読書メモ『暇と退屈の倫理学』國分功一郎
2022.2.7
國分さん、えらくとんがってるな。こんなに勢い込んでいったい暇と退屈の何が問題なんだろう。 読み始めの印象はそんな感じだった。
読み終えてみて、國分さんはいったい何が言いたかったのかと考えてみた。
一言でいうと「みんなもうちょっとものを考えようよ」ということなのではないかと思う。
序章において國分さんは2つの問いを提出している。
人類は豊かさを目指してきた。なのになぜその豊かさを喜べないのか? p.20
暇の中でいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきか p.29
一つ目の問いの答えとしては「ものを受け取っていないから」というのが答えだろう。
ご馳走をたらふく食べる場合、どんなに美味しくても食べる量には限界がある。
「あー美味しかった。お腹いっぱい。」そう満足する地点がある。
「今人気のある」「有名シェフの」「期間限定の」メニューには限界がない。
常に食べるべきメニューが新たに出現し続ける。食べ"もの”ではなく付加された”観念”を消費し続ける。
人々は資本主義の大量消費システムから押し付けられたものを、意味や観念という限界のないものとして消費し続け、
自分で自分を満足から疎外している。
わたしたちはこのような満足からの疎外と外部注入に用心しなければならない。
二つ目の問い、満足できない、豊かさを感じられないわたしたちは「暇の中でいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきか」に対しては、本書で考察されるハイデガーの退屈論『形而上学の根本諸概念』における3つの形式のうち、退屈の第2形式「退屈と気晴らしが絡み合った」生を存分に享受すべきだと國分さんはいう。
存分に享受するとはつまり、ものを受け取るということである。ものを受け取るにはどうすればよいのか。
それは能動的に楽しむということである。そして楽しむには訓練を必要とする。
楽しむ訓練をすると、ものを考えるようになる。
「食べることが大好きでそれを楽しんでいる人間は、次第に食べ物について思考するようになる。美味しいものが何で出来ていて、どうすれば美味しくできるのかを考えるようになる。映画が好きでいつも映画を見ている人間は、次第に映画について思考するようになる。」
「人は楽しみ、楽しむことを学びながら、ものを考えることができるようになっていくのだ。」(結論 p.407)
國分さんはとあるラジオ番組*1で、日本人はもっと暇しなければならないと語っていた。
國分さんは24時間営業のスーパーマーケットはどこかおかしいという。なぜ生鮮食料品を売るお店が24時間営業しているかというと、他のスーパーマーケットの営業時間帯だと買い物が出来ない人たちがいるからである。そんな時間まで働いている人々がいる、そんな働き方はおかしいと。
楽しむ訓練をし、ものを考えられるようになれば人びとはそのおかしさに気付くのではないか。思考できるようになれば「”チェンジした”という情報をそのものを消費」し「モデルそのものを見て」おらず、「モデルチェンジによって退屈しのぎ、気晴らしを与えられることに慣れきっている」現状に気づき、「モデルチェンジしなければ買わない、モデルチェンジすれば買うというこの消費スタイルを変え」られるのではないか。(第3章 p.160-161)
人間はなるべく思考しないように出来ている。知らない土地を歩くのと比べると、駅から家まではほとんんど無意識に帰ることができる。それはとても効率的だ。
だけれどもそのせいで現代の人間は労働力を搾取されるばかりでなく余暇も搾取されている。
「彼(モリス)は芸術が民衆の中に入っていかなければならないと考えた。」
「生活の中に芸術が入っていくこと、つまり、日用品、生活雑貨、家具、住宅、衣服等々、民衆が日常的に触れるもののなかに芸術的価値が体現されることだ。」
「そのときに現れる生活とは、そのなかに生きる私たち一人一人が、そうした芸術作品を味わうことのできる生活である。楽しむためには訓練が必要だと言ったが、おそらくモリスの構想のなかでは、その訓練が生活のなかで日常的に行われるのである。なぜなら、人は毎日芸術的な価値に触れることになるからである。たとえば、味わうに値する食事を口にすることになるからである。」(結論 p.401-402)
楽しむ訓練をすれば退屈とうまく付き合っていけるようになる。
そしてだんだんうまく気晴らしができるようになるうちに、人は外部から強制されたものを受け取り、無理な労働を強いられる現代の資本主義的大量消費システムから抜け出しモリスが目指したような"ものを受け取れる豊かな生活"ができるようになる。
そんな社会に変わっていける可能性があるのではないかということをこの本は提示している。
この本を読んだ人たちがそれを実践(実践については本文の結論でも取り上げられている)することによって。
本書では多くの哲学者、思想家、社会学者たちが登場する。そして國分さんは誰に対してもだいたいケンカ腰である。
國分さんの著作を読むは初めてなので、元々そういうスタイルなのかどうかわからない。
しかし読み終わったあと、もしかするとわざとこんな風に書いたのではないかと思えてきた。
読者を挑発して考えさせようとしているのではないかと。
ケンカ腰の文章を読んでいると、ちょっと待って、本当にそうかな。そうでないとするとどういうことだろう、と考え込む。
(たとえば國分さんの考察に対してわたしはユクスキュルの環世界の用い方に無理があるのではないかと感じた。) また、ケンカの仕掛け方として「〇〇の考えには無理がある。〇〇が△△と言っているのは〇〇がそう思いたがっているからだ」というのが何度か出てくる。これはちょっとしたメッセージではないかと思う。
自分のある考えの中心には自覚していない「こう思いたがっている何か」があるのではないか。それを疑うことは思考を柔軟にしてくれるかもしれない。
大量消費社会や戦争やテロなどへの批判ははるか昔からなされてきた。 この本の優れているところは、そういった問題を退屈という人間の感覚と結びつけて論じ、思考を促すことで一人ひとりが自分でさまざまな問題に気付くように仕向けているところにあると思う。
「俺はこういうことを考えている。君はどう思う?」(あとがき p.414)
*1 RADIO SAKAMOTO 陰謀論に対する処方箋【20210704-OA 斎藤幸平 國分功一郎】