運命とは
from 近年観てきた作品(はじめ)
「運命」。東リベを語る際にはこれを考えずにはいられない。なぜなら武道がやっているのは、運命を変えること、運命に抗うこと、つまり運命との闘いだからである。運命とは、そもそもなんであろうか。運命とは未来の視点を持つこと、未来を知っているということである。古今東西、運命は創作のテーマとなってきた。しかし、人間は原理的に未来を知ることは不可能である。それではどのように運命を知るのだろうか。そのため創作においては運命を知るための特殊な装置が必要となる。それが従来では、預言者、神の信託などであった。タイムリープはその装置の系譜に連なる。そのため、タイムリープを行う本作が「運命」が中心的な主題となるのは必然的なことなのである。だがそもそも運命などどこに存在するのだろうか。運命など存在しない。それは人間が勝手に作り出した概念に過ぎない。だが逆に言えば、それは人間の観念、言語の中に存在しているともいえる。それゆえ、我々人間は「運命」が存在している現実を生きている。言葉を使うものならば、「運命」を知らないものはいないし、様々な言語の中に「運命」という単語は存在している。古くは古代ギリシア語の中にも「テュケー」という形で存在している。古くから人間は、自分たちで作り出した「運命」に翻弄されて生きてきたのである。作家が創作で運命を扱う際にとるべき道は二つある。運命を変えることができるか、できないかの二択である。運命は変えることができないというタイプの代表的な作品は言うまでもなく『オイディプス王』である。『オイディプス王』では、王が「汝は息子に殺される」という神託が物語の出発点となる。この神託を聞いた王は、それを避けるために息子を遠くの場所に捨ててくる。しかし、それをしたのにも関わらず、いやそれをしたからこそ、王は結局息子に殺されるのである。運命を変えるためにとった行動が、運命を招き寄せることになってしまう。運命とはそういう性質をもつのである。なぜなら運命は定まっているからこそ運命なのであって、運命を逃れることはできないのである。それでは王は息子を遠ざけなければよかったのだろうか。息子を遠ざけなければ、殺されずに済んだのだろうか。それは誰にもわからない。人生にたらればは無いからである。武道は運命を変えることはできるのだろうか。