道徳感情はなぜ人を誤らせるのか
yuiseki.icon的なまとめ
正義とか善とか徳とかいった道徳観、道徳感情は、人類の生物としての進化の過程で遺伝子に組み込まれている本能 宗教の信仰や社会適応の過程で後天的に身につくわけではない
本能的な判断は直感であり、速いが、誤る可能性も高い 血縁とは関係ない巨大な群れを成して生存する
血縁関係にある個体を助けるのは遺伝子の存続で説明可能だが、時に血縁関係にない個体も助けたりする
互恵的利他主義によって生じると考えられる道徳感情
正義:助けてもらってばかりあるいはズルをしている個体を攻撃・排除すること 本能に左右されてしまう人間の判断力には限界がある
「こいつはズルをしている」「こいつは悪いやつに違いない」という思い込みによって私刑・冤罪が生まれる 個体の認知バイアスによる私刑や冤罪を克服するためには、複数の個体による徹底的な情報共有・対話・討論しかない 著者のブログ(だいたいこれだけ読めば良い説はある)
格差が広がって道徳感情が刺激されると、人間は幾何学的な美しい計画に取憑かれるようになり、テロやら扇動政治家やらが蔓延するようになるといったことも本書には書いてますが、その点に反応していただけたのかもしれません。
極めて非効率で一本筋の通った思想のない民主主義が、なにゆえ明確なビジョンを掲げ意志決定も早くて効率のいいはずの独裁やエリート少数支配より優位になって、歴史上に生き残ってきたのか。
これも認知バイアスの克服に根拠があるなんてことまで本書では書いてるのですが、こんな大それたことを云い出した人は、これまでいるんですかね。
釈迦は、人間が因果に囚われるために、認知バイアスを招いて目の前の現実が見えなくなってしまうことに気づいていました。 さらに人間関係が、因果に囚われる元凶だということも理解していました。
だからこそ、悟りを得て認知バイアスを克服するためには、まず家族や仕事を捨てて出家することが重要だと考えたのです。 人類が進化の過程で身に着けた<間接互恵性>のメカニズムを、最新の進化心理学なぞを待つまでもなく、何千年も前に完璧に見抜いていたわけです。 この「道徳感情はなぜ人を誤らせるのか」という原理については拙著を読んでいただきたいのですが、思いっ切り簡略化して説明しますと、人類は生存率を上げるために言葉による<評判>を媒介とした協力関係システムを進化の過程で身に着けたのでした。ほかの動物も直接的見返りが期待できる場合は自分が損しても相手を助けることがごく稀にありますが、人間は二度と逢うことがなく見返りが期待できない相手でも親切にします。そうやって自分の評判を上げると、巡り巡って見返りが期待できるわけです。しかし、恩恵だけを受けて自分は人に何もしない者が増えるとシステムが壊れて生存率が下がりますから、ズルをする輩は罰しなければならないという<道徳感情>が生れました。<道徳感情>は、宗教や教育なんてもんが発生する遙か以前、何百万年も前に確立したものなのです。動物の中にもその萌芽は見ることができます。 悪を罰したいという<道徳感情>は、いいことばかりではありません。とくに人類の生存のために最も重要となる<間接互恵性>を成り立たせる平等が破られ格差が広がったときに<道徳感情>が刺激され、美しい理想に取憑かれてテロを起したり、美しい計画を掲げる扇動政治家が人気を博したりといった歴史上何度も繰り返された悲劇が起きました。そんな具体事例つきましては、拙著に500ページに渡って解き明してますので読んでいただければ。 言葉によって<評判>が巡り巡ってくる<間接互恵性>は、ほとんどの行為が目の前で起きるわけではないので、誰が良きことをして報酬を与えないといけないのか、誰が悪しきことをして罰を与えないといけないのかを判断するため、人間は因果推察能力が発達しました。しかしそのために異様に因果にこだわるようになってしまい、もともと因果がない処まで無理やり因果を見つけようとします。だからこそ、逆に目の前のことさえ見えなくなってしまう。そんな性癖のために、右翼も左翼も判りやすい因果で構成された幾何学的で美しい計画に取憑かれて、国家を大混乱に陥らせたりするのです。 さらには、とにかく<評判>を得たいと思ったり、誰かを罰したいという欲求が人間の悲劇を生みます。一番まずいのは、<道徳感情>が強く刺激されると恐怖心を克服してしまうので、自分が死ぬことも恐れなくなるし、人々への共感も失ってサイコパス化してしまうことです。これらはすべて、ほかの生物には見られない、血縁とは関係ない巨大な群れを維持して生存率を上げるための人間関係システムが元凶となっているのです。 著者の寄稿
第一回目で詳しく述べたように、人類は生存率を上げるため、言葉による<評判>を媒介とした協力関係システム<間接互恵性>を進化の過程で身に着けました。
そのため良きことをした者には報酬を、悪しきことをした者には罰を与えたいという欲求である<道徳感情>が生れたのです。
動物にも見られる直接的な助け合いなら、すべての出来事は目の前で起きます。しかし、<評判>が巡り巡ってくる<間接互恵性>は、ほとんどのことが目に見えないところで起きるのです。そんな状態でも、良きことや悪しきことを誰がやったのか探るため、人間は因果推察能力が発達しました。
それは自分の生死に関わる最重要のシステムだったため、人間は因果に異様にこだわるようになります。やがては、誰かを罰したいという<道徳感情>が人間の因果推察能力を肥大化させ、因果の無いところにまで無理やり因果を見つけるようになってしまったのでした。
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