功利主義者は被害者なき犯罪の合法化を支持するか?
https://gyazo.com/ceb972a5df5497d2e3a020aaa92f6a40
追記: これって誰か指摘してるのかなーと思ってたけど、アマルティア・センのパレート派リベラルの不可能性定理でも他者に対する願望を持つ状況を考えているので、ほぼ同じ
センの話だと、お金と願望のトレードではなく、両者がお互いに対し願望を持っててトレードするということになってる
追記3: ロバート・フランク『ダーウィン・エコノミー: 自由、競争、公益』第6章に、ほぼ同じ問題が載っている。
嫉妬も外的選好
問題: 快楽功利主義を捨てて選好功利主義を採用した時点で、
「多くの人が『他人がポルノを見ないこと』を (強く) 選好する」 という それだけの理由で ポルノを規制する立法をしてもよい
という結論になる可能性があるということを否定する原理的な理由はなくなってしまうのでは?
以下のような状況は原理的には可能:
多くの人が、他人が今後ポルノを見ないという結果のために何円か支払う用意があるとする。
そして、その金額の合計は、ポルノを見る(見たい)人々が、今後ポルノを見ないという条件を受け入れるために交換条件 (代償) として受け取ることに同意する金額の合計を超えているとする。
(現実には、以下の変化Pを実現するために必要になるもろもろのコストを含めても超えていると仮定する必要がある)
ここで、
ポルノを見たい人々は「今後ポルノを見ない」という条件を受け入れる
その代わり、交換条件 (代償) としてポルノを見せたくない人々は一定の金額をポルノを見たい人々に払うことにする
という変化 (以下、変化P) を考えると、これはパレート改善になる。
(追記: 功利主義はパレート原理 (状態Aが状態Bに比べ、誰も損させずに誰かを得させているものなら、AはBに比べて善い) を含意する。功利主義者以外 (契約論など) でも、パレート原理を認める論者が多い。)
しかし、現実的には、交渉にかかるコストのために、自発的な契約の結果として上のような変化Pが実現されることはないだろう。そこで、政府が代わりにポルノ規制によって上記の変化Pを実現することを考える。
まあそのような政策は現実にポルノを見たいが見れなくなる人に補償を行うわけではないだろうから、パレート改善ではなく、カルドア・ヒックス改善になりそう
交渉のコストが少ない世界で、上のような変化Pが関連する人々の間の自発的な契約として起こった場合を考えてみてほしい。それは道徳的に悪いことのように見えるだろうか。もし自発的な契約で上記の変更が起こった場合の (改善かどうかの) 価値判断と、ポルノ規制によって同じことが達成された場合の価値判断とが異なるなら、あなたの価値判断は帰結主義的でない可能性がある
まあ帰結主義者はそこまでいないのでそんなことは驚きではない人がほとんどかもしれない
政府が信頼できないので、もし政府が変更Pを行うことを認めると、悪い前例になって、ヒックス・カルドア改善でないときすら似たような規制が起こる (が自発的な契約として起こった場合にはそのようなことがないので違いがある) という可能性は一旦無視する
現実に規制を行う場合、どうやって人々の支払い意思額を知るのか、といった問題はあるけれど、それは公害規制の場合でも同様
↓以下の話はなんか怪しい:
というか支払い意思額の比較じゃなくて、普通にポルノ規制から得る効用の合計がポルノから被る効用の合計を超えている、と状況設定を最初から仮定すればいいだけの話で、あまりカルドアヒックス改善にこだわる必要がないのでは
でも効用の比較だとあんま驚きがない気がするんだよね
<怪しい>
もし政府によるポルノ規制がパレート改善ではなくカルドア・ヒックス改善なので結果が厳密には同じでないところから判断の違いが生じている可能性を気にするなら、財の初期分配が違っていてポルノを見せたくない人の持つお金がポルノを見たい人が持つお金より上の変化Pでの代償額と同じ分だけ最初から多いという世界Cを考えてほしい。そのような世界でのパレート改善な自発的な取引による変化Pは、この世界Aでのカルドア・ヒックス改善な政府介入と同じ結果Dを持つだろう。だから帰結主義者は2つの世界で行われてきたことの道徳的地位について同じ価値判断をすべきだ
追記: 同じではないのでは
なんかおかしい
最初から多い世界C、その世界における取引後の状態D、現実での取引前の状態A、現実でのカルドア・ヒックス改善後の状態Dを比べたとき、C < Dはパレート基準から言える。もしA < Cと言えるなら推移性からA < Dも言えるけど、AとCの関係が分からない分にはなんとも言えないよね。
たぶん、分配が変わってるだけなんだからA ≒ Cで、C < Dなんだから A < D でしょって言いたかった
この帰結を否定するためには C < Aを明示的に言わないといけないけど、それって難しいんじゃないのっていう
「Aに比べCの方が財産の分配が平等でないので、C < Aが言えて、よってその場合、自発的な契約に基づく結果Dも、現実の政府介入と同じ、悪いという結論になる。よって帰結主義的に問題ない」ということはありえるが、それは現実の分配が偶然そういう特徴を持っているかもしれないというだけで、特に必然性はない
現状の分配が仮想的にでっち上げた分配に比べて公正であるという一般的な傾向が成り立つためには、現状の分配が特別に公平なものでなければならないだろう
たとえばポルノ規制を訴えるキリスト教原理主義者は数は多いが、ポルノを消費する都市部の無神論者たちに比べ貧しい、ということがありえる (もちろんこれはでっち上げた例だけど)。そのようなときにポルノ規制について分配の平等性の観点から文句をつけることはできない。
なんにせよ、現状が (現状に対しランダムな分配の撹乱を加えたものよりも) なんらかの公正な特徴を持っていて、それを保つために反対するという文脈でなければ擁護できなそう(?)
</怪しい>
もしあなたが帰結主義を維持したままポルノ規制に反対するために、「自発的な契約で行われるにせよ、規制によって行われるにせよ、変化Pは改悪なのだ」と言い張るのであれば、今度は交渉のコストが少ない世界では変化Pを自発的な契約として行うことを禁止することで社会厚生を改善できる可能性が (原理的には) ある、ということにならないか?
「自発的に行われるにせよ、規制によって行われるにせよ、変化Pは改悪だ。厚生の選好充足説に反して、『ポルノを見せない』という取引によってポルノを見てほしくない人が得る真の厚生は存在しない。よって変化Pは本当はパレート改善ではなく、ポルノを見せたくない人々が損するだけの変化で、補償なしバージョンはポルノを見たい人が損するだけの変化だ。(続く)
(続き) 損するポルノを見たい人々の同意なしにPの補償なしバージョンを実行することは許容できない。(損するポルノを見せたくない人の同意なしにPの補償ありバージョンを実行することも許容できない。) 人がその真の厚生について損する契約に同意することは愚行権や (純粋) 手続き的正義の観点から許容できるが、損する人の同意なく真の厚生について損させるのは許容できない。たしかにPを自発的な取引として行うことを規制すれば厚生は改善するが、愚行権や手続き的正義には反する。」と論じられるかもしれないが、愚行権や手続き的正義に訴えたら帰結主義にならない
帰結主義者ならある結果が誰によってもたらされたか、誰の同意によるかに関わらず結果のみにしたがって政策の善さを考えなければならない
帰結主義者にとっては同意は選好が顕示されるための手段にすぎないので、選好がすでに分かっているという仮定をおいている今回の場合は強制でも同じ
選好が分かるというのは、非現実的な仮定かも
自発的に同意するような状況を考えると道徳的に問題がないように見えるのはまあ普通。人の家のものを盗んでいって、その対価として十分なお金を渡すというようなことは、結果として効用が高まったとしても、良くないように見える。(盗む側が自己判断で何が十分かを判断させるのは、過小に評価するインセンティブがあるから、一般に盗みを禁じたほうがいいという理由でルール功利主義でこの直感と同じ結論を正当化できると思うけど) 誤って悪いものを買って効用が低まるとしても、自分で買うことを禁止することはない。(本人以上に本人のことを気にする人はなかなかいないし、大概は利害が対立する状況がありえる とかの理由でルール帰結主義的にこの直観と同じ判断を正当化できると思うけど)
功利主義やカルドアヒックス基準だと臓器くじとかも正当化されるので、変な結果が出るということ自体は変ではないのかも
いやカルドアヒックス基準で臓器くじは正当化できるの?
もしできるなら患者がお金を出して参加者内で開催される、一定のお金をもらえる臓器くじを開催すれば、人々は自発的に参加するのでは
これはもしポルノ規制派がポルノが犯罪を助長していると、誤って考えたがゆえにポルノ規制を支持していたという場合にはなりたたない議論 (人は誤った考えを持つ場合、自発的な取引からでも損することがありえるので、自発的な取引としてある変化が起こる可能性があるからといって、それがかならずしも良い変化ということにはならない)。
また、ポルノ規制派がパターナリズムを目的としている場合も、成り立たない。実際には本人こそが本人にとって何が良いかを考えるのに良い立場にあるはずなのに、誤って、そうでない と考えてしまった場合にも、自発的に起こる変化が改善ではないという可能性があるから。
この議論が成り立つのは、ポルノ規制派が価値観の押し付けをそれ自体として追求している場合
功利主義は、誤った客観より主観を尊重する。
何かの手段として規制が求められている場合ではなく、それ自体として希求される場合にはそこに誤りの余地は少ないので、投票者/契約者の選択がそのまま尊重されるべきで、(集合行為問題などがない限り) そこに文句のつけようはあまりない (人々の選好に時間的に不整合がある場合などはそうでもないかも)。
「自分はそれが嫌いだ、その気持ちは強く、そのような人はたくさんいる」と感情論を主張するだけのほうが、そのような感情に後付けで合理化するより、上のような議論で正当化できる可能性があるから、より望ましいのではないか。
もちろん、現在の規範はそういうふうにはなってない
ただし、法律という手段で価値観を押し付ける上で、意図しない結果を生み出す場合は考えうる。
たとえば、他者への願望の実現度合いを表す関数 f(x) として、規制を使ってその値を増やそうとする場合、それを実現させるための代理指標としてモザイクや黒塗りを用いることになる。モザイクや黒塗りすることを義務付けたとして、絵描きの創造性を予測することは規制を行う側から見て予期し難いだろうから、意図しない逃れ方をする可能性が出てくる。
グッドハート?
人は自分の効用関数を法律にコーディングすることはできず、法律という体裁を取る必要があるため
その絵描きがモザイクや黒塗りをする時間コスト (あるいはそのコストを嫌ってそもそも公開されない) 分の効用を得られるとは限らない
モザイクや黒塗りをする手間を惜しんでそもそも公開されないことも考えられる
人々が自身の持つ正義感の満たされについて合計X円の金額を支払う用意があるなら、正義感の内容にかかわらずその満たされはX円の価値を持っているのだと言えないだろうか。ここで社会の状況の価値をそこから得る正義感の満たされというファクターによって測ることは、食品の価値をそこから得る美味しさというファクターによって測ることと、全く同じように扱われている。
ツッコミどころ: 人の行動において考慮される価値を顕示選好理論的に何でも選好に含めてしまうと、そこには倫理に分類されるものも含まれてしまうため、ここで功利主義に基づいて行動する人が居た場合何らかの循環参照が発生する可能性がある。
功利主義を実行するために、選好を参照し、選好が功利主義を参照するっていう
たとえばAさんという人とBさんという人だけがいる世界を考える。その世界において総効用Uは
U = U(A) + U(B)
ところでAさんは完全に功利主義に基づいて行動するとしよう。その場合、顕示選好理論によれば、
U(A) = U
しかし、これをもとの式に代入すると
U = U + U(B)
⇔ 0 = U(B)
となって、U(B) = 0の場合にしか満たされえない式が出てきてしまった。
しかし顕示選好的な発想では倫理に分類されるものとそうでないものの区別は難しいように思うし、顕示選好的な発想じゃないにしても、倫理に分類される価値基準とそうでない価値基準をどう区別するのかはよくわからない。
まあ本人が倫理だと思っていれば倫理、選好だと思っていれば選好という基準はありえる。
関連:
これフリーライダー問題を無視してる気がする。売買春アンチ勢は各人で独立してセックスワーカーにその賃金以上を補償する額を払うほどには強い感情を持っていないけれど、各人の支払い意思額を全部足せば売春を全部あるいは一部やめさせるのに足りるという可能性が残ってるのでは?
フリーライダー問題を解決するため、人々がassurance contractでお金を集め、売買春をやめさせるために賃金分を補償するに足りるお金をセックスワーカーに支払うという状況を想定するといい。しかしそれでも、売買春アンチ勢が他人の選好に関して未知なら、売春しようと思わない人も、補償金をもらえるという状況になるとハッタリで売春しようとしてるということにみせかける可能性がある。また、売春するという選好がもともとなくても、"お金をくれなければ売春する"というふうにセルフコミットメントすることでお金を得るという (恐喝のような) 手法が発達する可能性がある。 交渉は市場メカニズムと違って耐戦略性がないのかな?
【始まり: 厚生の内在主義、危害原理と非因果的危害の話】
(追記: 危害原則ってミル以外の人も使っているし、ミル固有のものではないと思ってたけど、non-agression principle と harm principleはべつということに気づいた。
前者はリバタリアンっぽいやつ、後者がミルのやつ)
功利主義の中で危害原理を受け入れるためには、暗に快楽功利主義のようなものを前提にしなければ意味を為さないのではないか
快楽功利主義とまでは言わなくても、社会厚生を算出するために使われている個々人の厚生がその人の内在的性質であるという厚生の内在主義を前提にしてしまっている。
(正確にいうと納税を義務付けるとか、臓器くじや人体実験を行い、参加しない人を罰するとか、のようなケースでも危害原理と功利主義が対立することは結構ある気がするけど、どうなってるんだろう)
※わたしはミルについてしらない
追記: ミルの自由論を見たら、危害原理の例外として他人を助けることが強制される場合というのが書いてあり、行為だけでなく不行為も害とみなしうる、ただし後者の害の禁止はより慎重であるべき、と言っていた。世界の名著自由論 p.126
ミルの危害原理は、どちらかというと、「他者の利害が関係しない限り禁止/義務付けるべきではない」といったほうが正確かも
厚生の内在主義:
あるひとの 頭、意識、心、あるいは皮膚の内側においての違いがない2つの状況を考えたならば、その2つの状況においてその人の厚生に違いがある ということは成立しえない。
この主張それ自体としてはその主体の持つ信念 (考え、思考) が厚生に影響する可能性は排除しない。
たとえば、他人のポルノ視聴から直接影響を受けていなくても、「他人がポルノを見ている」という信念を介して、ある人は悪い感情になるかもしれない。
また、仮に模造の木と本物の木の区別が見た目ではつけられないとしても、「これは模造である」という信念を持って見るときは「これは本物である」と思っていたときよりも幸福度が低い、ということは、厚生の内在主義を前提としてもありえる。
厚生の内在主義によれば、他人がポルノを見ているが、そのことを知らず、自分の頭、意識、心、身体に何ら影響を及ぼしていない場合には、他人がポルノを見ていない場合に比べ、その人の厚生が変わることはありえない。
スティーブン・ピンカーがスティーブン・ピンカー『エンライトメント・ナウ』(最初のほうしか読んでないけど)でヒューマニズムと呼んでいたものは、結局のところ厚生の内在主義に近い気がする? (あるいは厚生は人間の心理状態であるという、厚生の心理主義? (健康は心理状態でもないが) 知識は内在的状態ではない。敬虔さは心理状態?)。 選好充足説であっても、充足されている選好自体は人間が持つものだから、ヒューマニズムに反しないということもできるかもしれないが。そんなことを言ったら現実に支持者が居るほとんどあらゆる立場がヒューマニズムの一種になりそうというのはともかく。
ここでの直感に反する点は、選好充足説では危害が因果関係なしに発生しうる点だ。
(過去の選好が未来の結果で充足されているかを問題にしているとき、結果が生じたより過去に言及しているけど、そのとき選好充足説は厳密に帰結主義と言っていいのか?)
これらの快楽説に対する批判を回避できるのが選好充足説である。選好充足説とは、幸福とは選好や欲求が充足(満足)されることである、という考え方である。ここで注意しなければならないのが、選好充足説では、実際に選好が充足されることを幸福とする。例えば、あなたは野球が好きで、巨人のファンで、巨人がリーグ優勝することを欲求している。ある時あなたは巨人がリーグ優勝したという情報を手に入れ、欲求が充足されたと感じた。しかしその情報はデマだったとしよう。するとあなたの欲求は実際には充足されていない。したがって選好充足説においては、あなたの欲求は充足されておらず、あなたは幸福ではないとなる。
選好の充足が生じるために、選好が充足されたことを主体が知る必要はない。
選好の充足が生じたとき、主体の脳や体になんの変化も生じている必要がない。
(厚生の内在主義によれば、八百長が行われていると知らない観客は、八百長が行われていなくてそれを知っている場合と、スポーツの観戦から同じ厚生を得ている。仮にその人が「前者が真、そのことを記憶喪失薬で忘れる」という世界と「後者が真」という世界に行くかという選択を迫られた時、後者に払う金額と前者に払う金額が違うとしても)
自殺したいひとが自殺できたらそれは受益なのか
望まれる出来事の発生によってフォン=ノイマン・モルゲンシュテルン効用(vNM効用)が変化するのは因果的な過程ではない。
別に基数的効用じゃなくてもいいんだから、フォン・ノイマン=モルゲンシュテルンとか言わなくてもいいのでは。序数的な効用でいいんじゃない
よって、光速の限界を越えてvNM効用の変化が発生する場合がある。
〔追記: 外在的ということを、非因果的というのはいかがなものか〕
非因果的危害 (acausal harming)
選好充足説によれば、人は自分の脳にも体にも一切の変化を経ることなく、危害を受けることがありえる。
非因果的危害により、我々は死者を遡及的に傷つけることができる (?)
死者との約束を破ること
望まれたり望まれなかったりする出来事とvNM効用の変化は「出産すること」と「父親になること」との関係に類比できる。
「出産すること」と「父親になること」との間の関係は、非因果的な反事実的依存関係である。
誰かの出産によって、1光年先の場所の誰かがそれと同時 (同時とは?) に父親になるという出来事が発生することができる。
自分の脳にも体にも一切の変化を経ることなく、人は父親になることができる。
J.S.ミルは質的快楽主義の快楽功利主義だったからいいけれど、選好功利主義者にとって、(ほとんど誰も提唱していないような立場を棄却するのにしか役立たないような無意味なものではない) 有用な危害原理のような原理があるかははっきりしない。
非因果的な危害を認めた場合の危害原理は、危害原理が通常持つとされている結論を含意しない。
人々の身体・脳の内在的性質を保ったまま世界の側を無に変えるが、あたかも元のままであるかのような幻覚を見せ続けるデカルトの悪魔の変種を考えると、そいつがした行為は厚生の内在主義の観点からは道徳的非難に値するものではない。
非因果的被害者
非因果的加害者
非因果的加害性
非因果的外部効果
非因果的帰結主義
単なるケンブリッジ加害
区画化して所有権や政治単位を設定することによる外部効果の解決は因果関係が空間的に離れた場所には伝わらないというローカル性に依存しているので非因果的外部効果の解決にはあまりやくにたない。
海を区切ってそれぞれ所有権を設定しても、ウナギは海の仕切りを気にせず移動してしまうかもしれないので意味がないことや、CO2は仕切りを超えて移動してしまうので地球温暖化は国際的にしか解決できないのと同じようなもので、区画化は役に立たない。(ウナギのケースとは所有権の役割にちがいがあるかも)
地球温暖化の場合は、宇宙的観点から見れば、惑星毎に区切って政治単位を設定すれば解決できると言えるが、非因果的外部効果の場合は因果関係の相対性理論的な局所性を破って光速の壁すら超えて外部効果を一瞬で発生させるので、人間の願望が及ぶ限界を除いていかなる境界にも意味がない。
反論: 人は自分に近い人に願望を抱きやすいのではないか(自国民がポルノを消費するのは許せないが、外国人がポルノを消費していてもあまり気にしないというような)。
人々が内心で○○しないという自発的な契約に合意する状況を考えてみる。そしてその状況での結論と内心について社会規範や政府が規制する場合を比較してみる。(まあ内心について実効性を持って規制するのは――自由な契約の結果としても社会規範や政府による統制の結果としても――不可能ではあるが。)
【終わり: 厚生の内在主義、危害原理と非因果的危害の話】
いったん厚生の内在主義を拒否すると、公害防止のための規制を行うことと、人々が他人にそうしてほしくないという (だけの) 理由でポルノ規制を行うことは同じ理由で正当化できる。
これがさっき無視した
政府が信頼できないので、もし政府が変更Pを行うことを認めると、悪い前例になって、ヒックス・カルドア改善でないときすら似たような規制が起こる (が自由な契約として起こった場合にはそのようなことがないので違いがある) という可能性は一旦無視する
という問題に対する応答になる。
厚生の内在主義を取らなければ公害による危害と、してほしくないことをされるという非因果的危害に違いはなくなってしまうから。
もしあなたが多数の支持を得て民主的手続きで公害防止のために工場を運営する企業の私有財産権を制限することを容認・支持するなら、同じ根拠は多数の支持を得てポルノ規制を行うことを容認・支持するためにも使えるだろう。
(公害規制にも反対しているよという場合は、この議論は適用できないけど)
追記: リバタリアンは、「公害自体が人々の自己所有権を侵害しているので、それは権利vs.権利の対立であって、権利vs.公益の対立ではない」と言えるのでは
表現の自由の制限は滑りやすい坂論法で政治的言論の統制、反対派の弾圧や真理探求の阻害にも使われる可能性があるが、私有財産権の制限はそうではない
というのはまあそう (いったん私有財産権の制限をはじめたら、共産主義への滑りやすい坂を下る、という論法もあるかもしれないけど)
経済的自由権より精神的自由権を強く認めていて公益のために制限することに否定的な人が多いのでは
名誉毀損罪・誹謗中傷罪・著作権とかによる表現の自由の侵害は許容している人が多そうだけど
以下のはどう考えるか
Hobbes says that if everyone’s fighting then everyone loses out. Even the winners probably end up worse off than if they had just been able to live in peace. He says that governments are good ways to prevent this kind of conflict. Someone – in his formulation a king – tells everyone else what they’re going to do, and then everyone else does it. No fighting necessary. If someone tries to start a conflict by ignoring the king, the king crushes them like a bug, no prolonged fighting involved.
But this replaces the problem of potential warfare with the problem of potential tyranny. So we’ve mostly shifted from absolute monarchies to other forms of government, which is all nice and well except that governments allow a different kind of war of all against all. Instead of trying to kill their enemies and steal their stuff, people are tempted to ban their enemies and confiscate their stuff. Instead of killing the Protestants, the Catholics simply ban Protestantism. Instead of forming vigilante mobs to stone homosexuals, the straights merely declare homosexuality is punishable by death. It might be better than the alternative – at least everyone knows where they stand and things stay peaceful – but the end result is still a lot of pretty miserable people.
Liberalism is a new form of Hobbesian equilibrium where the government enforces not only a ban on killing and stealing from people you don’t like, but also a ban on tyrannizing them out of existence. This is the famous “freedom of religion” and “freedom of speech” and so on, as well as the “freedom of what happens in the bedroom between consenting adults”. The Catholics don’t try to ban Protestantism, the Protestants don’t try to ban Catholicism, and everyone is happy.
Liberalism only works when it’s clear to everyone on all sides that there’s a certain neutral principle everyone has to stick to. The neutral principle can’t be the Bible, or Atlas Shrugged, or anything that makes it look like one philosophy is allowed to judge the others. Right now that principle is the Principle of Harm: you can do whatever you like unless it harms other people, in which case stop. We seem to have inelegantly tacked on an “also, we can collect taxes and use them for a social safety net and occasional attempts at social progress”, but it seems to be working pretty okay too.
政府は外部性を解決できるけど、一方政府自体も意思決定によって生じるコストを少数派に押し付けることができるため外部性を持つ → 社会契約において、政府の意思決定に任せた場合に生じるであろう外部性 (などのコスト) の期待値が、個人に任せた場合の外部性の期待値を下回る場合には、その領域を政府の介入外の私的領域とする憲法に同意する
これはみんなが他人について気にかけるよりも、自分のことをより気にかけているという仮定にもとづいている
もし他人について気にかける分が大きいなら、「どちらも相手に自分の価値観を押し付けない、お互い様」ではなく「どちらにも相手に自分の価値観を押し付ける、お互い様」という交換条件に同意する可能性がある。
たとえば、ある人は他の人々が死姦しないことを強く望み、残りの人々は先の人々が自分自身をリスカしないことを望んでいるとする。(他者より自分についてよく気にかけているなら) お互いに交換条件でお互いに押し付けるのやめようという契約になるかもしれないし、(他人のことの方をより気にするという場合なら) 逆にお互いに押し付けあおうという契約条件に双方が同意するかもしれない。
追記: これはまさにアマルティア・セン パレート派リベラルのパラドックスが考えている状況
自由主義は原理的に厚生が主体内在的であるという主張に基づいているのではなく、みんな見たこともない他人にどうこうしててほしくないと願望を抱くよりも、自分自身や知っている人の幸福や財産について量的により強い欲望を持ちがちであるという経験的事実に基づくべきということなのかもしれない
だから他人への願望が少しくらい集まったところで、じっさいに影響を受ける本人自身の厚生の重要さを上回ることがない、と。
しかし、なんかそれはジョナサン・ハイトあたりに、西洋の高学歴以外でもそうなってるのかとツッコまれそうな気もするし、もしかしたら scope neglect かもしれない。 ポルノに課税 (ピグー税)のほうがいい
ポルノではなくソドミーでもよい
国旗を焼くというのでも
異人種の結婚
被害者なき犯罪かつ、十分それを望む人がいる場合はなんでも適用可能
全員で補償と約束に合意するという人数が多い場合はありそうにない状況をさっきは考えたわけだけど、なぜそのような取引を、個々の人々間の取引に分解できないのか。
これは「誰々がポルノを見ない」という財に排除性がないことから、フリーライダー問題の発生が避けられないため無理なのではなかろうか
もし親が自分の子供にポルノを見てほしくないというように、対象が決まっているならフリーライダー問題にはならないけれど
もしポルノを見てほしくない人と見たい人の割合が 1:1 程度であれば、ポルノを見てほしくない人が見たい人に対し、一定の金額を支払う代わりにポルノを見ないという契約を結べばよいだけだから、政府が規制を行う必要がないということになるかもしれない(しかし、どの人がポルノを見るのかということが知られていないと意味がないかもしれない(つまり、ポルノを見たくないのに、見たいということにして、見せたくない人との間の契約からお金をせしめようとする人がいるとうまくいかないかもしれない))
まあそのような契約は履行が事実上確認不能という問題がある
ポルノを見たい人と見せたくない人がどうやって契約を行うんだ
マッチング?
一部の状況ではこのような取引は実現可能かもしれない。
つまり、親が子供がポルノを見るかどうかによってお小遣いの額を変えるみたいな?
i-Filterを受け入れるかどうかによってお小遣いの額が変わる
あるいは逆に、ポルノを禁止されているが、親に一定のお金を支払うと解禁されるなど
「無関係な他者の性行為を支配したいなんて欲望は病的だから、全体の福利の計算にカウントしない」と言っていいなら、なぜ「こんな性欲なんて病的だから、全体の福利の計算にカウントしない」と言ってはいけないのか。
どちらも特定の種類の欲望が優れていたり劣っていたりすることを認めているのではないか。
後者が卓越主義 (質的選好主義?) なら、前者だって卓越主義ではないか? (前者は内在主義と言ったほうがいいかもしれないが)
(これについて変な御託を付け加えてみると、ポルノに興奮するのは進化的適応環境では絵や映像がなかったから興奮するようになっていても適応に損にならなかったから残っているだけで、現代社会では適応的でない脳の機構を利用している。これは認知バイアスと似たような経緯だ。(よって同性愛は…))
ある人々にとって、無関係な他者の行動を規制したいという欲望は、性欲と同じくらいどうしようものなくそこにあるものなのかもしれないのだ。
浮気の禁止などで自分の配偶者の性行為をコントロールしたいという欲望を抱くのはどうもいいらしいし。
(自分の配偶者の浮気はすぐ知ることになるから主体の内在的性質における違いがあるかもしれないが、絶対にバレないように浮気するのは内在主義的に構わないだろう)
もし社会的に獲得された選好 (適応的な敏感さ) によって規制を行うのが福利の向上にカウントしないなら、社会的に獲得された選好によって通常の消費活動を行ったさいも福利の向上にカウントしない?
「無関係な他者についての選好に基づいて行動を決めるなんておかしい」という人の効用が集積することで無関係な他者についての選好を持つ人々の効用を上回るということがありえる。
表現の自由が守られていてほしいというのも、人がそれに基づいて行動している以上選好の1つかもしれない (表現の自由を手段として別の目的のために行動している場合はそれ自体が選好されているわけではないけど)
主体内在的なものを優越
他のこともできたのに、わざわざ時間をかけて、ポルノ規制を求める言動を行うとき、ひとびとは他者がポルノを見てほしくないという選好を顕示している。
人々はリンチなどで同性愛に反する選好を顕示していたのではないか。
人はしばしば他人を痛い目に合わせるためだけに、たくさんのコストをかける。
ここで、同性愛者をリンチしている人はあくまで「倫理的なことをしたいというのが欲求であり、コーヒーと間違えて紅茶を飲む人が〈紅茶が好き〉という選好を顕示しているわけではないのと同じように、いくら同性愛者をリンチしても、それはそれが道徳的だとみなす限りにおいて〈他人がソドミーをしない〉という結果を選好しているに過ぎず、それ自体としてその結果を求めているわけではない、だから現にそれが道徳的でない以上、彼は〈他人がソドミーをしない〉を選好しているわけではない」だと言えるかもしれない。
この辺はよくわかってなくて、「紅茶を飲みたい」という欲求は正確には「おいしいものを飲みたい」という欲求と「紅茶はおいしい」という信念が複合したものなのかな。あるいはほとんどの欲求というのは、「快楽を感じたい」という欲求と、「Xをすれば快楽を感じられる」という信念が複合したものなのか。
ポルノやソドミーの規制に賛成する人はなんらかの道徳的欠陥を持っているのではなく、(知覚過敏の人がより多くの騒音規制に賛同するように) 私とは違う選好を持っているだけ、という説明は考えられる。
まあ、行動を説明する選好は唯一ではないから、他の選好によって説明されるかもしれないが。
ポルノ規制のために運動をしている人は、「ポルノ規制が道徳的に善いならば、ポルノ規制を望む」という欲求を持っているのかもしれない。
というか、1人1人の行動が実際に規制に与える影響は少ないから、別の選好が役割を果たしていると考えるのはまあ自然ではある。
「他者への願望は、それに基づいて行動を正当化するためには、道徳的に正当化されていなければならない(ただの好みを人に押し付けてはいけない)」というの自体が厚生内在主義的に理解された危害原理の発想を既に前提にしているのでは
量的な側面の追加: ポルノ消費量をx%減らすという結果に対して、y円支払う用意がある
xが多くなるにしたがってyも大きくなるとする
強姦された被害者を家族が殺害すること
家族が大量にいないと条件が成り立たない そうでなければ勘当するなり被害者に家族がお金を払って自殺してもらうというほうがいい
お金をもらっても自殺する人はあまりいないと思う
それは命の価値が高いということを意味する
一年くらい楽しい生活を送ることと引き換えに自殺するひとはいるかもしれない
みんなが死んでほしいと思っている人間を殺す 暗殺市場
それは自殺してもらうためにみんなでクラウドファンディングすべきでは
お金をもらっても自殺する人はあまりいないと思う 2
この反直感的な結論が導かれたのは、選好功利主義に問題があったのだろうか?
しかし、同じ取引が自発的な契約で実現される場合には道徳的に悪くないように見えるので、本当は帰結主義に問題があったのだろうか?
ここでポルノ規制の正当化に用いられているのは、自由貿易や公害規制の正当化に必要なヒックス・カルドアの補償基準と同じものでしかない、無害なものに思える…。
非因果的危害のような面妖なものを考えなくても、道徳的不快感のようなものについても功利主義は自由主義的直観に反する:
快楽功利主義者や選好功利主義者からすれば道徳的不快感のようなものを危害にカウントしないのも難しい
もし身体的苦痛が危害である理由が特定の精神的不快を与えることであるからであり、本質的には身体的な苦痛と道徳的な不快感に道徳的な違いがないとすれば、同性愛に対し道徳的不快感を感じる人が十分にたくさんいれば、(この場合は不快感という感覚の発生を問題にしているので知られずにやる場合には (さっきまでの話と違って) 当てはまらないが) 公然と同性愛を行うことの規制は本質的には公害規制と同じ道徳的地位でしかないのではないか
ここで身体的苦痛がそうであるよりも不快感は感性の可塑性が大きいことに訴えることができるかもしれない。つまり、同性愛が最初は不快でも、見ているうちに慣れるだろうと。しかし、可塑性を持ち出すのは諸刃の剣であり、どちら側に対しても、相手側に合わせろと言うためにも使えてしまう可能性がある気がする (ちなみに、ホモフォビアには同性愛そのものより遺伝性が高いという結果があったはず)。
(※環境要因だからといって自分の意思で変えられるとは限らない)
他人のことを気にするのは任意だから注意の向けるということに関して可塑性がある気がする?
つまり、もし何かしら同性愛に可塑性があったとすると、同性愛者側がホモフォビアにあわせるために我慢しろと言うのにも使えてしまう。上の議論を反転すると、禁欲してるうちに慣れて欲がなくなるはずだから、やめても実際には大した害ではないみたいな (ブディストが言いそうな話になった)。
追記: コース的な枠組みで言えば、同性愛者側が自分の性的活動を変化させるコスト (禁欲生活の嫌さ) と、ホモフォビア側が変化させるコスト (同性愛についてあまり考えないとか) を比べる。取引を行えば、コストの低いほうが相手に合わせるだろう。ただし、コース的な枠組みは、費用の発生を同性愛者とホモフォビアの行為の相互作用から生じる因果的な出来事と捉えているため、今の非因果的な話とは合いにくいかもしれない。いや、選好を変化させることを考え、そのコストを考えればいいのか。
(コース的な枠組みは、帰結主義というよりは契約論だけれど)
コース的な枠組みは、〔これは今回の話とは微妙に違うけれど〕公然と同性愛者がいちゃいちゃすることによることによるホモフォビアの精神的な不快感というのを分析する上でのほうがうまく使える。同性愛者が公然といちゃいちゃしないことによる費用と、ホモフォビア側が目をそらすとか、その場から立ち去るとかいうことの費用を比較する。前者が低ければ公然の場所でいちゃいちゃしないという契約になるだろうし、後者が低ければそういう契約は行われないだろう。もちろんここでの例は、異性愛者が公然といちゃいちゃすることでもいいし、公然と裸になるとか、セックスするといったことでもいい。
The recent study by Zietsch, et al. (7) can be used to illustrate representative research results obtained with large samples from twin registries. They used a very large sample (9,884) of twins from the Australian Twin Registry, one of the largest samples to date for twin studies of homosexuality. In this sample, there were 1,840 identical twin pairs (1,133 female and 707 male). Their calculated value of only 24% for the proband-wise concordance for homosexuality indicates a weak genetic influence. Moreover, their calculated figure of 31% for heritability of homosexuality also indicates a weak genetic component. This leaves around 68% of the variance represented by post-natal, “shared environment” and “residual” environmental influences combined.
同性愛が胎児期のホルモンシャワーに由来する場合、双生児法だと、ふたごの両方にホルモン環境が同じなら共有環境になるし、違うなら非共有環境になる。
burning a national flag has negative externality
@suzuki_8910: 実のところ、ミル自身がdistresはharmではないから干渉の正当化根拠にならない、と明言している箇所はないのだよな。彼が提示している原理といくつかの判断からするとそうなっているに違いないという解釈に過ぎない。その意味で、この枠組みは前提というよりむしろ係争点とみなされてよい。 なぜ功利主義を前提にして harm と distres を道徳的に有意味な仕方で区別できるのかよくわからない
国家権力による干渉を指しているなら、不快感から保護する法を作るのは実際的に難しいみたいなことはありそう
身体に対する危害は、あくまでそれが精神的不快感につながる限りで害なのだ、だから同意の上でボクシングなどを行うことは身体に対しやってることは暴行と同じでも、必ずしも害ではないのだ、というのはもっともだと思う。つまり、身体的な害が持つ道徳的悪さは精神的な不快感の持つ悪さに完全に還元できる。しかし、それなら身体的な害を防ぐことの方が優先されるという理由は不明な気がする。権力の乱用の可能性を心配している、というのはまあもっともではあるけど (明白かつ現在の危険みたいな条項が必要なのと同じで、明確でないと乱用されるかもしれないから)。
※わたしはミルについてしらない
功利主義に基づいて集団的意思決定が行われるということが周知になると、政治的な争いになっているテーマについての自分の気持ちを過大に申告するインセンティブが生まれる
身体的危害は、人によってそんなに違わないので過大申告が問題になりにくい。そこで政争になっている利害対立の解決において、単なる不快感よりも、身体的な危害を優先する理由がある?
そうすると、なぜボクシングのケースでは身体的な危害より精神的な利益が優先されているのかが分かる。「当事者たち全員がそう望んでいると言っているという場合にはボクシングしていい」という社会的意思決定ルールを考えたときに、自分の選好を偽って申告するインセンティブはないから。
個人の自由のラディカルな制限を回避するための選択肢:
1. 厚生の選好充足説を否定する。厚生とは主体に内在的なものである。
おなじみの経験機械などの事例に対処する必要がある
厚生の選好充足説と内在主義を組み合わせ、行為の道徳的考慮においてその行為が持つ外的な物体への結果についてだけ選好充足説にもとづく帰結主義を取り、人間 (や動物) への結果については内在主義的考慮を優先するとかもあるかもしれない
厚生の内在主義を取ると、人間が現に主体内在的な厚生のために行為しない場合にはそのようなふるまいを規制 (やりにくくする) する状況を考えると原理的には社会厚生を改善するという結論になるかもしれない
たとえば、「生きている間の幸福を犠牲にしても、自分の生きた証を残したい」とか、「死後の名誉がほしい」とかの理由で行動することを
そういった行為を規制することで、社会厚生を改善できる、という結論を導く可能性がある
そうすることで現在の内在的状態にも変化を与えてしまうだろうから、なんとも言えない
「ほんとうのことを知りたい」とか
厚生の内在主義者は、せいぜい知識概念の内在主義的対応物 (内的に正当化された信念とか) で満足するしかない
「ほんとうのことを知りたい」ではなく「ほんとうのことを信じていたい」という選好を多くの人びとが持っている場合、世界を多くの人がそうあると信じているような形に変えることで社会厚生を高めることができるという変な結論が導けるが
まあこのことが倫理について持つ帰結は大したものではないだろう。内在的正当化を求める人と真の知識を求める人に行動の面で大した違いは無いだろうから、後者のための行動を規制することで厚生が改善するということはあまりなさそうだ。
人は世界が秩序を持っていてほしいとか、神がいてほしいとか、世界が全体として理解可能であってほしいとか、ラマルク主義が真であってほしいとか、かっこいい理論が真であってほしいといった願望を抱くこともあるかもしれない (そういった願望を実現するために世界の側を変えようと行動するという人は見たことがないが)
純粋な顕示選好理論でも、人が正しいことを信じていないとその人の行為がその人の選好を満たすとは言えないので、原理的に個人の行動の規制によって社会厚生が改善する余地があるというのは大したことではないかもしれないが
しかし、その人は自分の選好を実現するために正しいことを信じるインセンティブがあるし、強制されなくても説得に応じるインセンティブがある。
一方、厚生の内在主義が正しい社会厚生の計算法なのだとして、自分自身の選好を満たすための意思決定において厚生の内在主義に従わないひとを説得できるというものではないだろう
2. 帰結主義を否定する。
たとえば、自由はそれ自体で価値を持つのであり、それがもたらす結果の価値に還元できるわけではない、とか。
非帰結主義的功利主義: 人々は現に結果だけでなく手段を気にしているのだから、行為が持つ価値を考えるときはそれについて皆が持つ非帰結主義的選好を考慮する必要がある
単に権利概念に対する訴えるだけではあまり意味がないように思える。どのように権利を割り振るか自体が問題になるため。もし権利を割り振る上で重要なのが効率性なら、上と同じ議論で「他者の行動により自分の願望の実現を阻害されない権利」を認めた方がいい可能性が否定できない (環境権や景観権がそのように正当化されるかもしれない (*) のと同じように)。それを避けるために必要なのは、権利の割当ルールを正当化する上で効率性以外の基準が使えると主張することかな。
ここでいう効率性にもとづく正当化は、取引によってそれを望む人のところに行くことが期待できない場合は、その物などを望むであろう人のところに最初から物などが分配されているとよい、というような考慮
(*) しかし環境権や景観権は本当に権利なのか。想定される受益者が望むか否かにかかわらず政府が提供するようなものなのに。「望むなら殴られない権利」「望むなら殺されない権利」ではなく、ただの「殴られない権利」「殺されない権利」というものを権利と呼ぶならそれを権利といってもよさそう。(いや、「AならばB」は「AでないまたはB」なのだから、殴られない権利は望むなら殴られない権利を含意するだろう。正確には、「望むとき、そのときに限り殴られないという権利を持つこと (?)」)
また、社会契約に対する訴えも必ずしも効果的でないのでは。なぜなら、まさに上で問題にした「取引」は社会契約において人々が同意するかもしれない契約だから。
権利を効率性を最大化するように割り振るのは社会契約論的発想だから、上の2つはまとめたほうがいいかも