知覚と正当化
知覚が信念 (観察可能な命題に関する信念) を正当化するというとき、それはどういったことを表しているか?
知覚は(信念のような)志向的状態か、それとも(推論のような)信念形成プロセスの一種か
以下、命題をp, 正当化・信念形成プロセスを矢印、括弧内を命題内容とする。
pとしては「木の上に球状の物体がある」などを考える (観察可能な命題、観察言明なら何でも良い)
オプションとして、
1. 知覚(p) ---------推論--------> 信念(p)
知覚はそれ自体命題内容を持つ。信念を直接に推論によって正当化できる
命名: 「非信念的志向状態」主義
問題: 知覚自体は正当化される必要はないのか
もし必要あるなら、知覚は推論の前提になるだけでなく結論にもなれなければならない
回答: パースの無限主義? (知覚は推論の一種であり、知覚Aには正当化する別の知覚Bがある。無限に遡及可能。)
問題: 神経活動は離散的な面があり、稠密・無限遡及可能とは言えないのではないか
ただし、感覚神経のところでストップすると考える必要はないはず。感覚神経の興奮を引き起こす以前の、網膜などでのステップも推論と考えることは可能だろう。
2. 信念(知覚) -------推論-------> 信念(p)
知覚は命題内容を持たない。知覚は志向的状態でもなければ正当化プロセスでもない。
命名: 「間接的正当化」主義
煙についての信念から火についての信念が推論によって正当化されるのと似たように、「「(リンゴがあるときに通常伴うような)何らかの(非命題的)知覚状態にある」という心的出来事が起こった」という命題内容を持った信念からリンゴについての命題内容を持った信念が推論によって正当化されるという主張
「知覚は自然記号だ」
バークリー
問題:
間違った知覚というものを認められない?
火の無い所に煙みたいなものがあったからと言って、間違った煙とは言わない。
この立場では、錯視や幻覚とは単にミスリーディングなのであって、間違っている(偽の命題内容を持つ)のではない。
この場合、知覚と命題pの関係はどう分かる? 帰納? という問題もある
火と煙なら実際に比べれば帰納できるが、知覚と知覚されるものを比べるとはそもそもどういうことなのかという疑問が出る
回答:"aの知覚についての知識"はその本性によって、aについての知識でもあるので、帰納など必要ない (観念論?)
この回答をすると、(2)ではなくなるのではないか。その本性によって、「信念(知覚)」が「信念(p)」になるなら、帰納のみならずいかなる推論も必要ない
回答2 帰納ではなくアブダクション
逆の考え:
エヴァンズによれば、外界についての知覚(赤いリンゴ)が生じれば、それについての信念(「赤いリンゴがある」)が生じ、そこからさらに「私は赤いリンゴがあるのを見ている」という信念が形成されていく。
ここでは、外界についての信念が生じれば、それに「私は〜見ている」を形式的につき加えるだけで、意識経験についての信念が生じるので、そこに推論は必要なく、直接性があることになる。
視覚経験についての信念から外的物体についての信念が導かれるのではなく、外的物体に関する信念を使って視覚経験についての信念を得る
3. ----------知覚---------> 信念(p)
知覚は志向的態度ではなく、命題内容を持たない。むしろ、推論と並ぶような正当化プロセスの一種である。
命名:「非推論的正当化」主義
認識論の信頼性主義者が「知覚は信頼できる信念形成プロセスだ」というようなことを言ったなら、3.を想定しているということだ この立場では、知覚とは「知覚判断を形成する」ことでしかない (知覚の定義に知覚判断を使うのは、定義になっていないだろうけど)。
信念形成説
問題: 記憶や知覚を単なる信頼できる信念形成 (正当化) プロセスだとすると (2にも当てはまるけど)、
知覚の真偽(錯覚)というのは単に間違った信念を形成する傾向性ていどの話としてしか扱えない
しかしミュラー・リヤー錯視が誤信念を形成しないときでさえ、錯覚はするという事実がある。
「はじめて経験したときは誤信念を形成するような知覚プロセスは偽」と考えればいいのではないか
この立場だとしても、知覚という正当化プロセス自体の正当性に疑いが挟まれる余地があるということは、推論の正当性について疑いが生じるのと同じことで、存在する。
単に信頼性があれば良いのだとすると、推論も信頼性さえあればその推論がなぜ成立するのか分かってなくていいのか?という問題が出てくる
たまたまそのマンションに30歳以上の人しか居なかったとして、このマンションに居るから30歳以上と根拠なく推論する場合
信頼性主義に対する反論として、たまたま信頼できる千里眼の能力が開化し、そのことを知らないのだが、千里眼によってあることが頭に浮かんできて、それを信じたという場合、それは現に信頼性のあるわけだが、知識と言えるのかという問いがあり、それと対応する。
4. 信念(知覚(p)) ----------推論---------> 信念(p)
知覚は命題内容を持つが、直接に推論の前提として使えない。
この場合他者の信念という志向的状態についての信念から権威主義的に自分の信念を正当化する場合のように、Cは志向的状態であるが、知覚(p)から直接 信念(p)を導き出せるのではなく、信念(知覚(p))の形にする必要がある
他人の権威に訴える推論:
自分の信念(他人の信念(p)) ----------推論----------------> 自分の信念(p)
ホムンクルスたちのカスケード?
“直観が内なる声なら、ーその声にどのようにしたがうべきなのか、ど うやって私にわかるのだろうか?直観が私をミスリードしないこと を、とうやって私はわかるのだろうか?直観が私を正しくリードして くれることがあるなら、私をミスリードすることもあるわけだから。23” 『哲学探求』(p.161)
4 は知覚や記憶といったものはそれに対して真偽を問えるにも関わらず、錯覚だと認識していても自分の意志では直せないという点で、他人の信念に似ている、という感覚を捉えている
などが考えられる。
経験論を「あらゆる知識は知覚に訴えて正当化されるものだ」というと、(3)が排除される気がするが、「あらゆる知識kについて、ある知覚pがあって、pがないならばkは信念ではあるが、正当化されてはいなかった」のように定式化すれば、(3)も包括できそうだ。
しかしそれだと、経験が正当化とは別の、信念を持つことを可能にする役割を果たすケースを本当に排除できるのか
あり得るかわからない別の選択肢:
知覚 ---------推論--------> 信念(p)
知覚に命題内容なし。しかし推論の前提になれる (なぜ?)
-----------知覚(p)----------> 信念(p)
知覚に命題内容あり。しかし正当化プロセスでもある。
信念([-----知覚---> 信念(p)]) --------推論----> 信念(p)
知覚は正当化プロセスで、しかも間接的に推論の前提になる(謎)
[-----知覚---> 信念(p)] ----------推論----> 信念(p)
知覚は正当化プロセスで、しかも直接的に推論の前提になる (二階の正当化)
同じ信念を二回 正当化しているので実質的に意味ない
※命題的態度のことを志向的状態って呼んだ
以下の理論的オプションがある
知覚は命題的内容を持つか
1,4
知覚は直接的に推論による正当化の前提になるか
1
知覚は正当化プロセスの一種か
3
知覚は間接的に推論による正当化の前提になるか
2,4