〜と思ったらこの作品が出典だった
(キリスト教の)神に関する以下の部分が心に深く突き刺さった 彼の顔は死人のように青ざめた笑みをゆっくりと浮かべた。
「私は湾曲な言い方はしない。私は実のところ、マーゴ・ウエストと結婚したいのだよ。それによってこれまでのパターンが逆転することになる。私くらいの年になるとごく些細なことに興趣をおぼえるものなのだよ。ハミングバードやら極楽鳥花が開花するときの驚くべき一部始終とかな。どうして成長のある特別なポイントで、その蕾があるしかるべき角度に向けられるのか。どうして蕾はあれほどゆっくりと割れていくのか、どうしてその花は常に厳密に決まった順序で現れてくるのか。そうすることによって、蕾のまだ開いていない鋭い先端が、鳥の嘴のような形になり、その青とオレンジ色の花弁が極楽鳥の姿を作り出すのだ。 関係ないけど極楽鳥花かっこいい〜
もっと簡単な世界をつくることだってできたはずなのに、こんな複雑精緻な世界をこしらえてしまった神というのは、まったく不思議なものじゃないか。彼は全能なのか?そんなわけはない。この世には悲惨があふれているし、悲惨な目に遭うのはだいたい常に無辜の人々なのだ。イタチによって巣穴に追い込まれた母ウサギは、どうして赤ん坊たちを背後に隠して、自分の咽を裂かれることを選ぶのだろう。なぜだね?2週間も経てば、子供の顔なんて見分けもつかなくなるというのに。君は、神を信じるかね?若い人。」 そのような美しさを作り出すのは必然と偶然と時間であると私には考えられるので、自分の感覚で言えばそういうものの中に神がいるという感じがあるが、信仰の動機としては同じ
このような信仰はおそらく日本の仏教/神道的なもので、キリスト教は「神がつくった」の世界観なので少し感覚的には異なるのだろうか?
似たような、花の美しさと神の存在を関連付けて小説内で語られているものとしてホームズの薔薇の一節を連想した それはひどく長い回り道だった。しかし私はその回り道をたどらなくてはならなかった。
「もしそれが、全知全能の神が今ある世界をそっくり意図して作ったのか、という意味であれば、答えはノーです。」 「でも君は信じるべきなのだよ、マーロウ君。大きな慰めにはなるからな。我々はみんな最後はそこに行き着くことになるのだ。なぜなら我々はみんな死んで、塵にならなくてはならんのだから。
個人に関して言えば、それでおしまいかもしれない。あるいはおしまいじゃないかもしれない。死後の世界に関しては、いくつかの重大な困難がある。天国に行ってそこで、コンゴのピグミーや、中国のクーリーや、レヴァント人の絨毯商人なんかと一緒に暮らすのは楽しいとは私にはどうしても思えんのだよ。悪くすれば、ハリウッドのプロデューサーなんかとも一緒にされるかもしれない。 チャンドラー氏、チャンスがあるとすぐハリウッドの悪口言うところわりと好き
私はスノッブな人間だと自分でも思うし、私の言っていることは決して趣味がいいとは言えない。そしてまた、このあたりで一般的に神と呼ばれている、長くて白い髭を生やした善意の人物によって天国が運営されているとは、私にはどうしても想像できないのだ。そういうのは知的にひどく遅れた人々の抱く愚かしい考えだ。しかし、人が抱く宗教的信条がいかに愚かしいものであれ、君がそれに対して疑念を呈することは許されていない。 もちろん私が天国に行くものと決めてかかる権利は、私にはない。実のところ、そこはとても退屈そうな場所に思える。その一方で、地獄のことをいえば、そこには洗礼を受けずに死んだ赤ん坊たちが送り込まれて来るわけだし、そんな赤ん坊たちが、殺し屋やらナチの死の収容所の所長やら、ロシアの政治局員みたいな連中と同じ貶められた場所に詰め込まれるというのは、私にはどうにも納得できないことだ。 不思議だと思わんかね。これほど汚らしいちっぽけな動物でありながら、人がいかに立派な大志を抱き、はたまた気高い行いをなし、偉大にして無私のヒロイズムを発揮し、この過酷な世界にあって、日々たゆまず勇敢な行為を続けているということは。人がこの地球で甘受している運命を思えば、そのような行いがあまりに立派すぎることに、感嘆の念を持たざるを得ないじゃないか。 そこにはなんらかの理由づけがなくてはならない。そういうのはただ単に、科学的反応に過ぎないとか、人が他人のために進んで命を落とすのはひとつの行動パターンを踏襲しているにすぎないとか、そんなことは言わんでくれ。
広告板の裏で、毒を盛られた猫が痙攣しながらひとりぼっちで死んで行くのをみて、神は幸福な気持ちになれるのだろうか?人生が情け容赦ないものであり、適者だけが生き延びられることで、神は幸福な気持ちになれるのだろうか? このテキストに含まれた深い悲しみを感じて泣いてしまう
キリスト教が、人間の信仰のような原始的なものを扱いつつ、また歴史的に、政治のためのツールとして使われてきたこともあり、その内に孕んでしまった矛盾がある
正しいものを定めてしまったために、正しくないものが生まれてしまった
救うための信仰により傷つけられる人が生まれている
あまり知識がないが、中国の天命にまつわる信仰にも一部こういう側面がある気がする