芸術を有用性と切り離す議論
芸術を有用性と切り離す議論は近代からあるようだ。それ以前にもあるかもしれんが調べてない。
「芸術のための芸術」(L'Art pour l'art)という言葉がある。これは19世紀の西洋芸術にあった標語だが、芸術がいかなる教訓的・道徳的・実用的な機能とも切り離されたものであることを示している。例えばポーなんかは「ただ詩のためだけに書かれた詩」よりも威厳のあり高貴な作品などはこの世界には存在しないということを書いている。 バタイユは労働のような有用な生活から外れた遊びが芸術に発展したときに現在の私たちと同じ意味での人間になったと言う。フェルナンド・ペソアにも芸術は役に立たないから美しいみたいな言葉があるが。 結論として、そもそも芸術を介して有用性(目論見、目的、意図、お金稼ぎなど)を求めること自体が芸術とは言えないと考える人もいるし、実利的でない芸術的思考がまた人間の生活を刺激するものとして"役に立つ"と考える人もいる。この辺は、芸術は実利的でないから否定する向きと比較しても少なくとも芸術に対する肯定感があるのではないかと思う。 美術教室に通わせる親の目的は様々だと思う。絵を描く思考、動作が子どもの新しい面を開くのに役に立つ、子どもの人生の刺激になる、子どもが立派な画家になってワンチャン、など思って美術教室などに通わせたりするんじゃなかろうか。教養、ステータスとしての美術の嗜みみたいなのもあるかね。今はもうそんな家もないかね。
ただ、そんな実利的な思考の親に比べて子ども側はそんなことあんまり考えてなさそうである。絵を描いたときに、これが役立つとか教養や儲けのことなど考えていない。ただ絵を描くために一心不乱に筆を動かす、筆を動かすこと自体が思考になる。純粋に筆を振った、線と向き合った結果が描かれた絵である。そこに私欲はあるだろうか。彼らはただ線とリズムに向き合い筆を振っているだけではないか。
このように純粋に動きだけで描いている子どもたちにも徐々に目的がうまれてくるのだろう。「絵を描いてもっと親を喜ばせたい」「私が美術をやれば親が喜ぶ」「立派な絵を描いてみんなに褒められたい」「周りをあっと言わせたい」「絵と対象をより近づけたい」「ある理想像(モデル)があり、それにちかづきたい」などなど。これは、人のために、もしくは自分のために絵を描くという目的ができるということである。「自分のために絵を描く」というセリフはよく聞くが、さて子どもが一心不乱に筆を振るときに自分のために絵を描いているなど考えもしなかったと思う。
結果としてできた自分の作品を見て、自分の中で何かが充実するということがある。この充実感のようなものをまた得んがために再度絵を描くということがあるだろう。また作品に対する反省がある。先生や親があまり喜んでなかったとかまた自分の理想からかけ離れていたとかの反省から、次はよりうまくやろうとする。これは創作に再帰する動機である。この充実感や乗り越えをまた体験したい自分のために創作活動を反復する。 創作の中で対象と自分を近づけていくという作業は自由の獲得である。最初は自分と対象の距離は遠かったが、徐々に出来るものが対象に近づき、自分自身の幅が広がるようなものだろう。
ここからは目的を創作の理想像の追求に絞る。さて、このような理想像の再現という目的を追い求めすぎると、自由の獲得とは正反対に、自分はその目的に縛られ、創作自体が徐々に苦しくなってくるという状況がおきる。理想モデルと自分の作品は絶対に一致してこないからだ。限りなく近づくということはあるだろうが。そのような不自由さから脱却のために、再現性という目的に縛られず子どものときのように、自由に筆を振るという行為が思い出される。千葉雅也センセ『センスの哲学』で言うところの、自分の「足りなさ」より「溢れ」を自覚することの大事さみたいな話かしら。再現性をメインに絵を描いていると、どうしても「足りなさ」がイメージされてくる。その不足は永遠に埋まることはない。そのズレみたいなんを「足りなさ」ととらえないで、自分の可能性の「溢れ」としてとらえる。再現性より、自分自身の線の運動をメインに考えてみようという話である(再現性はむしろ、無意識のうちに出てくる)。 芸術と有用性の話から自由に書いていたら、最初の問題からかなりすっ飛んだ気がするが、ここまで何か目新しい話を書いたわけでもなく。しかしここから芸術と有用性の議論に再帰してくる可能性がある。
ここからは誰か考えて。