議論の権限付与
きゅー.icon 議論をしていると見なされるためには、何をするのでなければならないか?
これは、人が合理的であることを前提としている。ただし、人が合理的な存在であることを前提としているわけではない。
議論で何がしたいのか?
その議論においてそれをして良いことがあるか
あるものが「良い」ためには、なにかしらのコミットメントがある
例えば、なにか目的がある。議論を撹乱したいとか、定義の形式性を示すために皮肉を言いたいとか、そういう目的にとって、ナンセンスなかんじの定義は役に立つ。
たしか、カントの定言命法を揶揄するときにも、変な定言命法が出されたりした。
魚がうんたら〜みたいな(記憶なし)
この問いには答えなくてもいい。
その答えは自分にも分からない場合がある。
どんな目的であっても議論してよい。ただし、議論しようとするからには、議論をしなければならない。
「私は議論をしています」と言いながら、人格攻撃ばかり繰り返す場合、その人は悪い。
とはいえ、「私は人格攻撃しています」と言いながら、人格攻撃をする人も、やはり悪い。
では、「私は議論をしています」と言いながら、人の心を癒すことにコミットして議論をしない場合、その人はなんなのか?
その人は、「よく分からない人」だ
議論をする気があるか?
この問いの答えは、態度を見ると分かる。
あるいは、態度を見て判断されるものが、「する気」(コミットメント)である。
……
「俺も議論に混ぜてくれ」
「じゃあ、"議論をし"てくれよ」
「しているよ。俺の『議論』の定義(私的な定義)は、『自由に定義をすること』なんだ。すなわち、俺にとっては、俺は議論をしている。議論をしているのだから、議論に混ぜてくれ」 こういう定義を否定することはできないだろう。ご勝手に、という意味で。
このとき、そこにいる全員が妥協して、「議論」にこだわるのをやめれば、議論について独自の定義を持っている人を受け入れることができる。
じゃあ、議論をやめて、テーマを定めた雑談をしましょう!と宣言すればいい
常に「議論」にこだわると、私的定義派の排除につながる恐れがある(それでも議論にこだわるべきケースもある。例えば、真剣議論大会を開いているときなどは)