密教
唯識的には、認識をコントロールできればなんでもコントロールできる それを頑張るのが密教
呪文とか、言葉では理解できないスピリチュアルなものを重視
なるほど?
スピリチュアルという言い方だと語弊があるかも?
言葉では語れない領域を、感覚を扱う修行で扱う感じかなblu3mo.icon(よく言えば)
長いので適宜消してください。makoton.icon
仏教の唯識論の立場にたてば、私たちの周りには認識した世界だけが広がっている
その意味でこの世界は「こころ」がつくりだしたものである。認識可能な現象だけの世界が広がっていると思えばよい。
仏教=人間の「意識」はこの現象をとらえることはできても、本質を知ることはできない。
六識=耳識、眼識、舌識、鼻識、身識、意識である。たとえば耳も単なる音を聴く器官ではなく、聴くことによって判断する「意識」である。同じように眼や舌や鼻、身体もひとつの「意識」である。
この辺の記述的な話は認知科学バージョン0感があるblu3mo.icon このあたりについては仏教本を読むよりは心理学/脳神経科学の教科書を読む方が有益?
めっちゃわかるmakoton.icon
六識の奥にとらえられない「深層意識」がある。この「深層意識」も二段階になっていて、末那識、阿頼耶識からなるととらえられる。
ショーペンハウエルのいう「意志」=末那識に対応する(末那識=自我のことも)人間の奥にあるとらえられない「意志」である。ところがもうひとつ奥に阿頼耶識がある。末那識でさえとらえられない以上、阿頼耶識もとらえようもないが、それは深層意識の奥にある深層意識であり、意識の根源であるといってもよい。ショーペンハウエルも「意志」が普遍的 なものから個別的なものへと段階を重ねていきながら客観化されていく過程をみているが(『意志と表象としての世界』) とらえられないものを根源にもちながら現象的な生や世界がつくりだされていると考えるのが仏教の視点でもある。
「真理は存在しない」とは言っていないのねblu3mo.icon
説き明かすことをしていないだけ
この辺の感覚がまだ掴めていないなblu3mo.icon
方々で空の思想や唯識の話を読んでいると「客観的世界や真理は存在しない」と言っているようにも聞こえるが、そうではない..? キリスト教やイスラム教なら真理は提示されることになるが、仏教は説くことのできない根源に真理をおく。もっともそれでは何が何だかわからないから、ある程度の説明を施すことはある。しかしそれも、あえて言葉にすればこうなる、といっているだけであり、本当の真理はその言葉の奥にあるもの、解き明かせないものであることを忘れない。だから多くの仏教は真理を示すのではなく、真理に気づくための方法を提示することになる。禅宗においては禅修行を積むことがその方法であり、道元の思想だと真理は座禅を組んでいるときにつかみ取れるということになる。
なるほどblu3mo.icon*3
もっともそういう修行をすれば真理を知ることができるのかと聞かれたら答えられない。なぜなら真理を知るということの彼方にあるものが真理だからである。ショーペンハウエルの哲学が、わかりやすい文章で書かれているにもかかわらずわかりこくいのは、彼の思想の基盤に仏教思想があるからであろう。人間の生の奥底にはつかむことのできない「意志」がある。その意志が人間に生きることを求める。ところがなぜ生きなければならないのかはわからない。なぜなら生きることを求めている「意志」とは何かがわからないからである。しかも生きているうちに、人間は知性によって生を理解するようになる。だが知性は「意志」をとらえることができない。だから生への衝動は、「意志」がもたらす生への衝動とは無関係に、知性で理解された生への衝動を実現しようとし、ここから人間の生の根本的な虚無性が発生する。さらに「意志」の衝動がわからないから、死の意味もとらえられなくなってしまう。なぜならショーペンハウエルにとっては、「意志」は生死を貫くものだからである。「意志」は生を生きる衝動であるとともに、死を生きる衝動でもある。そういう「意志」を保有するものとして、自然の生き物たちも人間も同一なのである。とすると一番奥には、すべての生き物たちが共有する「意志」があることになるのだが、それはわからないものでありつづけるしかない。この思考様式は彼が仏教から学んだのだろう。ところが仏教においては、わからない本質を知りうる方法が存在する。それが「行」であり、「行」の方法はさまざまであっても、知りうる方法は提示されているのである。だからたとえば密教においては目標は即身仏におかれる。「行」をとおして真理を知ることができたなら、それがすなわち仏だからである。親鶯の思想でも一心に南無阿弥陀仏を唱えたときに人間は往生をとげると考えるのは、そのとき真理が会得できるからである。