鹿島徹による埴谷雄高の存在論批判
これは、存在論を追究することの危険も暗示しているようにも思われ、刺激的である。
ただ、読解において、特に七章の読解についてなど、主に理念・思想的な読解に重きが置かれている点は否めない。
また、おそらく筆者(或いは文中言及されるように評判)にとって評価の高い冒頭三章からの変質、という観点から主に論じられているため、包括的なヴィジョンを示すものではない。
これはハイデガー哲学の観点から向けられたもののようだ。 存在が存在であることをやめる
存在が在ることをやめる
また、西洋哲学の翻訳語を使った思想展開という観点から、分析されている。
後半で宇宙論が主軸として展開されていく
対比としてハイデガーの「同一律」という講演が例に出される 存在と人間との共属により存在と人間をそれぞれ固有(eigen)なものたらしめる動きの全体を「固有化の出来事(Ereignis)」(性起、呼び求める促し)と呼び、真に思索されるべき事柄であることを明らかにした。 つまり、「存在者の存在」の支配を、それを掘り下げることで相対化する試み ここからが批判の重要なポイントである。
宇宙論を展開するのはいいが、それによって「自同律の不快」「虚体」といった根本概念を形而上学の伝統的な枠組みに押し込めてしまうという指摘。
要は、存在論が神学とくっついちゃう状況に陥っていったじゃないか!という批判(これはかなり誠実な哲学的な観点からの指摘と思われる)。
鹿島氏は、「自同律の不快」が「根本気分」(恐らくハイデガーの用語から)として扱われなくなったことを看過できないとしている。 また、陰鬱な雰囲気が作品から失われ、五章以降、徐々に喜劇的になっていく文体的・文学的変質も批判されている。
メモ:この指摘についてより解像度を高める為には、哲学的言説の尺度から見た存在論的変質と、文学的批評的観点から見た方法論文体論的変質との衝突を、可視化しなければならない。
存在論導入にあたっての、サルトル・武田泰淳の影響についての指摘。
このあたりはもっとつっこめそうなきがする。
メモ:この批判自体は、哲学的思想的な根本概念の詳細な検討によって堅実にその射程と隘路を剔抉していることで、一般的な文学的批評とはその意義と展開可能性を異にしている。ただ、この批判を受けてより深刻に理解されるのは、やはり『死霊』は思想と散文詩のアマルガムであり、哲学的な存在論の問題と、文学的な文体論修辞論構造論の問題が、複雑に入り組んでいるため、『死靈』を総括する見取り図を構想するためには、この批判を精査したうえで、さらなる吟味と分析が必要となってくる。
鹿島氏の批判は非常に刺激的でした。それとともに、『死靈』という作品そのものには、その著者が恐らく最も捨象し拒絶したもの、いわば「人間学」とでもいってみたいようなものが、その成立過程において密かに作用しているのではないか、とも思われました。つまり、指摘通り後半変質していくとして、その思想的変質過程や、付け加えるなら文学的変奏(ある種の崩壊?)過程そのものが、一種の何か生物的な、有機的な、「人間」的な、奇妙で本質的に興味深いものを暗示してるのではないか、という感慨です。これはいってみれば私が『死靈』バカであるというだけのことですが、しかし思想哲学文学芸術が交わったところに『死靈』の総括的な根本的な問題が食い込んでいるとすれば、あながち無意味な予感でもないように思われます。