自分の頭で考えること
自分の頭で考えるのはいいことだ、なぜならカントがそう言ったから
多くの人が独立に考えた結果を集計したときには1人で考えたときより誤差が減るので、自分の中で正確性を最大限にするためには他人の意見を参照したほうがいいけど、信念集計のときは独立に思考した結果を集計の素材として提供するべきかもしれない
追記: 同じようなことを言っているひとがいた:
The vicissitudes of reason
An ‘optimized’ society should have different epistemological rules governing different modes of belief
Let’s say that I’m a doctor. I believe that a certain form of cancer treatment is superior to another. My view is not widely held in the medical profession.
If I wanted to be right, there’s a pretty good case I should reason as follows:
Sure my judgment could be correct, but all those people who disagree with me are equally certain of their correctness. Taking the outside view then, I’m probably in the wrong, ergo, I heavily moderate my disagreement with the mainstream, unless I have very strong special evidence that they haven’t seen.
But if everyone reasoned like this, diversity of opinion in the medical profession would fall, and medical opinion would improve in accuracy more slowly, if at all. On the other hand, there’s a pretty good argument that you want your personal physician, in making medical decisions, to lean towards the majority view strongly.
So we have a contradiction between different well-motivated norms, what should we do?
The simplest solution is Double Booking 〔the name was invented by Mark Alfano, a fellow Sydney philosopher- to be clear, he doesn’t necessarily endorse the idea〕
You should keep one set of beliefs governing what you advocate, formed solely on the basis of your judgment.
And you should keep another set of beliefs governing what you think is true on the basis of all evidence- including the opinions of others and the recognition that there is nothing all that special about your reasoning compared to that of others (or at least others with expertise in the relevant area).
Mark Alfano has told me that there are similar arguments in the literature on Social Epistemology on a related topic- confirmation bias. Apparently, there are formal results showing that, in some models, a little stubbornness and confirmation bias can prevent convergence on an orthodoxy from happening too soon. I previously wrote about that in the precursor essay to this piece I’m not particularly worried about confirmation bias
We also have to consider what I have elsewhere termed the paradox of the crowd. If you want to be right as an individual, your best bet is to adopt the most widely held beliefs, on the basis of a wisdom of the crowds’ argument- except in cases where there is reason to expect systemic bias. However, if everyone did this, the overall epistemic quality would go down. The crowds can only be wise if the individuals that make them up are not too over eager to follow the crowd’s wisdom. (This is a bit like the problem of a stock market becoming overburdened with index fund investors).
There is one possible flaw in always marking our beliefs to the market consensus. It’s been pointed out that if everyone believed the EMH made it impossible to consistently beat the market, then no one would do the research necessary to make the EMH true. Thus we need lots of individual actors trying to figure out where stocks should be valued, and forming opinions independent of the current market price. Otherwise the EMH does not work. But they should also be wise enough to know that they are nothing special, and hence they should advise their mother to invest in index funds, not their own hedge fund. That’s what I mean by realizing that you are nothing special. You are merely a worker ant making the EMH more true.
In macro, it’s important for people like me to always search for the truth, and reach conclusions about economic models in a way that is independent of the consensus model. In that way, I play my “worker ant” role of nudging the profession towards a greater truth. But at the same time we need to recognize that there is nothing special about our view. If we are made dictator, we should implement the consensus view of optimal policy, not our own. People have trouble with this, as it implies two levels of belief about what is true. The view from inside our mind, and the view from 20,000 miles out in space, where I see there is no objective reason to favor my view over Krugman’s.
Scott Sumnerも、コンセンサスを改善するために各自で独立して探るべき信念と、コンセンサスを使うべき意思決定用の信念の2つの信念に分けられるということを言っている。
効率市場仮説は、(集計の奇跡と同じで) みんなが信じてしまい、誰も市場を出し抜こうとしなくなると真ではなくなる
関連: アンディ・クラークのニューラルネットワークの話
最初から合わせるより、それぞれ独立に考えて後で統合したほうが成績がいい
クラークの話は、各個人の独立性だけでなく、日本独自とか、埼玉独自とかの知的伝統を作ってあとで統合するということを支持する議論にもなる?
フォーマットが同じにならないので後で統合するのが難しそう
用語とか
みんなが数字を出すならいいけど
集計の奇跡みたいな議論が当てはまるのは、平均することが可能なものに限られるのでは
多数決みたいなことをすれば離散量でもできるか
確率は?
やっぱり量の問題として定式化できる問題に限られる話を一般化するのはあやしいんじゃない?
回答形式が多次元ベクトルとかの場合はどうなんだろう
成分ごとに集計の奇跡を適用すれば問題ないのでは
素人が自分で考えた結果は似通っているみたいなことを言うけど、それは独立していないことを意味するのか、それともプロセスとして独立してはいるけど結果が似通っているのか (そんなことはすごい偶然の一致以外で、ありえるのか?)
人間に共通の思考傾向?
「素人が自分で考えた結果は似通っていてオリジナリティがない」というのは専門家に近い側が言ってるがちな気がするので、外集団同質性バイアスの可能性がある?
独立な過程で生産された結果を得るためには、複数の国や時代、分野の文献を読むなどの方法もある。自分の頭で考える場合は1人しか得られない (そういう人が複数いれば何人も得られるか) けれど、その方法ではもっと多くの独立のソースが得られる。
時代が違ったほうがより独立性は高そう
Jonathan Matheson "Why Think for Yourself?"は、専門家自身が個々独立に考えることには社会的な知識を向上させる価値があるけれど、素人が考えたところで社会的な知識を向上させるという価値はないだろう、と言っている。 みんなが常識に頼ったら大変なことになる。常識に頼った方が平均的には正確でも、自分で考えないのは社会の知識へのフリーライド (これは上で言っていることと本質的に同じでは?)
「これはみんなが食べ物を自分で作らずに他人から買ったら誰も食べ物を買えなくなる。自分で食べ物を作らないのは社会の食料生産へのフリーライド。だからみんな自給自足すべき」と同じ構造なのでは
素朴に普遍化可能性を考えると、分業を否定する結論になる
「みんなが自分で考える」の反対は、「みんなが他人に頼る」のではなく、「詳しい人は自分で考え、その他の人はそれに頼る」なのでは?
「みんなが自分の専門について自分で考え、自分が詳しくない事柄については詳しい人に頼る」というのは全員が行っても問題が発生しなそう?
文化進化を考えれば、別に大変なことにはならなくて、むしろいい結果になるかもしれない。ここで常識に頼ることは、遺伝子の忠実な複製と同じことをしている。ものすごい長期的なレベルで全体として見れば、みんなが真似しかしてなくても、良い慣習を持った共同体が繁栄するという進化が生じる。
Chesterton's fense
繁栄につながる信念が必ずしも真理という意味で正しい信念なのかは明らかではないのでは
集団に協力しない人は地獄に行くと思い込んだ集団のほうが繁栄するということはあるかもしれない
vs.常識なのかvs. 専門家 なのかvs.伝統 なのか
では車輪の再発明はいいことなのでしょうか
巨人の肩の上に立つ
自分で考える能力を鍛えておくことは将来自分の問題に取り組むために重要。繰り返し実際に行うことで訓練をするべき
→「他人から学ぶ能力を鍛えておくことは将来自分の問題に取り組むために重要。繰り返し実際に行うことで訓練をするべき」
読書猿氏のように他人から学ぶ能力が極めて高くなったらたぶん将来役に立つだろう
これは自分の問題が、今まで人類が直面したことがないような新しいものや、自分や自分に関連する対象に特有のものなのか、それとも累積があるものなのか、によって違う
まずは自分で考えて、その後に他の人の意見を見て比較するというのはどうか
演習問題を解くのと同じようなかんじ
これは自分で考えることには教育的・学習上の価値があるという話だね
理解の助けになる
実際に採用しないと分かっていると、真剣に考えようとする気にならない という問題がありそう
ZFCの公理 / ペアノの公理 / 群の公理を知ってるからといってあとは自分で考えよう とはならない
群の公理から単位元の一意性を自分で導いてみよう、くらいはやる
これは自分が怠惰なだけで、本当はもっとやったほうがよさそう
誰が頼るべき人かを知るためには、ある程度自分で考えないといけないのでは
→「誰が頼るべき詳しい人か」についてのクリティカルシンキングは、一階のクリティカルシンキングよりかんたん
哲学の場合は、誰が権威かについてかなり議論の余地がありそう (誰が expert かについての meta-expertise がかんたんではない)
まず、分析系、大陸系、哲学史、などとあるし。
cognitive island
関連する専門家を同定するための外的基準 (学位を持ってるとか、その分野についていっぱい論文・本を書いてるとか、何らかの課題の成績がいいとか、予測を当ててきているとか) が使えない場合、自分自身が専門家になるしか専門家を同定する方法がないということがありえる
meta-expertiseに長けた人というのはいる。Scott Alexanderとか:
「ある人にexpertiseがあればmeta-expertiseもある」というのは成り立たないの
論文を書いているような一般的な expert には meta-expertise もあるけれど、稀な例で他人の意見をサーベイしたりはできないけれど、自分で実験とか計算はめっちゃできるという人もいるかもしれない
専門家同士の論争を見て評価するという方法のほうが、単に専門家のコンセンサスに従うより良いという議論
利害の対立
利害の対立は他の種類のバイアスと同じではないのか。→自分自身と利害が対立することはないので、利害の対立要因は常に自分で考える側が良いという方向に向けることになる。
認知バイアスについては自分と他人で自分のほうが認知バイアスが少ないとは言えない (もし現にそうだとしてもそうであるということを知るのは困難) ので、そういうことは言えない。
誰かが提案した議論に穴があるか複数の人で検証すること
これは複数の人が独立に行ったほうが堅固
特定の権威を名指しして、お前は権威ではない といったほうがいいけれど、名指しすると角が立つので「自分の頭で考えよう」と言っている場合
視覚について、遠くのものや、光の状態が通常ではない場合や、もやがかかっている状態などではふだんより疑ったほうがいいのと同じように、他人の (表明された) 意見についても、社会的要因が悪く働くような典型的状況では疑ったほうがいい
これはそもそも他人の信念が明らかでない場合?
他人の信念を根拠にするのはいいが、その信念自体がなんなのかについて誤ってしまうケースがある。
それに比べて自分の思考の過程は一人称特権で分かるので、自分の頭で考えることの優位性につながる
単に認知プロセスに社会的バイアスがあるというだけなら、自分にも同じくらいバイアスがあるかもしれないので特に自分で考えることの優位性にはつながらない。一方、そもそも他人の信念を知る段階での社会的な歪みの存在は、自分の頭で考えることが相対的に有利になる要因になる。
正直に自分の考えを表明することにそむく社会的状況要因が働いていると推測できるが、発言以外のルートから他人の意見を参照する場合には信頼できるということもありえる
みんなあの音楽家がいいと言うけど、実際の視聴行動を見ると別の人のほうが視聴されているので、後者の方を参考にする、というような仕方で他人の信念を間接的に参照し、それを根拠に自分の信念を形成するケース
中東の今後を予想するために、石油の先物商品の価格を見るというのは、先物取引をしているみんなが持つ中東についての信念を間接的に参照して、それを根拠に (その信念の理由を独立にチェックすることなしに) 中東の今後についての自分の信念を形成している (中東の未来そのものが先物商品の価格に影響を及ぼすわけではなく、それに対する人々の予想が価格に反映されてる)
https://www.youtube.com/watch?v=jYLgRo8upO0&list=PL-uRhZ_p-BM7PP8mtm1WPr0zui_JuMJqM&index=7
おおっぴらには言わないけれど、匿名のアンケートでは多数に賛同されている考えとか
予測市場
このような手段が使える場合、自分の頭で考えることが、他人の信念を知ることそのものの難しさという理由から優位になるわけではない
コスト
自分で考えることのコストと、他人の意見を調べるコストの比較。
個人差
かなり頭がいい人にとっては「自分の頭で考える」というのはいいアドバイスかもしれない。一般的に妥当するアドバイスではない。
パッションが強い人なら自分の頭で考えることは自分のパッションで考えることになるし、直観的な人、理屈っぽい人など、アドバイスの対象によって違い、一般化できないところがある
専門家が自分の頭で考えるというのと、素人が自分の頭で考えるというのにも違いがある
頼る他人がどのような種類の他人かということにもよる
そもそも自分の頭で考えるというときに指しているのはどういうこと?
観測はアウトソースしてもいいけど、思考は自分でするか、他人の議論でも実際に内容を追うって感じか
計算
実験
統計を取る/見る
観察
一次資料
認識的分業 vs. 認識的自給自足
認識的保護貿易 (日本特有の知的伝統などを作る。)
認識論的内在主義、証言に関する還元主義
アッシュの同調実験は不合理ではない。他の3人が同時に見間違う確率より、自分が見間違えている確率のほうが高い。それが自分の見えだからと言って、認識論的に特別な地位があるわけではない。
modest epistemology
他人の信念を単に信じられているという理由でーー仮に根拠が示されていなかったとしてもーー鵜呑みにすること自体は不合理ではない場合がある。これは重要なことだ。しかし、だからといって同調圧力・スティグマ化が合理的というのは嘘な気がする
「自分の頭で考える」vs.同調圧力・スティグマ という二分法が成立するわけではない気がする (成立すると明示的に書いているわけではないけど)
アッシュの同調実験のようにいっけん同調圧力に見えるものが実は合理的に説明できるということはあると思うけど
同調圧力だけどたまたま合理的な場合と同じ結論になってるだけかも
同調圧力、スティグマ化の結果というのは、多数派の信念がたまたま真だった場合には、真な信念を持っている人が増える、というだけでは
周囲に陰謀論者が多い場合は、陰謀論を信じるという同調圧力が働くだろう
自分の信念に自信がない人は異論を排除しない気がするので完全に対称ではない
でもあの人はトンデモに対して情報としてあの人はトンデモだよっていう以上に馬鹿にすることが (それを見ている第三者に対して) 有用なケースとかもあるんじゃない
それは道具的には目的を達成するために人の権利を侵害することが有用な場合もあるのと同じくらいの話で普遍化可能ではないのでは
スティグマ化は自分の信念を表現し他人に伝達する仕方の一種ではあるだろうけれど、他の仕方で表現したほうがいいのでは
偽な信念がセルフコントロールの欠如と類比できるようなものから生じているわけではないと思うし