「新反動主義」雑感
ヤーヴィンの一般的な方法論など
ヤーヴィンはロスバードの影響をつよく受けているけれど、王!というのは、エリートでもない大衆でもない第3の戦略っぽい。知的エリートは腐敗しているとする点ではポピュリストと共通するものの、大衆にも期待していない感じ。
ブライアン・カプランやジェイソン・ブレナン (どちらも本自体はayu-mushi.iconは読んでないけどネットでのまとめを見る限り) のような反民主的リバタリアンはエリート的な方面から来ており、処方箋もエリート主義的 (経済学教育を受けた人に選挙権を限定するとか) なのに対し、カーティス・ヤーヴィンはむしろもともとポピュリズム色の強いパレオリバタリアンの方から来ている点に注意が必要。
なので、民主主義に反対するリバタリアンという点では共通していても、カプラン,ブレナンと、ヤーヴィンはかなり違った態度を持っている。
カプラン: 主流派経済学者の考えを基準に、無知な一般人の政治的影響を嘆く。中央銀行は経済学者が牛耳ってるので素晴らしい。
ヤーヴィン: 主流派経済学に批判的。中央銀行の存在はおかしい。エリートの考えが色々間違っていることこそが現代政治システムの問題だ。
ヤーヴィンは、アカデミックエリートと下層階級の協力である民主党が大きな政府の政府プログラムを行っていると言っているけど、ミルトン・フリードマンは逆? のことを言ってた。
フリードマンによれば、政府プログラムは中間層を受益対象としたものが多く (高等教育への公的助成、年金制度) 、割りを食うのはすごくお金持ちとすごく貧しい人々
上層と中間と下層という言葉を使うと、
ヤーヴィン: 政府支出に影響を持つのは上層+下層の勢力
フリードマン: 政府支出に影響を持つのは中間層
となって対立しているように見えるだけで、上層、下層で実際は指しているものが違うからうーん
ヤーヴィンが言っているバラモンは、大学教員、ジャーナリスト、NPO団体職員のように、自分の所得は少なくても社会への影響力を持ちたい人がなるようなものなので、高所得というわけではない
高等教育への公的助成に関しては、ヤーヴィン説でもフリードマン説でも説明可能
下層階級って投票率低そうだし、票にならなそうな
https://www.youtube.com/watch?v=5Wx5PYZIWcQ
(ちなみに、フリードマンが言っていることは、すくなくとも現在の状況にはあまり当てはまらないらしい:
I don’t know much about the 1973 situation, but a lot of these don’t seem very convincing nowadays. Social Security no longer appears regressive: as per Wikipedia, “for people in the bottom fifth of the earnings distribution, the ratio of Social Security benefits to taxes is almost three times as high as it is for those in the top fifth.” And by my understanding, people who earn less than about $20,000 don’t pay federal income taxes at all, meaning the burden of universities, etc don’t fall upon them. A Cato Institute study finds that poor people on welfare can get benefits packages worth up to about $20,000. It seems really unlikely that whatever they have to pay because of farm subsidies or whatever compensates for that.
これはミルトン・フリードマンの息子のデイヴィッド・フリードマンに対する書評だけど、父子で同じようなことを言ってる)
Director's law は政策が民主的にできることを仮定している。一方、ヤーヴィンはもっと官僚とかジャーナリストとかのエリートの役割が大きいと考える。
フリードマンの言ってることはあんま合っていないようなので、仮に両者の意見が対立していたとしてもヤーヴィンに不利な証拠でもないけど
方法論
このUnqualified Reservationsというブログはとても造語が多い。どうやら、手垢がついた言葉と結びついた感情的コノケーションを嫌ったようである。
わざわざアメリカ合衆国政府をWashcorpと言ったり、アメリカ大陸のアメリカ合衆国が支配する部分をPlainlandと言ったり、政府のことをSovecorp, Soveorgと言ったりもする。(←Amecorpはどうか)
人間を意味するときでさえ、コノケーションがあるからといって、bipedal hominid (二足歩行ヒト科動物) と言ったりする
ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』 によると、母国語より外国語で考えたほうが直感 (システム1) ではなく理性 (システム2: ワーキングメモリなど) が働いてひっかけクイズとかに正答しやすいらしいから、語についての直感的な把握が誤りを招いている場合は造語を使っていくのはじつは合理的なのかもしれない。 As Orwell noted, the hardest part of thinking clearly is recognizing false assumptions that are universally shared.
My approach to building an alien perspective is to think from scratch, making sure my terms are precisely defined and inventing new ones when the old won’t do. UR: He who refuses does not repent この記事で書いてある2つめの、過去の、見慣れない物から現在を考えることで批判的に考えられるってアプローチ、これもシステム2を活性化させて考えるってことではある
An alternative approach, which yields probably the most alien perspective of 2007 that’s generally available (if something of a specialty product) on the intellectual market today, is “paleoconservatism.” Paleoconservatives evaluate the present by applying the standards of the past, which are generally forgotten and have to be dug out of old books—a fun hobby. If you follow the links on the sidebar, a fair number of them lead to paleos of one flavor or another.
見慣れないものによるシステム2の活性化について根拠は考えられるが、個人的にはあまり納得できない。じっさいに異質な文化に直面したことで、普段より批判的に判断を下せる人が本当に増えるのだろうか? たとえば日本人が外国文化を導入しようとしたときのことを考えてみたら。あるいは、西洋人が東洋の文明について言ったことは。むやみに(わからずに)否定したり、(しばしば「わからないから」という理由で)逆にむやみにありがたがったり、といったことばかりではないか?
たとえば彼はpost-austistic economicsによる、日本経済がネオリベラリズムの前提を破ったという記事をなぜか褒めているが、これは異文化に対する無批判な態度を表しているのではないか(憶測)
でもアーカイブを検索しても発見できなかったから他の人と間違えているか…? そんなこと…?
あるいはアジア型発展モデルの奇妙な例を考えよう。ほんの6-7年前には、日本、タイ、シンガポールなどアジア地域の強国が、もっと良い方法を見つけたのだと主張する影響力の高い一派があった。アメリカのおめでたい自由市場イデオロギーに阻害されることなく、政府主導の資本主義を構築し、それが技術と経済成長で優位性を与えているのだ、という。当時ですら、ぼくたちの一部はこのモデルの有効性というのがおとぎ話だと思っていた。アジア諸国は、官僚的な介入のおかげで成長したのではなく、介入にもかかわらず成功したというほうが正しいというのがぼくたちの考えだった。そしていまや「深い戦略的計画」なるものの大半が、ただの縁故資本主義だったことが曝露された現在、自由市場に勝ると書する仕組みについて今後出てくる主張はすべて、かなり眉ツバと見なされるだろう。
「見慣れないものから現在を考えることで批判的に考えられる」というのは、人文学っぽい(知らないが)
神権政治の定義を一般的でないものに変えた上で、現代先進国は神権政治だ、と言ったりするのは、説得的定義では?
再定義による説得的定義を頻繁に使っている感じがする
"wiggin"
造語が多いことは、マーティン・ガードナーの言うパラノイア的トンデモの特徴の1つである。
統合失調症の特徴でもある
1. The pseudo-scientist considers himself a genius.
2. He regards other researchers as stupid, dishonest or both.
3. He believes there is a campaign against his ideas, a campaign comparable to the persecution of Galileo or Pasteur. He may attribute his "persecution" to a conspiracy by a scientific "masonry" who are unwilling to admit anyone to their inner sanctum without appropriate initiation.
4. Instead of side-stepping the mainstream, the pseudo-scientist attacks it head-on: The most revered scientist is Einstein so Gardner writes that Einstein is the most likely establishment figure to be attacked.
5. He has a tendency to use complex jargon, often making up words and phrases. Gardner compares this to the way that schizophrenics talk in what psychiatrists call "neologisms", "words which have meaning to the patient, but sound like Jabberwocky to everyone else."[6]
体系的な政治哲学理論ってロマンですよね
反面として、定量的な話は少ない
冗長な長文だけど個人的には長い文章って現実逃避にも便利だから読んでしまう
独学で専門領域を持たず色々な分野に口出して独自の理論を建てるっていうのもトンデモの類型だけど謎の頭の良さにより異常者ができたという印象 まあ"crackpot genius"なんじゃないでしょうか
"crackpod genius" といったTGGP氏「Mencius Moldbugは真理への貢献というよりパフォーマンス・アートに近い」> TGGP said... なぜかヤーヴィンは自分の方法論を「演繹」と言っているのだが、じっさいに彼がやっているのは最良の説明への推論とか仮説演繹法だろう。
カントが重力の逆二乗則はアプリオリとか言ってたのと似た意味不明なやつです
Yarvin: History is not an experiment, because we cannot control it.
TGGP: The absence of a double-blind experiment is unfortuanate, but it doens't mean you've got nothing. You like to generalize from historical examples all the time.
社会科学は対照実験が無いのに因果関係を導こうとしているということを批判しつつ、ヤーヴィン自身は歴史的事例から一般化しているのではないかという批判
ヤーヴィンはある現象が発生していると思う→そこから原因を推測し、その原因を述べることによって(現象があるとしたらそういう原因だろうというだけではなく)現象の存在自体を読者に説得させる
――というような説得方法を用いがちだと思うが、普通、原因の説明と信じる理由は別である
もし措定される原因の推論が、ある現象が存在することに依存しているなら、循環論法になってしまう
だから、現象の側が未知で原因をもとに現象を推定したいという場合、原因は既知のものでなければならない
しかし、本当に既知のものだけを使っているかが微妙である
例: 現代に犯罪が増加していることを説明する仕組み (メカニズム) を出すが、そもそも犯罪が増加しているのか不明
(一応統計も引いていたけど)
"今も昔も我々は統計データよりも「こうこうこういうプロセスでこうなります」という物語に重きを置きすぎる傾向があるので注意しよう(気功とかホメオパシーとか、統計的裏付けはなくても、効く理由を提示されると納得してしまう人が多い)。"
最良の説明への推論をしているが、説明したいデータが何なのかを詳しく書いてくれない、あるいはデータ自体が本当に観測されているかどうかに疑問がある感じ
アカデミア、メディアなどについて、あまり客観的なデータを出していない。個人的な印象をデータとして、そこからそれを説明する仕組み (メカニズム) を考えるという推論になってしまっているのでは。
ヤーヴィンは軍に共和党支持、その他の行政機関に民主党支持が多いと推測しているが、本人も認めるようにデータは出していない
https://scrapbox.io/files/64735969462c99001bdb3aa0.webp (via Glenn Greenwald)
初期の文章は直截的だけどあとの方になるにつれだんだんカッコつけた文章になってる気がする
ヤーヴィンの態度には、彼が評価するジェームズ・バーナム『マキャベリアン: 自由の擁護者たち』に見られるような、権力についての科学的なアプローチを目指す面と、社会についての科学的アプローチである社会科学に対する批判的な態度 (それに対して歴史・資料読解・古典のような人文学をむしろ肯定する) という、相反する要素が同居している
社会科学に対する否定的な態度には、最初はオーストリア経済学のロスバードとかの影響が強かった
『マキャベリアン』が推進する科学的アプローチも、必ずしも一般的な意味での科学的アプローチではない
ヤーヴィンはその時代の評価を建築物の美しさで決めるようなことをいっているが、これは迷信的思考ではないのか。貴族を喜ばせる建築物が美しくて、実用性を重視した建築物が美しくないというだけではないのか。ヤーヴィンの理屈付けは、個人の裁量による設計が否定され、プロセス主義になったため、現代の建築物は美しくない、というものだが。
</方法論の話終わり>
「帰結主義は、王、神、スーパーヒーロー、盗賊、反逆者、サイコパスの倫理だ。義務論は、法に従う市民の倫理だ。」というのは、総督府功利主義っぽいけど、彼は帰結主義は敵視しているらしい。
The cause of “cancel culture” is that everyone feels they can do anything, if they are doing it for a good reason. Philosophers refer to this as “consequential” rather than “deontological” ethics. Deontology means doing your duty; consequentialism means deciding for yourself what is right or wrong.
Deontological ethics is the perspective of a law-abiding citizen. Consequential ethics is the perspective of a god, a king, or at least a superhero. It is also the perspective of a looter, a traitor, or a sociopath. It is the perspective of power above law. It converges on Aleister Crowley’s formula: do what thou wilt shall be the whole of the the law. And of course it was the great ethical revelation of the 1900s, and even now reigns supreme.
Consequential ethics literally authorizes you, the sovereign individual, to act not according to your legal duty, but your own sense of the ethical consequences of tour actions. Every man is a judge above the law. Anyone with a two-digit IQ can see how this can justify killing your enemies. If not killed—they would do more enemy stuff.
Consequential ethics make you into a Nietzschean blond beast who knows no law but your own. Like James Bond, you can make the world a better place in whatever way befits your own best judgment. Bang! That was your best judgment. Consequential ethics are the ethics of Lucifer. This is why they are so sexy.
To you, both these ethical models may seem good. To me they seem criminal. This is an aesthetic choice: de gustibus non disputandum.
それはルール帰結主義で済むのでは?
The trust of Americans, that is, in—the public-health authorities. The problem here is that all these great experts have a conflict of interest—because they are part of—the public-health authorities. This is why they disagree with your eight-year-old, who, while he is stupid, has no conflicts of interest.
The experts are mostly doctors, whose interest should be the interest of their patients. A risk-benefit analysis of any human being’s interests reveals lower expected mortality and morbidity as a consequence of receiving any plausible vaccine candidate before, rather than after, inoculation with the pandemic virus. So says your eight-year-old, though probably not in this kind of language.
But the interests of the public-health authorities can and do conflict with the interests of the patients. For example, delaying a vaccine for a year may kill 250,000 people, but it does surprisingly little damage to the trust of Americans in the public-health industry. On the other hand, an experimental therapy that kills one person—as in the death of Jesse Gelsinger—can set back a whole field of medicine for a decade.
ここでは不行為と行為による害 (殺しと見殺し) を対称的に扱っており、それは帰結主義的に思える。(「ワクチンを規制する」というほうが積極的な行為なのか、「ワクチンを承認する」という方が積極的な行為なのか、この場合は微妙というのもあるけど。ここではふつうの人ではなく医療機関が問題になっているので、積極的な行為に対し義務を負っていると考えることもでき、それを考えるとさらに複雑ではある。)
まあここでヤーヴィンはよく言われているFDA批判の話 (ミルトンフリードマンとかアレックスタバロックとかが言ってる) を繰り返してるだけですね
ヤーヴィンは憲法に基づく政府権力の制約を良しとする自然権・最小国家リバタリアンなどをリバタリアンの典型とするとすごく異端派に見えるが、New Public Managementなどの小さな政府派とはそんなに離れていないかもしれない
特に日本に政府権力の制限や自然権を掲げるリバタリアンは目立っていないのであんまり異端派に見えないかも
ヤーヴィンは権力の制約・チェックアンドバランスのようなアングロサクソン的考えを強調するリバタリアンと対立している
ブッシュ政権の当時(2007年)にブログを始めたヤーヴィンはもともと共和党保守派の軍事的遠征を危険視していたので、そこが共和党保守派との対立点だったが、トランプのアメリカ・ファーストはヤーヴィンの立場に近かったので、「危険」より「効果がない」「実権力を得る見込みがない」という点で共和党保守派を批判するようになっていったのかな (最初から内政に対する共和党の影響力はあまりないと言っていたが)
2013年あたりから保護貿易やアメリカ・ファースト的なことを強調しだし、ヤーヴィン側の変化によってもトランプに寄ってきたというのもあるかもしれない
2016年選挙以前にもトランプに肯定的に言及してた気がする
ヤーヴィンは第一原理から考えるみたいなことをいうけれど、じっさいには既存の右派の思考 (paleoconservativeなど) の累積に影響を受けてやっている方なのではないか? (最初の方は割と第一原理から考えていた)
ではなぜ保守派と距離を起きたかったのか。考えとしては一致していても馬鹿だと思っているのか
ヤーヴィンは「むやみに貨幣刷るのはよくない、経済成長に応じて一定のインフレ率を保つなどというのはおかしい」「金本位制へ回帰せよ」というオーストリア学派リバタリアンの考えを継承しているが、このリバタリアンの考えは財政が民意に服するべきという民主主義、「権力の制限」に基づく主張、もしくは「インフレは税であり税は邪悪である」というリバタリアンの考えに基づいているので、「民主主義」も「税は邪悪」も支持していないヤーヴィンがこの考えを継承する根拠は薄いのでは?
単に「インフレは税だが? 税の何が悪い?」で済ませられそう
インフレは弱い政府のすることだ (5,7,5) のようなことを言っているが、強い政府もしないという理由は提示していない気がする
単に自分の仲間に権力がないのが嫌という人 (tribalist) は
1. 自分の仲間が支配する→良い
2. 民主主義→普通
3. 敵が支配する→悪い
となる。
ヤーヴィンはそうではなく、バラモンが支配しても、嘘をつかず、責任ある効果的な政府であるならいい (ある集団による支配ということに悪さがあるわけではない) というふうに言っているが、そうでないように見えるときもある。
Gray Mirrorではある集団がある集団を支配する事自体に現状の悪さがあるみたいなことを言っていた気がする (iron law of oligarchyを受け入れているなら、現状以外でもそうなるのでは)
私はまだあんま読んでないけど、URのコメント欄は批判的な物も含め盛り上がっており有益そうなものも多いので読むときはウェブアーカイブなどを利用してコメント欄も含めて読むといいかもしれない
歴史上の敗者 判官びいき
ヤーヴィンの治安維持の重視はアメリカの治安が悪いのと関係あるだろう
彼の住んでいるサンフランシスコが民主党の支持層なので彼には左翼が世界を支配しているように見えるのかもしれない
たしかに何でもアメリカのせいにしてる気がする
ヤーヴィンは相手を敵と認識すると相手の立場を空想で認識して誤解してしまっているのではないかという指摘(by TGGP)
In the modern world, however, bad policies are the result of human action, not human design.
民主制は問題を解決するのに役立たなくても問題を発見するのには有用ではないか ヤーヴィンは行政府の省の中でも国務省の話をよくするが、これは彼のお父さんが外務局で働いていたことによるのかもしれない
彼の祖父母はアメリカ共産党員だったそうだ
母がエネルギー省関連、義父が議会スタッフだったそうだ
ブログで否定的と言っていたナショナリズムとは民族自決のことだ。
いっぽう、コメント欄で言っているナショナリズムは、政府は (その政府にとっての) 他国民より自国民の厚生を優先すべきという立場だ。
(民主主義にコミットせずに擁護できているか怪しい気がするが)
つまり自国民「による」政府という意味のナショナリズムではなく、自国民の「ための」政府という意味ではヤーヴィンはナショナリズムだ
また、根拠としては自国民の厚生を目的にした方がアカウンタビリティを保ちやすいというものらしい
それは民主主義では?
もし移民反対の理由が、他民族を入れるべきではないというものではなく、"現在の自国民"が優先されるべきだからという理由なら(おそらくヤーヴィン(2021)はこの理由で移民に反対している?)、民族主義的ではない自国民優先主義ということになる
というのも、そのとき現在の自国民同士の間には国籍を現在持っているという以上の繋がりが全くなくてもいいのだから
国籍のシステムの重要な要素である参政権を否定する以上、どのような国籍システムに基づいて「国民」を捉えたいのかは不明だけれど (おそらくそこまで考えてない)
また、エドワード・べラミーのナショナリズムはどちらの意味でのナショナリズムとも大きく異なるが、ヤーヴィンは区別せずに言っているのでさらなる混乱が予想される
ハンス・ハーマン・ホップは君主制を支持する主張において、君主制下では非戦闘員と戦闘員が区別され、法に則った戦争が行われていたのが良かったと主張するが、ヤーヴィンはむしろゲリラというものがあるので非戦闘員と戦闘員の区別なんてできないと言っている気がする
もともとヤーヴィンは集団安全保障でも勢力均衡方式でもない孤立主義・ウェストファリア体制の理想というものを支持していて、しかしそれを現に軍事力の差がある世界で実現する具体的なプランを欠いていた印象があったが、最近になって軍事力の差があるなかでウェストフェリア的体制を無理やり実現する狂ったプランを出してきた:
この記事では「自由市場的政策はポピュリストが旗印にしたときはCathedralは反対するが、そうでないときは単にいい考えなので採用する。自由市場はマンチェスター学派のリベラルも採用したし、Cathedralが原理的に反対するものではない」のように言っているが…
それはまったく今まで言ってきたことに矛盾している!
彼の立場は行政機関が予算最大化するとコモンズの悲劇に陥って大きな政府 (彼が赤色巨星国家と呼ぶ) になる、というもののはずだ
ならば、CathedralというかCEOのない官僚制の仕組みとは必然的に対立するという主張のはずだ
アカデミアも、やることが多いほうが仕事が増えるので介入主義的になるみたいに言ってたし
マンチェスター学派の自由市場イデオロギーについてかつて彼は「穀物法廃止などで地主貴族の力を削ぐことはかつてインテリ/Cathedralの権力の強化に役立ったが、Cathedralが自ら権力を握ってからは自由市場イデオロギーは邪魔でしかなくなった」というように言っていたのに、今度は権力構造と無関係なただの偶然――政治の動きによってどうとでも動く――とみなしている
意見を変えたあとのは歴史的根拠を出してるので、歴史的根拠から自説を変えたのかもしれない (ヤーヴィンは活動復帰後はいろいろな考えを変えているようなのでそこも変わっているのは変ではない)
I can explain this and Greer himself probably even understands it: until quite recently, the so-called “neoliberals” never, ever said “neoliberal.”
It was exclusively an exonym—basically, a Marxist slur, meaning anyone who isn’t a Marxist. As Marxism becomes more dominant, more Marxists use Marxist exonyms more, suggesting a rise in this strange “neoliberalism.” Data interpretation is tricky! When more people start talking about witches, it does not always mean more witches. I don’t like using exonyms, though sometimes there is no choice.
いやまて1990年代からマルクス主義が支配的になったってどういうことだ
1991年にソ連が崩壊したのだからその解釈は全く意味をなさないのでは
Yarvin: There was never any such thing as a stable absolute monarchy in Old Europe. That is, there was never a monarch whose control was absolutely secure, and who didn’t feel he was competing informally with other internal power bases (the Church, the nobility, the cities, …) So the center kept expanding for the same reason it expands now: informal power networks metastasize.
マキャベリ的という形容をマキャベリその人のような分析という意味と、マキャベリによって描かれているような性向という両方の意味で使ってしまうのは明らかに問題がある
なぜしばしば「それは20世紀的な考えだ」といって考えを退ける人間が、「その考えが考えられた時代に訴える論証」(ad tempus)を非妥当だと批判する?
過去が優れていると思っているのであって、ad tempusが誤謬であるとほんとうに思っているわけではないのではないか
ヤーヴィンはこの記事で、どんなに軍国主義的でも、勝ちそうな時に相手に武器を与えてもっと戦争を! とはやらないので、みな平和を求めてはいるといっている (そのレベルのミリタリズムだとHELLSINGの少佐のセリフみたいだ)
だから平和主義というのは名乗りとしては無意味なのだと
しかし、領土を失ったりしても平和を優先するかとか、平和を優先する度合いに違いがあって、優先度合いが高い人を平和主義とよんでいる (秦檜の和平策とか) と思うので、無意味ではないのでは
流石に戦争自体を目的として追求する人はそんなにいない
論敵が単に間違っているだけではなく敵であるようにいう必要はなんなのか。
ヤーヴィンは「政治と民主主義との違いは、ポジティブかネガティブかの違いであり、同義である」というが、legal activismは政治であるが民主主義でない例では
ヤーヴィンは歴史について話すとき、一次資料を重視しているというが、歴史学では一次資料についてはどのような方法論が取られているのだろう。そもそも彼がいう一次資料は一次資料なのか。
ヤーヴィンはstreotype threat理論を批判する記事にリンクしているが、ヤーヴィン自身の、現代右派がファシストになることの説明も、streotype threat 理論と似てるのでは?
彼は人が「ポリティカル・コレクトネス以外にはファシストしかいない」と、言われ続け、それを自らも信じてしまったからファシストになると言っている
予言の自己成就
The eternal dream of the nerd, who would not be a nerd had he not in some sense socially failed between 10 and 20, is not to succeed at being human—not to catch up to the default social world, to learn its secrets and be admitted to its citizenship, to rise in its conventional ranks—but to skip being human—and jump directly to some kind of para-human, trans-human, posthuman or just superhuman experience.
The question is: inventing from scratch, are these outsiders, these nerds, these losers, going to do a better job than the masters of Life 1.0—especially when those masters have inherited their ways of living across many generations? Who would you bet on? Especially when the nerds are not even reinventing themselves as a group, but each working alone from his own fragile psychological capital… I’ll bet on Chad and Stacy.
…
Then their pride and intelligence makes them want to reinvent all of human society—which is why this essay.
おまゆう
ヤーヴィンには第三世界は破滅しているみたいな世界観があるが、『ファクトフルネス』 (未読) あたりで批判できそう
ヤーヴィン自身は言論統制を唱えているわけではないけれど、Cathedralの考えは少なくとも言論統制が右派にとって意味をなすということを導くのでは
ギリシャ、ブラジル
嘘?
YouTubeでは、グーグルアナリティクスを使ってないとか、コメント読んでないとか言ってるけど、コメント返してるし
昔はネオコン?