“絶対普遍な真理”としての客観性と、“公的に検証・合意可能な知識”としての客観性を区別せずに混同している
「AI-mediatedな間主観的な熟議」と「フィジカルな飲み会」が拓く反脆弱な合意形成に対するo1 proのツッコミ
最大の本質的ツッコミ:「“客観性”をめぐる議論が、“絶対普遍な真理”としての客観性と、“公的に検証・合意可能な知識”としての客観性を区別せずに混同しているため、『客観がない』という主張が必要以上にラディカルに見えているのではないか?」
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解説
本文では、「近代以来信じられてきた客観性が揺らいでいる」という主張を、クーンのパラダイム論やポストモダン思想家の議論(リオタールなど)を引き合いにしつつ展開し、最終的に「客観性は存在しないからこそ主観のズレを活かそう」という結論につなげています。しかし、この「客観性がない」という言葉には、大きく分けて二通りの意味が混在しています。
1. 絶対普遍的な真理や究極の客観視点は存在しない。
これは、神の視点のような“決して揺るがない唯一の真理”を想定できない、という主張です。ポストモダン哲学やクーン、社会構築主義などでは、確かに「いま私たちが客観だと思っているものも、歴史や文化、パラダイムに制約されているのではないか」という議論が長くなされてきました。
2. 一定の共有ルールや検証可能性を通して人々が合意形成できる“相対的に客観的な知識”すら存在しない。
これは「客観の一切が空洞化してしまう」という、より強い主張です。しかし実際には、社会や学問が共同作業として成り立つための「検証プロセスの客観性」や「経験的に反証可能な事実」は、絶対真理ではないまでも、有効に機能している面があると考えられます(たとえば科学の実験手法や、統計的検証、法的証拠主義など)。
本文の議論は、(1) の“絶対真理としての客観性”の限界を示す論拠を引用しながら、いつのまにか**(2) の“共有可能な客観性自体が否定される”**かのように話が飛躍している節があります。そのため、
「客観性は神様のような唯一絶対の真理ではない」  
↓
「したがって、あらゆる“客観的知識”も存在しない」
というラディカルな断定に見えてしまいがちです。しかし、これらは厳密には別次元の問題です。
1. 「絶対客観」がないことと、「共有可能な客観」がないことは別
絶対客観の否定:たとえばクーンが言うように、科学理論がパラダイムによって支えられており、理論や観測を完全に超越した“神の視点”はない。しかし、それは「まったく客観的な合意形成ができない」という話とは直ちには結びつきません。
共有可能な客観:現実には、科学コミュニティ内部での実験結果の再現性やピアレビュー、統計的検証など、合意プロセスを下支えする公的ルールが働いています。これは「不変・絶対ではない」ものの、「一定範囲で誰もが追試・検証できる(=公的に合意できる)客観性」の一形態です。
したがって、クーンの科学史研究やポストモダンの思想を根拠に、「いかなる種類の客観性も存在しない」と断言するのは飛躍があると言わざるを得ません。クーン自身も「パラダイムの転換」によって科学は“累積”的というより“飛躍的”に変わると述べているだけで、「科学コミュニティ内での客観性(=あるパラダイムの内部で働く検証可能性や合意形成)が完全に無意味」だとは言っていません。
2. 実用的・社会的な文脈では「客観性の度合い」が重要
社会の合意形成、特に公共政策やビジネス上の意思決定では、「絶対的な客観」を求めるより、むしろ「どれだけ公正な検証ルールで、再現可能なデータや論拠を示し合えるか」が要となります。これは最終的には人間の主観が絡む問題ですが、だからといって「客観などない、全部主観だ」と開き直ってしまうと、フェイクニュースや陰謀論の跋扈を正当化しかねません。
たとえば医薬品の臨床試験は絶対真理ではありませんが、厳格な手続きを踏むことで「万人が再チェックし、再現可能な形でデータを評価する」ための相対的客観性を確保しようとします。ここでは「神の視点」は必要ないが、**“公的かつ誰でも追試可能なプロトコル”**があれば、客観性を高めることができるのです。
3. 「客観的基準」がなければAI-mediated communicationも運用が難しい
本文では、「AIが主観のズレを翻訳して新たなアイデアを創発する」という構想が提示されています。しかし、AIがコミュニケーションを仲介するためには、
1. どんな情報が事実かどうかを検証する基準、
2. どのような意図や目的に沿って翻訳・再構成するかを判断する基準、
などが必要です。これらは完全に恣意的であってはならないし、また「開発者の主観」だけが絶対視されても困る。ある程度「これを客観的根拠とする」「こういうリスクがあるから避ける」といった事実検証や評価軸がなければ、AIが乱造する情報を誰も統制できません。
つまり、AIの活用すらもなんらかの“共有可能な客観基準”(データの正確性評価や合意プロトコル、倫理基準など)を必要とするのです。これがなくなると、AIが出力したものは完全なる“独断の産物”になり、合意形成の補助どころかさらなる混乱を招く可能性があります。
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まとめ
「客観性などない」という急進的な結論が出てくる原因のひとつは、「絶対普遍の客観性」の否定を、「社会的に検証・合意可能な客観性」の否定へと安易に拡大してしまう点**にあります。ポストモダン思想やクーンのパラダイム論をもって「すべてが主観だ」とすると、科学や社会の運用に役立つレベルでの客観的検証すらも“誤謬”だと見なしかねない。
しかし実際には、「客観」とはいっても段階的・相対的なものであり、「神の視点」を捨てながらも「合意形成に資する公的検証ルール」は維持できるのではないか、というのがこのツッコミの核心です。本文が提示する「主観のズレの活用」「反脆弱なコミュニケーション設計」自体は興味深い方向性ですが、それを支える最低限の“客観的な検証可能性”や“公的ルール”が全否定されてしまうと、実装や運用の基盤が崩れてしまう点には注意が必要でしょう。