課題の分離
現在、抱えている課題に対して「自分の意思でコントロールできるもの」と「自分の意思でコントロールできないもの」とに分け、「自分の意思でコントロールできるもの」だけに集中すること(課題の分離とは?介護の現場で役立つ心理学)。 /icons/hr.icon
アドラー心理学ではこれを「誰の課題か?」という言い方をする。
そして誰かの課題は最終的に誰かが引き受けなければならない。
例えば、勉強は誰の課題かと言えばそれは子供の課題となる。
勉強が子どもの課題であるならば、親が「勉強しなさい」と強制することは子どもの課題に踏み込んだことになる。これでは衝突は避けられない。
哲人 ……もしも子どもが「勉強しない」という選択をしたとき、その決断によってもたらされる結末──たとえば授業についていけなくなる、希望の学校に入れなくなるなど──を最終的に引き受けなければならないのは、親ではありません。間違いなく子どもです。すなわち勉強とは、子どもの課題なのです。
一方、子どもが勉強しないことが気になるのは親の課題。イライラするからという理由で子どもに勉強しなさい、とはいえないということ。
哲人 およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと──あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること──によって引き起こされます。課題の分離ができるだけで、対人関係は激変するでしょう。
誰の課題か分からない状況が現状であることが多いが、このように「これは誰の課題か?」というように課題を分けることを「課題の分離」という(『アドラー心理学入門』)。 共同の課題
しかし、私たちの能力は限られており、自分が直面している問題をすべて一人で解決などできるとは限らない。
そのような場合、他の人の援助を受け、また他の人を援助しなければならない。家族の全員あるいは一部が、共同して解決しなければならない問題は絶えず起こってくる。そのような場合は話し合って共同の課題を作る(『アドラー心理学入門』)。 本来は先に見たように個人の課題であり、本人の責任において解決しなければならないのです。共同の課題にするためには、まず、共同の課題にしてほしいという依頼があり、共同の課題にしようという了承があることが必要です。すなわち、両方、あるいは、複数の当事者が話し合って共同の課題にするという了解が必要なのです。 いずれにしても共同の課題にするのはどうしても自分では解決できないことについてだけです。
見守ること
青年 じゃあ、子どもがまったく勉強していなかったとしても、それは子どもの課題なのだから放置しろ、と?
哲人 ここは注意が必要です。アドラー心理学は、放任主義を推奨するものではありません。放任とは、子どもがなにをしているのか知らない、知ろうともしない、という態度です。そうではなく、子どもがなにをしているのか知った上で、見守ること。勉強についていえば、それが本人の課題であることを伝え、もしも本人が勉強したいと思ったときにはいつでも援助をする用意があることを伝えておく。けれども、子どもの課題に土足で踏み込むことはしない。頼まれもしないのに、あれこれ口出ししてはいけないのです。
シンプルに生きよう
他者の課題に介入すること、他者の課題を抱え込んでしまうことは、自らの人生を重く苦しいものにしてしまいます。もしも人生に悩み苦しんでいるとしたら──その悩みは対人関係なのですから──まずは、「ここから先は自分の課題ではない」という境界線を知りましょう。そして他者の課題は切り捨てる。それが人生の荷物を軽くし、人生をシンプルなものにする第一歩です。
code:課題の分離の起源はどこ?
不思議なことに、岸見氏は、ジッヒャーの名前を出さずに、まるでアドラーの提唱であるかのように、この概念を説明しておられる。ジッヒャーのこの本を岸見氏が読んで解説しておられるのをむかし見たことがあるので(ひょっとすると私がこの本を岸見氏に紹介したのかもしれない)、故意に出典を明記しておられないのだと思う。岸見氏の書き方は、なにもかもアドラー自身(かあるいはソクラテス)に由来するかのように語る特徴がある。アドラーと岸見氏の間には(私を含めて)多くの先輩たちがいるんですよ。
ついでに、「課題の分離」についても、岸見氏は出典をあきらかにしないで、まるでアドラーの言葉であるかのような説明の仕方をしておられる。ある「セミナー屋」さんがこれに反発して、「自分のところでやっている育児プログラムが原典だ」と主張していた。あのね、その育児プログラムは私が書いたことも言った方がいいですよ。もっとも、私が「課題の分離」という概念を発明したわけではなくて、出典はドライカースだ。ドライカースはものすごい多作だったので、初出がどれかと言われると困るのだけれど、近く創元社からドライカース&ディンクメイヤー『子どもにやる気を起こさせる方法:アドラー学派の実践的教育メソッド』が復刻出版されるので、そこらあたりを読んでいただくと、本来どういう使い方がされていたかは、おわかりになると思う。ともあれ「課題の分離」→「共同の課題」という流れは、オリジナルはドライカースで、それを私が日本人にわかりやすい言葉に翻訳して説明したのを、岸見氏が出典を明記しないで、しかも説明の後半部分をカットして紹介されたので、問題が生じたわけだ。