老子は退歩的で人の自由を奪うのか?
その理由はしばしば道、タオをとらえることが難しいからだと思います。 しかし退歩的であるかどうかには一考の余地があります。
例えば、
一章
これがタオですと示せるようなタオは、恒常のタオではない。
四十章
反者道之動。弱者道之用。天下萬物生於有、有生於無。
根元に回帰していくのがタオの運動であり、柔弱なのがタオの作用である。世の中の物は存在から生まれ、存在は無から生まれる。 こういった文言はまるで禅問答のようです。
私なりにこれらを解釈すると、タオは万物を生む根元だけれども、人間には決して把握することができない。そして、その特性は回帰性だったり柔らかさ弱さだったりとマイナスの属性をもっています。
さて本題に入ると、たとえば
五十六章
塞其兌、閉其門、挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵。
知恵の鋭さを弱め、知恵によって起こる煩わしさを解きほぐす。知恵の光を和らげ、世の中の人々に同化する。
私は、ここでいわれている知恵(または意志)というものは、老子にとっては、表面的な、タオには程遠い知恵なのだと考えています。なぜなら老子にとって真の知恵とはタオに近づくためのものだからです。私は上記の部分で彼がタオの特性、つまり常に原則に帰ることだったり、繊細な優しさを持つことを説いているのだと思います。
ですから、もしある才能を磨くことがタオに合致しているなら、老子はそれを否定しないでしょう。
彼はタオを水を湛えたように見える空っぽの容器に例えます。つまりタオはどんなものでも内包してしまう深みでもあります。努力や進歩も含めてです。
逆に言えば、老子がタオの名のもとに努力や進歩を否定していたらそれは矛盾しているということになります。ひょっとしたらそういうこともありえるかもしれませんが。
また、八十一章にはこうあります。
私は人々に(文字の代わりに)結び目のある紐の使用に戻るようにさせる。中略)目の届くところに隣国があり、そこから我々のところまで鳥や犬の声が聞こえてくるはずだが、老いても死んでもその国と交わらないようにさせようと思う。
これも自由を奪うような言論だとも捉えられますが、私はこれは為政者の視点から見た言葉だと解釈します。
そして六十一章にはこうあります、
故大國以下小國、則取小國、小國以下大國、則取大國。……夫兩者、各得其所欲、大者宜爲下。
大国が小国にへりくだれば小国の帰順が得られるし、小国が大国にへりくだれば大国に受け入れてもらえる。(…)両方がそれぞれ望むことを実現しようとするなら、大きいものの方がへりくだるのがいい。
六十一章の記述は大国によって統一された小国における話ではないかと考えます(これは池田知久氏の説を参照したものです)。つまりこれは単なるユートピア論ではなく、大国(たとえば秦や漢のような)がいかに暴力や圧政を行わずに民を幸福に統治するかを論じた実践的な思想であるとも考えられます。ただ、それが実際にうまくいくかどうかはわかりませんが。 最後に、タオの曖昧さとタオを根拠にすることによる宗教性についてですが、これは神秘主義的な部分が大きいと考えています。
実際に老荘思想の流れは道教という宗教に変化しました。