読んだもの日記(イ)2026年3月
03/31
2026年の3月も、終わりだ。今年は雨が降らないという話だったが、けっきょく、まあまあ降った。
ネット上の文章が読まれるかどうかは、読んでいる人の気分にもよるだろう。
BOSSの「とろけるカフェオレ」が美味しい。安いのでコスパ最高。
出先で『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の英訳版を読んでいた。音読もした。向かいの人が寝ていた。
英文を読むのに、『コアレックス英和辞典』を使っている。意味や発音をしらべたり。
音読・朗読をもっとしていきたい。
文章で、いままで描かれてこなかった新しい絵を描けたらなあ。
現代詩をさらに読んでみたい。
言葉が響きあう散文を読み、書きたい。
何事にも心の準備だ。そのための自由な時間。
ディスコードでチャットをした。おもしろい。
03/30
スーパーにいくと活気が乗りうつって元気になる。
メンチカツを食べた。
作業放送、勉強放送みたいなものも面白いかもしれない。黙々と没頭する。
二年ぶり(!)に、『ドン・キホーテ』の旧訳を書き起こすプロジェクトを更新した。前篇の第十一章だ。島村抱月・片上伸訳をネット上に書き起こして公開しているのだが、当訳文のもっている戯作っぽさ、詩の部分の調子の良さ、などがだんだんと感じ取れるようになってきた。これは、テレビで島村抱月の翻訳芝居の様子について知れたことが大きい。ところで、このプロジェクトはだれでも参加を募集している。興味ある人はぜひ……
03/29
日曜日だ!
昨夜はニコ生を見た。ある生主は、いろいろなところに旅行に出かけてバーなどに出没するイケオジなのだろうけれど、生放送では方々でちょっと上手くいかなかった情けなエピソードしか言わない。お酒が飲みたくなる。そのテンションがいつもかわらずおもしろい。コンテンツのフレームにおいてくり返しはなんども見れる要素だ。
人類は、インターネットじゃなくて、インターネットでもいいが、永く残る遺産を作ることに専念した方が良いとおもう。インターネットは永く残らない。すぐに失われてしまう。それより、ピラミッドみたいな古代から今も残っているような存在を作り上げ、残すべきだろう。もちろん、今を生きるわれわれにとっても、有意義な存在がいいだろう。その点、モニュメントというものは人類が残してきた優れたアイデアの一つだ。多くの人の目にとまりつづけ、邪魔をせず、由来を調べてみると歴史がわかる。これは文明の本質だろう。永い目で見れば、一瞬だけ地上に足跡を残すのが人間なのだから、その力を合わせてなにかを残していくのもいいと思う。もっとも、日本文化は常にゆれうごく儚いものごとを賞美するから、そのあいまいな不定さとモニュメンタルな文明との葛藤と協調も、とりくむべきアクチュアルな課題であると思う。
地域ごとの、雑談の形態など調べたらおもしろいのではないか。地域で井戸端会議や道端での世間話はそのありかたがずいぶんちがうだろう。いろいろなところに住んだことがあるなら別だが、一か所に住んでいるとそのさまざまなかたちがわかりにくい。だから、あらゆる雑談について観察、分析していくことは意味があるのではないか。
クラシック音楽は、楽譜が残っていて、楽器が現役なので、おおよそアナログで再現可能だ。一度きりの熱気や音楽のゆれなどは再現できないが。現代の電子音楽は、クラシックほど再現可能性があるのだろうか。はなはだ心もとない。デジタルで確実に再現可能なのは、MIDIなどだろう。アナログとデジタルのちがい、それぞれの特性とはなんだろう。
さいきん人と話すことが多いのだが、込み入った著作については詳しい人に概要を教えてもらうと一気に掴みやすくなる。特に思想書や哲学書だ。自分もそうしてもらって、助かっているのだが、こちらにお返しとしてできることはないかと考えたら、なにがいいか咄嗟には思いつかない。(大)長編小説などはよく読むので、内容をまとめて本質を紹介できると有意義かもしれない。個人的にも要約する力がつく。感想を書くのは得意で、いくらでも書けるが、紹介・解説するための台本となるとあまり書いたことはない。なので、効果的にそうできるようになってみたい。
人文学で、何かを知りたい場合、関連する本をとにかく読みまくるのがいいのだろう。そのうち体系的に理解できるようになってくる。自分の場合、それをしたのは埴谷雄高だ。あとムージル。はじめはまったくわからず、ただ圧倒されていたが、調べ読み進めていくうち、この偉大な精神たちの苦悩と情熱が息を飲む鮮烈さで迫ってきた。しかしいまだにその言葉の力の源泉と謎には到達できておらず、この高い壁の前であれこれ考えながら佇むのみである。とにかく当たっていくしかない。
廣松渉は、マッハ研究・翻訳もしていたのか。ムージルも論文を書いた哲学者だ。意外なリンク。
『につぽん製』を少し読んだ。登場人物の孤独を感じさせる描写が光り、印象に残った。三島由紀夫の作品全般に言えることだが、この作品も昭和の時代を活き活きと伝える。服飾業界など。
昨日今日で、古典となる言葉や文化を作り出せるわけはない。いまの私たちに古典化へのアプローチとして選択できるのは、おおよそ江戸や明治~昭和までの言葉、もの、文化を古典となるようにつなげることだろう。古代~中世までの文化は、もう古典といっていいのではないだろうか。古典となるには長い時間が要ると思う。
NHK『こころの時代』の、「希望の牧場」の回がやっていたので、見た。フクシマで被爆した牛を集めて飼う「牛飼い」の吉沢正巳さんをカメラに収めた番組である。吉沢さんは千葉県四街道市生まれで、満蒙開拓団だった父を持ち、畜産一筋だったという。老いた牛たちの優し気でひたむきな眼が印象に残った。なぜか『白鯨』を読みたくなった。 われわれの使っている「日本語」も、完全なものではない。この「日本語」というシステムの隙間を、その交差する織り目の間隙を突くようにして、新しい息吹を生み出しとりいれる人こそ、新しい文豪と呼ばれるのだろう。それは遊びの中から生まれるのかもしれない。他の言語でも同じことである。
03/28
数字と向き合う一日だった。
昼休みにムージルの原書を読んでいた。
チャットで、ヘルダーリンの名前が出た。ヘルダーリンは、何か大事なことを知っていた詩人のように思う。
長話をした。まったりと有意義な時間。
人類学もおもしろそうだなあ。
2026/03/27
いつもとちがう作業があり、それもなかなか捗り、楽しい一日だった。
合間に洋書を読む。脳のいつもとちがう部分をつかうのか、頭がスッとする。
帰宅後、外で身体をつかう一仕事をした。途中で、思わぬ助け船が来た。
夏目漱石を少し読んだ。あいかわらず面白い。反発も共感も許容してくれる懐の大きい作家である。『吾輩は猫である』の新潮文庫巻末の、伊藤整の解説も参考になる。
ハリー・ポッターの原文が一冊ある。英語とふれあうのにいいかも。
外国語辞書の文章を、ノートに書き写してみるのもいいと思った。
30代になるということは、20代の若さをビンにつめて、ためつすがめつ眺めることができるようになったということだ。どのような若さであれ、その時をすごしたことは間違いがないのだ。
近代最盛期のオーストリア文学(カフカ、ムージルなど)は、作品の未完成さと裏腹になっており、それが不思議と文学的な奥ゆきを感じさせる。大文字の歴史的には未完で終わりなき試みであっても、それが読者に抱かせる印象は合わせ鏡のような無限で、中欧の豊かな文化的遺産と果てしのない精神の冒険を見ることができる。だから彼らの文学はいつまでもわれわれにページを繰らせるのだ。
結局は文学も人生も謎だということ。それを形にしたい。とりとめもなく、はてしなく。次の作品の主人公は作家Bという呼び名にしよう。
スクラップボックス時代から、このシステムには、アイデアの関連という点で助けられ育てられている。
この日記を、まとめて加筆修正し、定期的に季刊アープラなどに載せるのはどうかしら。なにかしらの意義はあるだろうし、なくても意味はあるだろし、なんにもなくてもいいだろう。ただ、読まれる用に書き改める楽しみはなくてはいけない。……どこかしら載せてくれるところを探そうか。
何か長い読書をしようか、考えている。長い読書は旅と同じだ。どこでもないところに出かけてゆき、また日常に戻ってくる。そのためには精一杯の教養と静かな活力と長くゆっくりとした時間と奇蹟のような本が必要だ。そしてそれらを成長させる営みでもある。さて、どこへいこう。
いま気づいたが、西暦はいらないか。一度書いてあれば、あとからでもわかる。
文学の理想形としての日記。未完の、開かれた散文。時間だけがつなぐ、夢の論理の集合。
2026/03/26
朝から雨が降っていた。冷える。
仕事先で別れがあった。ムードメーカーだったので寂しい。再会を約束した。
趣味でするのがいちばん楽しいだろう。学問も、芸術も、創作も、趣味でしているから楽しいので、仕事でしたら大変で楽しくなくなり、つらくなるかもしれない。そこのとこの分け方がキモだ。
データ量が少ないので、出先でスマホをいじるのは考えものだ。
TikTok-Liteを始めたが、地元の美味しい店だとか、千葉のスポット、まったりBGMなど、興味ある動画が流れてくるので、重宝しそうだ。 美味しい店はどんどん開拓していきたい。
2026/03/25
水曜日だ。
腹いっぱい食べた。久しぶりなので少々食がほそい。
食の世界は果てしがない。
読むということは学ぶということだ。私は書き手から教育をうけている。
LINE通話をしたら、画面効果をいろいろいじれておもしろかった。
三島由紀夫の小説には、ブラックコメディーの要素があるとおもう。大江健三郎にもつうじる。ポジティブなものとネガティブなもの。そしてそれらの逆。
ブラックなものは、コメディーをはらむ。
2026/03/24
スマホがやってきた。これで生活が便利になる。
いろいろとやることがある。
天候のことを考えない一日だった。
旧友と連絡した。
2026/03/23
柿の種の、ピーナッツ抜きのやつを食べた。
なかなか待つ。
もう2026年の3月も後半か。
助け合いの精神が大切だ。
受けた恩義に見合うことができるだろうか。時間をかけてやっていこう。
異文化からは学ぶことが多い。
移民について。移民賛成と移民反対、どちらもそちらに付かざるをえない人がいるわけで、結果的に起こるのは民主主義による力のぶつかり合いだ。他の意見がわかれる大きな問題もそうだろう。私たちは表面は静かに、大きな力のうねりの中にいる。左翼、右翼、ノンポリ、などなど、さまざまな考え方の型に嵌まって私たちは活動しているのだ。
日本では、もう左翼的なものも古典の域に入ってしまった。新たな時代を作るために古いものを参考にするのは筋が通っているが。古いものを壊そうとする急進的な左翼から、漸進的に歩んでいこうとする穏健左翼へと分布が代わって行くのだろうか。
まだ、現代では科学だけしかこの世の摂理を確固とした形で提示することが出来ていないので、将来の人間の世界像は、いまとはもっと違うものになっている可能性がある。だが、それも時代によって変化していくのだろう。この世がどうなっているかについての観察は、果てがない。
少しドイツ語の勉強をした。ムージルの日記を訳した。
2026/03/22
ヨーグルトを食べた。
本は、実際に目の前にないものを目の前にみせてくれる。
2026/03/21
日が出てきた。
せっせと。
電子ピアノを弾いた。
そのうち人間は芸術表現だけをして生きることになるだろう。
2026/03/20
早起きした。3時30分。
ホバー車で移動する社会の到来の夢を見た。
21世紀、未来社会はすでに訪れている気がする。あとは気の持ちようというか。古い考えに則って行動を起こしている人はいるが、それらも大きな流れの前に相対化されて、予定調和的に解決されるという予感がする。もちろん、ハプニングはありえるが。
ドイツ語辞書を少し見た。自分にとって、新しい言葉の響きだ。
原文で読んでみたい外国語作家としては、ムージルということになる。もう読み始めているが、まったくわからない。ひとつもわからないというわけではないが、普通のドイツ語ともちがうという説もAIから聞いた。
『特性のない男』第三部。その後、波乱が巻き起こるとすれば、兄妹の死別、あるいは身を滅ぼすような危険の発生、ということになる。しかし実際には物語上に波風は立たず、平和的な場面で小説は中絶する。これは、作者ムージルが兄妹の物語を現実の第二次世界大戦の最中のように破滅と混沌へと向かうことにしたくなかったためか、偶然にもそういった中休めの場面でムージルに死が訪れてしまったのかは解明できないが、とにかく静謐なラストシーンをもってこの長い小説は幕を閉じる。初めて読んだときは不思議な感銘を受けたものだ。不完全燃焼の感じはなく、一種の爽快感すらあった。結果的な最終章の開かれた庭のなかで、二人の兄妹は生き続ける。ムージルには幼くして亡くした女きょうだいがいた。
早起きしたので、疲れが昼くらいに出た。なんとか頑張った。
腹が減っていた一日だった。
2026/03/19
雨が降っている。
ボラーニョの『ムッシュー・パン』を少しと短編「この世で最後の夕暮れ」「一九七八年の日々」「フランス、ベルギー放浪」を読んだ。印象的な短編たちだった。
古本屋に行き、レッシング『ラオコーン』の岩波文庫を買った。冒頭を少し読んだ。
デライトを書いた。書き込みが多かった。
2026/03/18
ユスリカが沸いてきた。
変わりやすい天気だ。季節の変わり目なのだろう。
久々にコンビニに行った。
久々に缶コーヒーを飲んだ。
『荘子』がおもしろい。いまだに偉い学者でもわからないところがある。
ボイチャが楽しい。
2026/03/17
楽天的にいきたいものだ。
行政のいざというときのための決断は早い。さすがだ。
今日は寒かった。
仲のいい人が増えてうれしく、またありがたい。
こんなあたくしでも長生きすれば人と人ととをつなぐ役割にはなれるかもしれない。とにかく健康にやってみよう。
聖書はまさに聖なる書物であるかな。311の夜にちいさいライトで新約を読んで以来、折に触れ読み返す書。部分によっては感動さえする。異教徒なのに! 宗教は、宗派を超えて存在する普遍性があるものらしい。
そういえば、「あいんしゅりっと」という出版社から、『ヨゼフとその兄弟たち』が改めて出版される。旧約聖書の短い記述を圧倒的に長い物語に仕立てた、トーマス・マンの小説である。全集の訳を新たな装丁で出版するらしい。「ひとり出版社」だそうなので、頑張っていただきたい。たくさん売れるといいなあ。 2026/03/16
古い携帯電話の目覚ましが機能した。効率的な目覚め。
心配事が増えた。
2026/03/15
久々の再会。
食事は大切だ。
時間を有効に使った。
2026/03/14
散髪したので頭が寒い。
作業して指が痛くなった。
焼きそばはウマい。
昨晩、三島由紀夫の短編小説「ラウドスピーカー」を初めて読んだ。戦後まもなく、音楽研究会を描いた作品。貴族の没落。お金によって一喜一憂すること。芸術(文化)の政治性と、普遍性を戯画的に書いた。ラウドスピーカーとは、拡声器のこと。 どこに何を書き捨てているか、把握しておきたい。そのうち書いてきたものを纏めたい欲がでてきたときに、とりかかれるように。
いま思えば、『アンチ・オイディプス』という本は、人間は欲望によって駆動するという主張だろう。そこで「器官なき身体」という概念が導入されるわけだ。欲望する主体はなにか特定の器官ではない。盲目的に欲し、完全に充足することのない存在だ。手放してしまったが、また読み返したくなった。
古来、中国文明は官僚主義で、マス・ゲームが歴史的に得意だという話だが、大勢の民を束ねるためには大々的な方法が欠かせないのだろう。その大味さもふくめて、おもしろい。
文章が上手いということも、上手に書くルールを知っている、ということなのかもしれない。その証拠にチャッピーくんは上手に文章を書く。ただ、芥川龍之介やドストエフスキーのような特定の人を心底感動させるような文章を書くとなると、なにか病のようなものをもっている必要があるかもしれない。ここで病というのは、或る回路が不具合を起こしつつも、独自の運用がなされている身体性のことで、そういったスティグマを持ったいわゆる「文豪」の書く文章の持つ「過剰さ」「過敏さ」というものは、機械が会得するまでにもう少し時間がかかりそうだ。無理なことだとは言わない。ただ、機械は人間に比べて「健康」すぎる。将来、病んだAIなるものが誕生するかもしれず、そこに作家性が宿るかもしれない。
土曜の夜は、YouTubeでも放送が多い。翌日が日曜日だからだろうか。
古典を少し調べて、読んだ。馬琴、『南総里見八犬伝』など。
日本史の参考書を少しずつ読んでいる。知らないことや覚えたいことが多く書いてある。
明日は忙しい一日になるかもしれない。どうなるか。
2026/03/13
床屋に散髪しに行った。すっきり。髪を切るのはいい。
油絵の道具をほったらかしにしておいたら、絵の具が固まってしまいキャップ動かない。なんとか柔らかくすることはできないか。
よくネット上で書影を目にする、叢書ウニベルシタスは質の高い学術書ばかりだ。法政大学が出しているらしい。
2026/03/12
パソコンは便利だ。
朝はまだ寒いが、日中は暖かい。
2026/03/11
311だ……。
ご飯がおいしかった。
長めの散歩をした。寄り道もした。
長期的な目途が徐々に立ちつつある。
ChatGPTはよろずのことにつかえるなり。
2026/03/10
人混みの中を歩いた。
外でハンディカホンを叩いた。外だと思い切り叩けるのでいい。低音が出ないタイプなので、もうひとつくらい愛器がほしい。長く叩けるやつがいいな。
エスニックドラム・ラテンパーカッションは叩くほど楽器に味が出るので、ここから自分の中古品好きは来ているのかも、と思う。古いものでも本や楽器などなら平気で買って使ってきた。
関東なのだが、田舎に住んでるので、ここと東京は話し方がちがうな、と思った。日常の話し方を思い返してみたのだ。
ギターのネックを切って、ネックレスギター楽器「ター」を作ろうと思った。ボディを叩いて音を出す打楽器なのさ。
出先に『パンセ』などをもっていったが、何故か、あまり乗らなかった。読書も万能の暇つぶしではない!!
たまには『夜明け前』なんかの日本の古典的作品を読むのもいいかもしれない。
チキンラーメンを二パック食べた。ついつい二玉食べてしまうほどウマい。
昭和軽薄体ならぬ、平成軽薄体なんてものをやってみようか? もうやっているかもネ。
論点として文学作品を語る気が、あまり起きない。どうしてもというなら別だが、文学はあくまでいろいろな要素の入ったものなので、ひとつの論点として使用するには向かない気がする。
久しぶりにWIkipediaを回っていたら、Grokipediaというものができていたのを知った。AIが執筆しているらしいが、どんなものになるのだろう。ワクワク。イーロン・マスクが音頭をとったらしい。 2026/03/09
いつもより早起きした。5時過ぎ。
身体が乾いているような気がしたので、朝、冷たい水を二杯飲んだ。シャッキリした?
結局、昨日は中国語の教則本を長いこと眺めていた。面白い。語学の学び始めはカルチャーショックがあって刺激的だ。
朝、墨子を読んだ。
道家(道教?)的な考えかたを自分なりに拵えて、または感得しようとして、日々を過ごしている。無為自然を目指すのは当然だが、何事もバランスを心がけて、無理しない、調整するといったことが大切に想う。
ハイデガーと老子。ハイデガーと荘子。ハイデガーと老荘。東洋思想と西洋哲学の融合点をみていく。「道」と「存在」との関係は。
作家の好き嫌いというのも、その作家たちのタイプがちがうというだけだ。
親切な方によって危機(心配ごと)を脱した。
2026/03/08
今日は、とある催しで吹奏楽の演奏を聴いた。久しぶりに聴いたが、ポップスがメインの、なんとも楽しい演奏だった。社会人楽団だったのだが、みんな各パートを丁寧に演奏しており、流石だなと思った。少し、参加してみたくもなった。
公共の場に、書籍を自由に手にとれる場所があるのだが、運よく中国語の教則本を手に入れることができた。少し中を覗いてみると、基礎的な発音や読み方や会話が書いてあるので、これはありがたい。ちょうど知りたかったので、渡りに船というやつだ。こつこつと学んでいきたい。中国の古典籍が手元に何冊かあるので、これを現代中国語読みしてみたりするのもいいかもしれない。
2026/03/07
週末。日記をつけると日々にリズムがついていいみたいだ。
ドラムスティックを買った。太さは普通か少し細いくらい、先端は円錐形。材質はわからないが、軽い。せっかくなのでいろいろなものを叩いていきたい。なお、ドラムはもっていない。ウッドカホンはもっている。
十年以上前にやっていた音楽活動をまたやってみたい。どういう形になるのかわからないが、そのうち。音楽をするのは愉しい。体力が要るが、つまりトレーニングにもなるので一石二鳥だ。
最近は、打ち込み音楽をやっていないことに気づいた。数年前まではせっせとDAWで曲を打ち込んでいた。一週間に一曲つくった日々もあった。作った曲を人に聴いてもらうのはうれしいことだ。ニコニコなどでは感想までいただいた。懐かしい……。また気がむいたら作ってみよう。
『荘子』は、思想書と呼ばれているが、軽妙洒脱で、飄々とした趣があり、小説のような面白さがある。優れた奇書といってもいいかもしれない。さまざまな話が入っているのもうれしいポイントだ。
お笑い番組を見たら、お笑い芸人になりたくなった。10年前くらい?にお笑いブームがあって、青春をお笑いの消費と仲間うちでのギャグ三昧で過ごした。お笑いというのは長く残らない。一瞬で花火のように咲いては消えていく。さりげないヒット曲にも似ている。お笑いにあんまり古典性というのはないだろう。古典的なお笑いとかはあるけど。だがそこがいい! お笑いに命をかける人たちを心の底から尊敬する。人類の貴重な時間を切り取って、めっさくだらないギャグで笑いの爆発を引き起こすのだ。いけ! お笑い芸人! ファイアー!!!
ドビュッシーの曲は心の琴線にふれるものがある。涙腺にもたまにくる。嗚呼ドビュッシー。その調べは甘く切ない。
2026/03/06
楽しい作業だった。連係プレー。
このごろは徐々に気温も上がってきて、午後なんかは散歩やサイクリングに心地いい。息をするにも鼻が楽だ。いまの時期、花粉症の人は大変らしい。私はそんなに花粉をかんじることはない。お大事に……。どうかよくなりますように。 日本語の勉強をしたい。もっと言葉づかいに熟達しなければ。あと漢字漢文。それと西洋語。とりあえず日常と関わりのあるのは以上だ。ただ、今後ますます国際化が進み、どんどん異国の言葉を学ぶ必要が出てくるのかもしれない。そうしたらどうやって学ぼうかな。実際にその国の人と交流するのがいちばんいいのだけども。
日常つかう言葉、会話や作文でつかう言葉、そういうものにもっともっと慣れ親しみ、使いこなし、得意としていきたい。言葉はあらゆることにつかう。しかも練習すればうまくなる。それは外国語学習を見聞きしていればわかる。ノバ! って宣伝があったなあ。
閃電! ってかっこいい言葉だなあ。予測変換で出てきた。
世界では平和ではないことが起こっているが、日本に飛び火してもらいたくないものだ。といっても、「ことなかれ主義」で出来事をみているだけでも、いつかこちらにまわってくるかもしれない。それに一般人はどう頑張ろうにも頑張れない。外交官に任せるしかないのだろうか。エリートはそのためにいる。何はともあれナムナム。
街の本屋には、そんなに本がない。けれど手ごろな文庫が多く売っていて、棚を見分するたびわくわくする。今日は買わなかった。
チャットGPTはよろずのことに使える。定型のテキストを生成するなどはかなり便利ではないだろうか。 チャットGPTかチャットGTPか迷い、よく間違える。GPTが正解。健康診断でおなじみ、ガンマGTP……と混同しないように~。
西洋の文学におおいのだけども、一文で二つのことを示している文章があって、その片方は哲学的なことに通じている。
2026/03/05
千里の道も一歩から。
『老子』を読む。これが万人のために書かれた書であるということに思いいたる。
グラムシという名前を知る。
散歩をした。なんともいい天気で、整った。健康的なのでこれからも継続的にしたい。
さいきんは、おもしろくて、長く読むだけで愉しめる本というものを探しまわっていたきがする。ただ読むだけで快楽になるというのはすごいことだと思っている。いまはゲームやSNSが発達して読書もそんなに主流のコンテンツではなくなってきた。ただ依然として? 読書文化は残っていて、われわれは存在する本を根こそぎ読むことができる。読める本をどんどん読むことができるのだ。ただひたすらよむ快楽を求めて、本をチェックしたり買ったりしていた。身体性にも関わるのだが、とにかく読む愉しみを!
仏教的な救済や幸福について。再考するときがきているかもしれない。
日々に感謝することだ。どのようなくり返しであっても好循環にするきっかけは自分の心にある。とりとめなく変転する世の中に流されず、逆らわず、平静に大切に時を慈しんですごす。知識に流されず、馬耳東風にせず、己が指針になる言葉を日々学び、感謝をもって受け入れていく。
ただ、心の平安をいっとき失って、本の知識を求めすぎていた。心に入った亀裂を書物から得る滋味で埋め合わせていた。ありがたいことであると同時に、溺れてしまいそうにもなる。節度をもって、安心しつつ、心静かにすごしたい。
2026/03/04
空き時間に『論語』を読む。ページをぱらぱらとめくって読んでいた。この書は一見関連のうすい短い断章がいくつも連なってできている。孔子の言行録である。よく「しっかりしなさい」などという一幕が世の中にはあるが、その「しっかりする」という言葉どおりに振る舞い、諭したのが孔子という人だ。沢山の弟子とともに歩んだ道を刻んだ論語の言葉は、日本人にもなじみ深い。
まだ肌寒いが、徐々に暖かく、春めいてきた。
何事も意外な展開を待っているので、将来は意外な展開になってほしい
元来歌は巧拙よりも即吟即興が面白いので、小便をたれるように歌をよんだらいいのである。
谷崎潤一郎「岡本にて」
中島敦の漢文ものは独特の重々しさ苦々しさがあり、実際の中国古典はもちっと明るく軽く晴れやかである。中島敦自身の特性でもあるのだろうか。えも言われぬ情緒と美感がある。
三島由紀夫全集の書簡集を読んでいるが、十代のころのものは、悩みが年少の十代とは思えない。いまの私より遥かに高度な問題を扱っている。神童ならば当たり前といえば当たり前だが、その高邁さは彼の特性として入れるべきだろう。三島由紀夫が文学オリンピックに出たら金メダルだろう。
オタクとマニアという話をした。オタクは代表的なものを手広くカバーして、マニアはニッチなものを狭くつきつめる。……そういうふうに言い当てることもできるかもしれない。
しっかり勉強していかなくてはと思った。具体的には、ノートをとっていくこと。
2026/03/03
空き時間に『老子』を読む。このところ、この書を読んでつくづく思うのは、西洋のあるいは西洋的な知のありかた、学問のありかたと、中国や日本などの知のありかた学問のありかたが、少なくともかつては異なったものだったということだ。いまもそういう面はあるのだろう。東洋の知恵の精髄である『老子』ひとつとっても、われわれにとって栄養というか、なんとも説明のつかない、滋味あふれる英知をあたえてくれる。たとえばカントの批判哲学のような、鋭く、しつこいまでの論理展開やとことんまでの構造的な哲学体系などはそこにない。中国哲学にとっては、言葉自体が生きるためのツールとならなければそれは用をなさないのだ(無用の用とはいうものの……)。朝、寺か道場で、師匠と弟子たちとが『老子』の章句を相和す光景が、目にうかぶ。それがそのまま成長への活力になるのだ。 久しぶりに『終わりなき省察の行方 ローベルト・ムージルの小説』というムージルの研究書を読んだら、書いてある内容の高度さと、自分のピンぼけぶりに驚いた。シュレーゲルなどのロマン主義文学の話のロジックは複雑であるし、このところ哲学的な著作に取り組んでいないからか理解が遅くなっていた。こういうキレはすぐに落ちてしまうから大変だ(すぐに戻るものではあるものの)。ただ、退化は変化でもあるので一概にわるいこととも呼べない。 2026/03/02
男は、河馬王という、頭を小さな河馬に噛みつかれている武術の達人に教えを乞う。達人は身体がしなやかで、猛烈に強い。男はあらゆる技を教わるが、師には歯が立たない。或る夜、達人は河馬に丸呑みにされてしまう。そして朝、弟子は河馬に頭を噛みつかれているのに気づく。身体はしなやかであり、武術は猛烈に強い。達人となった男は、弟子を探しにゆく。ちょうどそこに男があらわれ、達人は言う。我が名は河馬王である。
見た夢を基に書いた。
今日は集中して作業をした。心地よい疲労。
岩波文庫の『老子』を読んでいた。以前Youtubeで聴いた中国語の音読のかんじを思い出しながら。語句も詩のようで、洗練されており、思想がそのまま表されている。無駄な句はなく、簡潔に響く。今までは意味に執着しすぎて読んでいたきらいがあり、今日は意味と音と文字が一体となって共鳴する潤いのある力をとらえるヒントをえた。いわゆる老子が生まれたのは小国の宋で、実在したかもわからない。しかし『老子道徳経』は民衆やいくつかの国家にとって重要な思想・宗教の源流となった。道教を私はあまり存じないが、広大な中国に広まっている大宗教だということは知っている。そして民間の信仰が歴史を動かす力となってきた。その担った役割と記述自体が、つくづく不思議な書だとおもう。滋味深い文章から、日常のあれこれに関するヒントはえるところ大きい。また、つかわれている言葉は洗練しきっており、みずみずしく、未だに色褪せない。 日本は中国の影響を受けること非常である。中国古典を読むだけで両国の密接な関係が如実にわかってくる。
道家の精髄を学んでいきたい。
2026/03/01
三月だ。サンガツ。
ミハイル・バフチン……読んでいて面白い学者だ。彼が論じていることは何やらすごいのだが、それを構成的に語りなおそうとするのは難しい。ドイツ哲学を学んでいたそうだから、形而上的な深淵な領域にまで手が伸びているからだろう。小説における、イデオロギーの主体としての人物と、その相対化を成す場としての作品世界。どうも彼が語ろうとしているのはとにかく「全体」のような気がしてならない。けして包括的に単純にまとめ上げられぬ・まとめ上げるわけにはいかぬ範囲、実際に論じているより大きな範囲を語っているように感じられる。であるから、彼の関心を寄せる対象はファルスとしての小説……ラブレー、セルバンテス、スターンなどの作品……となる。形而下も含めた広大な世界を無理やりにでも包括するには、ファルス、笑い話、民衆的なカーニバル物語がふさわしいからだ。 あっという間にすぎた一日だった。
市場の発達により、さまざまなものが商品として平等に評価されるようになり、それによってそれのもつ「質」が俎上にあげられる。だが、質を吟味されるのはあらゆる種類のものであり、それらのもつ質は等しく計れるものではないため、商品に対する評価軸もさまざまに分散することとなった。誰が何に価値を見出すかわからないということだ。それまで価値は全体の方が決めていたものが、部分が決めるようになった。そこをうまくつく人間がうまくいくようになっている。
砂糖を購入すると、紅茶を飲みたくなる。
少し前に、「痛い」という言葉が流行ったが、いま流行っている「冷笑」という言葉はその延長線上にあるのではないか。それを名指し揶揄することから斜に構える在り方のスタンスへ変遷しつつあるのは興味深い。
イランに対する攻撃が行われて、新たな戦争が勃発しそうである。どうなるかわからない……が、ホルムズ海峡が封鎖されたら日本の多くの人の生活にも影響を及ぼしそうである。遠くの紛争が、一気に身近になることになった。経済活動によって世界中がつながっているため、どこかで非常のことが起こるとこちらで影響がでる。
アープラは、「話のための話」をするところだと思っている。いわゆる哲学や、思想などについて話すところだと観念して思ったことは一度もない。NHK教育テレビでやっていた、「真剣十代しゃべり場」のようなところだとみなしている。思想哲学チャンネルでは、近年、とくに話のために話がされていることがふえた。雑談といってもいいのだが、そこでは何が問題であるかが明確にされず、ただ話題と緩い論点が宙づりにされてたゆたっている。文学的(印象・感情的・なんでもあり的)になってきたので、参加者も多くなってきた。大きい言論の場ではありがちなこと(Twitterなどもそうだった)だが、次々と次のことが起こるので、本題に入る前に新たな本題がやってきてしまう。そこには十分な思考がないというか、必要とされない。反射神経的に会話が出来てしまう。私は、プラトンの対話篇やニーチェのツァラトゥストラのように、閉じた対話篇を書くほうがよっぽど思想哲学的だと思うが、いまの文学的な開かれた場も、カオスとミックスギャザーを求める人間のサガからすればふしぎと居心地のいい場所として価値はあるのかもしれない。 文豪でも、通じない書きかたや書きまつがいはあるはずで、たとえば作品の題名をメモしてもだれも後世の人が気づかないとか。こういった言葉のあや、書くことのきわ、選択の選択は重要である。
Urban Saxという音楽プロジェクトをきいた。多数のサックス奏者が一堂に会して演奏するというコンセプトのもので、大きな、数のエネルギーをかんじる。音の圧で表現するのがひとつの要素のようだ。さまざまな感情を表現できるサックスの音色(おんしょく)は、大量に集められると巨大な塊の声になり、うねりを生み出すことがわかる。生命の躍動とも言いたいが、もっとどろどろとした本源的な生命力をもかんじさせる音が生み出されている。複雑な臓器のうごめきを聴いて味わっているかのようだ。 伏線を追っていく必要のないミステリー読書。推理しない探偵小説。
記入に使っているパソコンの調子が、着々とおかしくなってきている。まあまあ使っているはずなので、くるべき劣化がきたということなのだが、しかたがない。だが一挙に準備できないまま劣化がつきすすむと、突然とうとう何の記入もネットで出来なくなるかもしれない。そうなったら、仕方ないので紙にペンで何かを書くという昔ながらの方法に戻るのだ。パソコンも、一度買えばいいものではなく、使えなくなる時がくる消耗品なのだということを忘れずにいたい。
あまり日記であることが意味をなさない、自由な『エセー』のような散文の集積になれば、あとで書くのと読むのとを一緒にできて便利でたのしい場が出来上がるかもしれない。脳内の思念をメモとして形にするのはたのしいことだ。小説も、一種のメモなのかもしれない。あるいは特殊なメモの仕方なのだろう。或る小説の或る形式でしか、特定の何かをメモできなかったのかもしれない。それは個人の細微な淡い記憶かもしれず、集団の広範な確固とした記録かもしれず、そうした形容のランダムな組み合わせかもしれない。何にせよ人間は少なからずおセンチなので、私たちは互いに訴えあうことができるのだろう。フランツ・カフカやニコライ・ゴーゴリのように、原稿をつまり或る種のメモを燃やしたがった、隠滅したがったひとびと、記憶や記録のもう残らない無数のひとびとは、存在したことは確かだけれども、メモを消して歴史から去りたがったのも確かであり、それはさまざまな理由があるにしても、記述としての死に瀕することであった。私もポッといつか肉体は死んでしまうだろうけれども、いまのところメモを全消ししたいという望みはもっていない。だが歴史を去るということは望むにしろ望まぬにしろおおむねの人が粛々と受け入れざるをえないことであり、事実だ。その忘却の領野に自ら分け入っていったとき(それは自分の無の意志が自発的に行うものだとおもうのだ)、われわれはかつて存在してまた無に戻った数々の人間とまた同一の場所で再開する。完全に歴史から去らない限り、われわれは存在し続け、幸か不幸か半分は世界に生き続ける。いずれにせよ存在しているということは幼いままでいることであって、われわれはこの世に修学旅行に来ているようなものだ。 ここまででこの日記は原稿用紙50枚とちょっとらしい。加筆しつつあるから正確ではないけれども。けっこう書いたともいえるが、50枚でも書くのは大変だ。
芥川龍之介の誕生日なのだそうで、書いておく。文学は絶体絶命の場所から書かれるのだということをつよく私に印象付けたのは、芥川龍之介だった。文章のフォルムや、懐疑主義的態度、芸術至上主義的方法、そのバロック的誇張と古典的題材とを学ばせてくれたのは芥川だった。学んだところで、なにひとつ形にしていないから意味がないが、芥川は読む人の胸にポトリとインクの沁みを落としていく罪深い作家である。よく言われる、芥川~太宰~三島~川端の「文学的自殺の系譜」も、そこに興味を持ったのは彼の作品を読んだことが切っ掛けだ。おそらく夏目漱石の薫陶を受けたなかでも内田百閒とならぶ屈指のスタイリストであった芥川龍之介は、そのメディア戦略と相まって、大正~昭和の華やかな時代の花形の在り方をかたちづくった。現代の文学に対する向き合い方では想像もできないような苦しみと熱意の果てに結晶された作品群は、未だに読んで感動を呼ぶものであり、私の「日本らしくない日本好み」はここから始まったのだった。