ダニエル・デネット『クオリアの歴史(2017)』
「一般にある性質が経験に現れているかぎり,その性質が例化されている」という現象原理を批判しているものと考えればいいのか。
共通要素原理、現象原理、表象原理
Traditional philosophy of mind, in my opinion, has a rather bad case of tunnel-vision, excusing itself from many interesting and important questions. This is excellently revealed by the puzzlement Shoemaker and Tye express about my targets. Just who am I arguing against, in my assault on the Cartesian Theater? Could it be sense-datum theorists, Shoemaker wonders: "But sense-datum theory has few defenders nowadays, and seems unlikely to be Dennett's main target."
デネット: センスデータ理論を批判している人でも、それに代わる意識のモデルをそもそも持っていなかったり、詳細にモデルを構築しようとするとけっきょくセンスデータ理論的な直感が這い寄ってくる
(センスデータ理論に対立するとされる志向説や選言主義は"意識のモデル"ではないということか、意識のモデルってなんなのか(志向説は意識の表象理論と関係するので意識のモデルとしてありそう))
志向的対象が、原因と同一視されるのは素朴な因果意味論っぽい
単に、デネットが知覚の哲学において志向説と言われているものに立っている、ということではないのか
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そういえば、感覚などの心的状態の、「表象的な在り方(志向性など)」と「その感覚がもつクオリア(現象的あり方?)」って分けるのが普通だった気がするけど…
クオリアが志向的対象であるとすると、それなら「痛み」のように一見 志向的対象を持たないようなものもクオリアがあるといわれるのはなぜか。
「足の痛み」や「幻肢痛」のように実は対象を持つとして応答するのか?
漠然とした不快感などは対象を持たないのでは?
デネットの言いぶりだと、まるでクオリアとはマイノング的対象であるようだ。
しかし、誰も「黄金の山のクオリア」など問題にしそうにない。
これは、クオリアが主に知覚・感覚の話で取り上げられ、マイノング的対象は思考の話で取り上げられるからか?
セラーズはセンスデータを批判したけど、クオリアの存在は認めてたのでは。