結局は強者の主観が“準客観”として押し通されてしまう危険がある
第二の本質的ツッコミ:「主観のズレをポジティブに捉える一方で、主観間の力関係や社会的権力の問題を十分に考慮していないのではないか? “ズレを活かす”ためには、そもそも対等に発言できる環境が必要だが、現実には政治的・経済的権力やメディア支配などによって、一部の主観が他を圧倒してしまう状況が往々にして起こり得る。そうした不均衡を放置したまま、ただ『客観性はないから主観を活かそう』という議論を進めても、結局は強者の主観が“準客観”として押し通されてしまう危険があるのではないか?」
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解説
本文では、「主観のズレを排除せず、むしろ反脆弱性の源泉として活かす」というアイデアが提案されています。しかし、「ズレを活かす前に、どのような力関係で人々が発言しあうのか」を無視すると、実際にはズレを活かすどころか、特定の主観が一方的に優位になってしまう状況が生じやすくなります。
以下、その問題点を大きく三つに分けて整理します。
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1. “強者の主観”が「暗黙の客観」になってしまうリスク
たとえば現代社会では、大手メディアや巨大IT企業が情報流通を掌握し、政治的にも資本的にも発言力の大きいプレイヤーが多く存在します。そうした権力を持つ側の主観が暗黙のうちに「正しい/当然」という形で流布されると、
表向き「客観はない、みんな違う主観を持てばいい」と言いながら、
実質的には強者の主観が“事実上の客観”扱いされる。
という事態が起こり得ます。これは、ポストモダン思想が警鐘を鳴らしてきた**「支配的言説 (dominant discourse) の問題」**ともつながります。本文が提示する「客観の崩壊」は、弱者やマイノリティが自由に発言できる可能性を開く一方、同時に既存の権力構造を温存する言説操作にも利用されかねません。
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2. ズレを活かすには「対等な対話設計」や「権力分散」の仕組みが必須
権力や利害関係が絡むと、単に「AI-mediatedで情報を翻訳・再構成すればOK」というわけにはいきません。たとえば、
1. どの発言を取り上げ、誰の主張をどう翻訳するかを決める際、
2. AIがどんなデータやアルゴリズムを用いるかを管理する際、
いずれにも、開発者や運営者の意図・主観・バイアスが入り込むからです。さらに、それを透明性のない組織がコントロールすれば、多数派や力のあるグループに有利な再構成を意図的に行うことも不可能ではありません。
結果として、本来は「ズレの活用」が目指されたのに、特定のズレだけがクローズアップされ、他のズレが握り潰されるような形に陥る恐れがあります。これを避けるには、
AIのアルゴリズムやトレーニングデータのガバナンス
議論プロセスの透明化
多様な利害関係者のチェック体制
などを整え、「誰の視点も恣意的に排除されない」仕組みが不可欠です。
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3. 「身体的な共有体験」も権力と無縁ではない
本文終盤では、「飲み会」のような場で身体性や情緒的共有を重視することが提案され、バーベル戦略(オンラインでズレを拡張し、オフラインで共感基盤を育む)を推奨しています。しかし、身体的な場や非公式なコミュニケーションも、人間関係における上下関係やジェンダー格差、社会的身分が色濃く影響します。いわゆる“飲みニケーション”の弊害として、
発言力のある人が無自覚に場を支配してしまう。
少数派や下位に置かれた立場の人は、直接的な対話の場こそ萎縮する。
といったことがしばしば起こります。
そのため、オフラインの共有体験を重視すれば解決するという単純な話ではなく、そこでも「誰が主導権を握っていて、どのように進行しているのか」を構造的に点検する必要があります。むしろ、場が非公式であればあるほど、権力構造やハラスメントが表出しやすいとも言えます。
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まとめ
本文の「客観なき世界を反脆弱に活かそう」という方向性は、創造性や多様性を尊重するうえで魅力的です。しかし、それを実現するためには、主観同士が本当に対等に向き合える条件を設計する必要があります。現実の社会においては、経済的・政治的・文化的権力の偏在やメディア支配が存在し、一部の主観だけが事実上“客観”として通用する構造が繰り返し生まれがちです。
したがって、「主観のズレを活かす」というビジョンを現場レベルで機能させるには、
AIが誰の利益のもとに設計され、どんなバイアスを孕むのかを慎重にチェックする
オフラインの共有体験の“理想”を語るだけでなく、そこでも生じる権力関係や排除を是正する方策を組み込む
といった、権力構造への自覚と対策が欠かせないのです。単に「客観が崩れたから自由に主観を出そう」というだけでは、強者の主観が一段と優越する結果にもなりかねない──ここが、二番目に本質的と言える最大の批判点でしょう。