意味の公共性(2)
(語wの意味がwをふくむ発話の発話者に相対化されるような言い方をしてしまったが、聞き手 / 読み手の理解に相対化されるというほうが自然かもしれない)
私が使う「バチェラー」は私が使う「結婚していない男性」と同義である、とか、bankという言葉は私にとって2つの意味を持つ、とか、私が使う英語の文"I am ayu-mushi"と私が使う日本語の文"私はayu-mushiです"は同義であるとか、私の発する文「バチェラーは結婚してない」はその意味によって真である、というように意味の概念を使うことができるが、あなたが使う「バチェラー」は私が使う「結婚していない男性」と同義である、というような意味の個人間比較を認めない
効用の個人間比較を認めないように
またはそのような同義性は、成功するコミュニケーションを行える者同士であってもめったに得られない
という立場はありうるか。
句Aと句Bがある人にとって同義であるとは、AとBを置き換えた どの文についても、色々な状況・刺激を考えた場合のその人の肯定/否定が一致するときである
意味とはその同値関係で割った表現の同値類である
というような
とはいえこの定義だと複数の人についていろいろな同じ状況を与えてつねに肯定/否定が一致するかを調べるというふうに拡張できるかもしれない
あるいは分析的真理の概念から逆算して意味の概念を得る場合も個人間比較 (異言語間比較?) を認めない意味の概念が得られるかも
(語wの意味がwをふくむ発話の発話者に相対化されるような言い方をしてしまったが、聞き手 / 読み手の理解に相対化されるというほうが自然かもしれない)
そのような「意味」の理解はもはや「意味」という言葉のいみが違ってしまうのか。
そのような場合で使っている言葉の意味について質問するときは、あなたの使っている「バチェラー」という表現は、あなたが使うべつの表現「結婚していない男性」と同義ですか、それともあなたが使うべつの表現「学部卒」と同義ですか、と質問できるが、あなたが使っている表現Xは私が使っている表現Yと同じ意味ですか、とは聞けない
翻訳の不確定性を認めるなら、他人が使っている表現と自分が使っている表現が同義かどうかについてはいくら調べても答えは得られないので、ここで言ったような話になってくるのでは
この場合:
私がある文を発し、あなたがその文の否定を発することはあるが、それが意味上の不同意なのか、文面上の不同意にすぎないのか、と問うことはできない
逆に文面上はお互いの否定になっていないが、意味的にはお互いの否定になっている (真の言い争いが生じている)という話もできない
私とあなたが共通の命題pを信じるというとき、すでに命題という公共的なものが持ち込まれている?
なので、グライスの、心理的状態を用いて言語意味を説明する理論は、その心的状態が命題的態度であるゆえに、公共的な意味理論なのか
Recanati のいう the Naïve Conception of Communication (Recanati "Indexical thought : the communication problem")
たとえば私が「ayu-mushiはかしこい」と言って、あなたが「ああ、自分で賢いと言うなんて、ayu-mushiというのは傲慢なやつなんだな」と思ったとしたら、話者と聴者が同じ内容を信じるという意味でコミュニケートされてるわけではない
では「私はayu-mushiだ」と言ったらどうか。あなたはこれを聞いて、「そうだ、私はayu-mushiだ」と思うわけではない(あなたはayu-mushiではないため)
発話によって別のこと (この「こと」をcharacterとすると) を信じるという意味では、2つの例は似ている。
(私が「私の右にスーパーマーケットがある」と言ったとき、私の正面で向き合っている人は「この人の左にスーパーマーケットがある」と知る。)
誰かがなにか知識を新たに得たなら、それを人と共有することでみんなが同じ知識を持つようになっていく
視覚障害者と味覚障害者が「りんご」というものをコミュニケートするとき、共通しているもの
ヘレン・ケラーが"water"というときと、目が見える人が「水」というときとで共通しているもの
誰かが殺人を目撃し、それが英語で報道され、またフランス語で報道される
盲人と聾者の二人の男がいると想定してみよう。盲人の方は殺害の宣告を聞き、銃声を聞き、そして被害者の悲鳴を聞く。聾者の方はその現場を見ている。二人の感覚経験は、それぞれの固有性によってこれ以上ないほど左右されている。感覚から得られる最初の情報、つまり最初の推論は、もう少し似たものになるだろう。例えば一方は大声を上げる男の観念、そして他方は脅迫的な面相の男の観念を持つかもしれない。しかし二人の最終的な結論、つまり感覚から最も隔たった考えは同一であり、それぞれの特有性からくる一面性から独立である。したがって、すべての問題には真の解、最終的な結論があり、これへ向かってすべての人間の意見は常に収斂しているのである。(EP1: 89)
エヴァンズの心的ファイル理論は、心的表象のようなものを使って「明けの明星」「宵の明星」のような意味の問題を説明しようとしている?
(1) strong publicity of thought: if an agent has the capacity to think T, then there is another agent who also has the capacity to think T,
M・ダメットはその事情を次のように把握している。もしロックの言語論のような心理主義が正しいとしたら、 言語の 言葉の意味は話し手の発話行為の背後に存在して、われわれ聞き手はそれを推測したり、想定するようなものになり、日常会話は推測のゲームということになってしまう。しかし、そのような把握は明らかに誤っている。言語の知は複雑な公共的社会的実践における言葉の使用能力のうちに示されるのであって、話し手の語る意味はその発話においてあらわに示されている、と。