自らを演じるハムレット
既にハムレットという一個の人物が存在していて、それが自己の内心を語るのではない。まず最初にハムレットは無である。ハムレットは自己のために、あるいは自己実現のために、語ったり動いたりはしない。自己に忠実という概念は、ハムレットにもシェイクスピアにもない。あるのはただ語り動きたいという欲望、すなわち演戯したいという欲望だけだ。この無目的、無償の欲望はつねに目的を求めている。その目的は復讐である。(中略) ハムレットは演戯し、演戯しながらそれを楽しんでいる。そのことはシェイクスピア劇の主人公すべてに言えることで、ハムレットの場合、それが今日の私たちの眼には度を超えるほど過剰だというだけのことに過ぎない。というのは、人生を演戯したいというハムレットの欲望は、復讐という目的を得て燃えあがるのだが、そうしてひとたび燃えあがった火は、今度は周囲のあらゆるものに燃えつき、それらを焼き尽くそうとする。その激しい演戯欲のために、ハムレットは本来の自己を失う。もしそういうものが在りうるなら、彼は本来の自己を見失って、その他のあらゆるものになりうる。
(中略)
これは私の持論だが、人生においても、そのもっとも劇しい瞬間においては、人は演戯している。生き甲斐とはそういうものではないか。自分自身でありながら自分にあらざるものを掴みとることではないか。
実際、「この世の関節がはずれてしまったのだ。なんの因果か、それを直す役目を押しつけられるとは!」、「こうして身のまわりに十重はたえ、悪だくみの網を張りめぐらされて──気もちのうえでは、まだ幕開きの用意も出来ていないのに、もう目のまえに芝居がはじまってしまったというわけだ」など、それを示唆する劇中のハムレットのセリフがある。
ハムレットがこのように「変り身」の術に長けているために、その迅速さに翻弄されて、『ハムレット』を芸術的な失敗作と断じたのはエリオットだった。エリオットは心理的な一貫性をハムレットに求めて、遂にそれを見いだすに至らなかったわけだ。シェイクスピア劇、特に『ハムレット』に現代的な心理の一貫性を求めるのは邪道である。ハムレットは一貫した心理としてではなく、一個の生きた人間として、舞台の上で、自由に、その場その場に即して「演戯」をしているのである。だから、そこには一見して矛盾もある。が、それは作品上の矛盾というより、生きた人間の矛盾なのである。