第三回 「倫理学講話」読書会用メモ
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メモ
読書会が始まる前に上の資料をdiscoの空き室にコピペ
スレッドを作成し、通常のテキチャはそこで行う
資料を読む際には、罫線の引いてあるところで一旦止まり、疑問・感想などがあるかどうか尋ねる
時間配分(仮)
資料2「解説」の第二節(22:10〜22:50、8分 × 5)
本文の§4(22:55〜23:30、12分 × 3)
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資料2「解説」の第二節
2.相対的意味と絶対的意味
ウィトゲンシュタインは、「倫理」がどういうものなのかをいくつかの文を挙げ、示している。(註8)
1.「倫理学は価値あるものへの、真に重要であるものへの探究である」
2.「倫理学は人生の意味への、人生を生きるに値するものたらしめるものへの探究である」3.「倫理学は正しい生き方への探究である」
そしてこれらの文に使われている言葉(「価値」「重要」「人生の意味」「生きるに値する」「正しい」)が、二つの非常に違った意味で使われていると指摘する。つまり「相対的な意味」と「絶対的な意味」の二つの意味で使われていると言うのである。ウィトゲンシュタインは、「相対的な意味」とは「目的があらかじめ決まっている」あるいは「ある特定の、あらかじめ決まっている基準に達している」ことだと言う。つまりまず「あらかじめ」目的や基準が決まっていて、そういう決まっているものを前提として、いくつかのものが比較されることにより、ある意味が決まってくるということである。するとこれは、あるものとあるものを比べることによってその都度決めるといった、純粋な相対性という意味での「相対的な意味」ではなく、ある基準つまりある絶対的なものを枠組みとして初めてそのなかで決まってくる相対性ということになる。この「相対的な意味」についてウィトゲンシュタインがあげた例を一つ検討してみる。
「この男はよいピアニストである」
この「よい」が相対的な意味であるとウィトゲンシュタインは言う。つまりこの「よい」は「ある程度難しい曲をある程度巧妙に弾くことができる」(註9)という意味であり、相対的に決まってくると言う。たしかにこの「よいピアニスト」という言い方は、そういう意味を表すこともあるが、それは「よい」という言葉のふくむ意味の一つにすぎない。つまり「この男はよいピアニストである」という文を言うとき、この「よい」は、この言葉の持つ多義性、たとえば技術レベル、その技術のさまざまな種類、芸術的表現能力あるいはその能力のいろいろな現れ、または人気がある、人柄のよさ、倫理観の強さなどさまざまな事柄を意味する可能性がある。「よいピアニスト」と言うときには、そのなかのいくつかの要素が重複している場合が多いのではないか。そうでなければ、わざわざ「よい」という形容詞は使わないと思われる。
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さらに「ある程度難しい曲をある程度巧妙に弾くことができる」という部分にふくまれるこの二つの「ある程度」はどういう意味なのか。最初の「ある程度」は、その曲が難しさのどのレベルなのかを表現している。するとある難しさのレベルを決定するためには、そのレベルもふくめた難易度の体系が前提されていなければならない。つまり最初の「ある程度」にふくまれている意味は、客観的にであれ共同主観的にであれ、ピアノ曲の難易度の体系が厳然と存在していることを前提としている。次にその体系を前提として考えると、二つ目の「ある程度」もわかる。この「ある程度」は、そのように難易度が難の方に傾いている曲を巧拙度のレベルの上のほうで処理することができると言っているわけである。したがって、ここにはこのレベルの巧拙のレベル体系があり、それを前提としてピアニストのレベルを決めているということになる。そうなるとピアノ曲の難易と、ピアニストの巧拙のレベルのいわば座標が前提されていることになる。そしてこの座標がなければ、「よい」の程度は決まらないのである。またこのピアニストのピアノ曲の巧妙さや難易度を決めるのは、「よいピアニストである」と言う当人なのだから、最終的にこの文の意味は、「相対的」というよりもむしろ「主観的」といったほうがより適切であると思われる。そうすると「よい」という言葉が純粋に相対的な意味であるためには、まず「よい」の多義性を捨象し、ただ一つの技術的側面にのみ絞り、つぎにその曲の難易度と技術の巧拙度の座標を前提としていることを度外視するという二つの段階をふまなければならない。したがってこの例がたしかに「絶対的」という意味での「よい」ではないということはわかるが、だからといってそれが本来の意味での「相対的」であるとは言えないのではないか。もちろんこの意味こそが「相対的」という言葉の意味であり、そもそもある基準がなければ比較などできないという考えもあり、確かにその通りであるが、ここではウィトゲンシュタインの提出する「相対-絶対」という概念対が対称的でないことを強調するために、あえてウィトゲンシュタインの言う「相対的」という概念を「主観的」という言葉に置きかえてみたい。
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さてつぎにウィトゲンシュタインが、「相対的」な意味をもつ価値判断とは逆の絶対的価値判断だという価値判断に移りたい。そこでは相対的価値判断の例として「テニスの下手な人」と絶対的価値判断の例として「大嘘つき」の例がだされ、それが対比されて説明されている。
1.テニスの例(相対的価値判断)
ウィトゲンシュタインは次のようにいっている。
「私にはテニスができ、そして皆様方のどなたかが私がテニスをしているのを見て、「へえ、君のテニスは随分下手だね」と言ったと仮定し、また私が「そうさ、僕はテニスが下手だよ。だけどもっとうまくなろうとは思わないよ」と答えたと仮定してみましょう。他の皆さんが口になさるのは「ああ、それならそれでいいさ」ということだけでしょう」(註10)
つまりテニスには上手な人もいれば下手な人もいる。全員が必ずしも上手な人になる必要はない、ということである。そしてこの上手下手はあくまでも「相対的」なもので、まったく強制力も何ももっていないことになる。しかし果たしてそうであろうか。レッドパスも指摘するように(註11)、熱狂的にテニスが好きな人であれば、「うまくなろうとは思わない」と言った途端に怒りだし、もっと上手になるための特訓の必要性を説くに違いない。あるいは非常に真面目で人生はかならず前向きに生きるべきだという信念を持っている人であれば、「一度始めたものはその最高レベルに達するまで努力すべきだ」と言うはずである。したがってウィトゲンシュタインが提出したこの例のこの状況で「それならそれでいいさ」とかならずしも全員が言うわけではない。ある基準や考えに固執して、自分がそれに固執していることに気づかない人はいくらでもいるし、むしろそれが普通である。そうするとこの例から導かれる教訓は、テニスの上達に対する考え方にはいろいろな考え方があり、ただ一つの答は期待できないということになる。そうなるとこの判断も「相対的」と言うよりも「主観的」と言ったほうが適切であると思われる。
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2.途方もない嘘をつく例(絶対的価値判断)
ウィトゲンシュタインはつづけて次のように言う。
「しかし、私が皆様方のどなたかに途方もない嘘をつき、その人が私のところへ来て「君の行いは犬畜生も同然だ」と言い、私が「そうさ、僕の行いは悪いよ。だけどもっとよくしようとは思わないさ」と言ったとしましょう-それでもその人は「ああ、それならそれでもいいさ」と言えるでしょうか。絶対にそんなことはないでしょう-「いや、君はもっとよくしようと思うべきだ」とその人は言うでしょう。」(註12)
これも本当にこのように言えるだろうか。嘘をつくことにそれほど罪悪感を感じない人はたくさんいるし、フィクションを書く人達-例えば小説家-は嘘の大きさを競っている。また「嘘も方便」などと言うように嘘が必要であるとだれもが感じる状況も存在する。確かにテニスの場合のようにさまざまに違った答ではなく、やはり「嘘をつくのは絶対よくない」という答が多いのは確かだと考えられる。しかしながらこの割合は量的な違いであって、ウィトゲンシュタインが言うような「相対的」と「絶対的」をわける質的な違いにはなっていないように思われる。ある意味で原理的にはテニスの場合と同様その答を発する人の主観の違いに帰せられるのではないか。
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この「テニス」と「嘘をつく」の例により「相対的」判断と「絶対的」判断をわけようとする場合にウィトゲンシュタインは、今見てきたようにかなり強引な-しかしある意味では常識を前提とした-飛躍をしている。ウィトゲンシュタインの言っている「絶対的」という言葉の意味は、「相対的」と対立させられるような、つまり「相対的」と同一地平にあるようなものではなく、「相対-絶対」といった二項対立的世界を完全に超越した別の次元のことを意味しているのではないのだろうか。さきに「ピアニスト」のところで分析した「ある程度」が決まってくる過程の座標の体系そのものとそれによって決まるものという「絶対-相対」の対ではなく、もっと隔絶したレベルを考えている。しかもウィトゲンシュタインは、倫理的・道徳的なものは、最初からそのレベルの問題だと考えているように思われる。そうでなければこの「テニス」と「嘘をつく」という二つの例によって「相対的」と「絶対的」の区別はできないはずである。というのもこの二つの例の相違の根拠は、ウィトゲンシュタインの言っているところでは、嘘つきに対する個々人の反応に依存するからであり、それはいま見てきたように全く個別主観的なもので原理的に共通性は存在しないからである。そう考えるとウィトゲンシュタインは「嘘そのものは、二項対立的世界からは隔絶したところで絶対的に悪なのだ」と断言しているだけということになる。したがってウィトゲンシュタインの言う「絶対的」は絶対的というよりもむしろ「超越的」と言ったほうが適切であり「相対的」の方は先述したように「主観的」という言い方のほうがより適当であると思われる。繰り返しになるが、このように言い方を変えるのは、ウィトゲンシュタインの言う「絶対-相対」の概念対が、対称的な対概念ではなく「主観-超越」と言ったほうが当を得ているような非対称な関係であることを示すためである。 /icons/hr.icon
本文の§4
さて私が強く主張したいのは、相対的な価値判断は単なる事実の叙述として表せるが、いかなる事実の叙述も絶対的な価値判断ではないし、またそれを暗示することもできないということです。この点を説明させてください。皆さんの一人が、全知の人間であり、それゆえこの世界の生物および無生物の動き、また今までに存在した全ての人間の心理状態を知っているとしましょう。そしてこの人物が彼の知っている全てを巨大な本に書き出したとします。当然、この本は世界についての完全な記述を含むでしょう。私がここで言いたいことは、私たちが倫理的判断と呼ぶもの、あるいはこのような判断を論理的に含むと思われるものは、この本には一切含まれないということです。この本は、もちろん、全ての相対的な価値判断と全ての科学的命題、要するに、作られうる全ての真な命題を含むでしょう。しかし、全ての記述された事実は、いわば同じレベルにありますし、また同様に全ての命題も同じレベルにあるのです。絶対的な意味において崇高な命題、あるいは重要な命題やくだらない命題などというものは存在しません。
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おそらく、皆さんのうちの幾人かは、この意見に賛同し、ハムレットの「何物も善でも悪でもない。善悪は思考が決定する」という言葉を思い出されることでしょう。しかしこのハムレットの言葉はミスリーディングです。彼の言おうとしていることは、「善悪は私たちの外にある世界の性質ではないとしても、それは私たちの心の状態である」ということであると思われます。ですが私が言いたいのは、心の状態は、それによって私たちが記述可能な事実を意味している限りにおいて、決して倫理的な意味での善悪ではない、ということです。例えば、さきほどの『世界の書』の中には、殺人の様子が物理的・心理的に精緻を極める詳細さで書かれているとしても、そうした単なる事実に関する記述には、私たちが倫理的命題と呼ぶ命題は一切含まれていません。殺人も、他の全ての事実、例えば落石と全く同じレベルにあるのです。確かに、殺人についての記述を読むと、私たちは苦痛や怒りやその他の感情を持ちます。あるいは、他の人が殺人のことを聞いたとき、彼らの心のうちに起こった苦痛や怒りなどの感情について読んだりします。しかし、存在するのは倫理ではなく、ただ事実、事実、事実のみなのです。
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すると、倫理学という科学がもしあるとすれば、それが何であるべきかをよく考えれば、答えは明らかであると言わねばなりません。つまり、私たちが考えたり喋ったりすることは何であれ、それは倫理学ではないし、他のテーマよりも重要で、本質的に崇高であるようなテーマについての科学の本は書くことができない、ということは、明らかだと思われます。 (これに関して) 私は自分の感情を次のようなメタファーによってしか表現できません。それは、もし誰かが本当に倫理学についての本と言えるような本を書いたとすれば、その本は爆発してこの世界の全ての書物を破壊してしまうだろう、という喩えです。科学において使われるような言葉は、単に乗り物にすぎません。それは、意味(meaning)と意義(sense)、自然的な意味と意義を載せて運ぶだけの乗り物です。 (一方) 倫理学は、それが何物かであるとすれば、ですが、超自然的であり、私たちの言葉は事実を表現するだけなのです。私がティーカップに1ガロンの水を注いだとしても、ティーカップはその容量までしか水を保持できません。 (それと同じことです。)
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資料2「解説」の第三節
3.相対的価値判断と絶対的価値判断の相違の本質
つぎにウィトゲンシュタインは以上見てきたような、相対的価値判断と絶対的価値判断の違いの本質はどこにあるのかを考える。ウィトゲンシュタインは相対的価値判断とは、「事実の叙述」だと言う。つまり相対的価値判断は、べつの言葉で言いかえた時に事実を叙述しただけの文になると言うのである。ウィトゲンシュタインは「これがグランチェスターにいく正しい道だ」(註13)という例文を出し、この文で使われている「正しい」という言葉は相対的意味で使われていると言う。したがってこの文は事実を叙述した「グランチェスターにいく最短の道だ」という文に言いかえられ、この二つの文の意味は同じだと言うのである。
以上のウィトゲンシュタインの考えにたいし二つの批判を出すことができる。まず第一にこれは前節にも出てきたが、最初の文の「正しい」は種々雑多な意味にとれる。「最短距離」にもとれるし、レッドパスが言うように「楽しい道」にもとれる。(註14)あるいは昔から決まっているグランチェスターにいく「由緒ただしい道」のことかもしれないし、最短距離ではないが何の理由もなく「多くの人が通る道」のことかも知れない。そして「正しい」という言葉を使うからには、それらの多くの意味を重複して使っている可能性が高い。単に「最短の道」と言いたいのであれば、「最短の道」と言うはずだからである。次に「これがグランチェスターにいく最短の道だ」というのは果たして事実の叙述だろうか。もし「事実」というのが、われわれが通常考えている複雑な事象によって出来上がっている現実の一側面であるならば、この「これがグランチェスターにいく最短の道だ」という文はあまりにも単純すぎる。つまりなにを使っていくのか。歩いてか、車でか、飛行機でか、といった交通手段を特定しない限り、最短という言葉の定義がなされないし、ましてや事実の叙述にはならない。またグランチェスターのどこまでの距離なのか-中心地なのか、隣街とのさかいなのか、駅なのか-という問題もある。さらに最短ということをどうやって確認したのか、-言いかえればこの言明を行った当人が知らない道がある可能性-などの多くの問題が湧出してくる。ハンソンの「理論負荷言語」や帰納法の問題をもちだすまでもなく、事実の叙述というのは所詮無理なのである。
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このように「これがグランチェスターにいく正しい道だ」という言明が事実の叙述におきかえられると言うウィトゲンシュタインの見解は二つの点で否定される。そうなると「これがグランチェスターにいく最短の道だ」という言明も事実をそのまま叙述した文とは言えなくなり、他の文同様ある視点にたった「主観的」言明ということになる。その意味では「これがグランチェスターにいく正しい道だ」という最初の言い方と何ら変わりはないことになろう。
したがって「事実の叙述は絶対的価値判断をふくまない」という「絶対的価値判断」の特徴描写は、そのままウィトゲンシュタインの言う「相対的価値判断」にも当てはまり、価値判断一般の特徴となる。ウィトゲンシュタインはおそらく次のような図式を想定していたのではないか。最初に事実が存在し、その事実をそのまま描写する文があり、さらに価値付与する文や感情表現をする文が次にある。そしてそれらを越えて隔絶したところに、絶対的価値判断の文が存在するといった図式である。しかしこの図式は、以上の検討によりもはや成立しなくなった。つまり事実は決して描写することはできないのだから、「事実描写」と言われているものから絶対的価値判断まで、事実そのものと対立するかたちで同じ地平に一列にならぶことになる。
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つぎにウィトゲンシュタインは「全知の人間」の例(註15)をだして、倫理的世界と事実的世界の違いを考える。全生物そしてあらゆる無生物のすべての動きを、あるいは全人間のあらゆる精神状態を知っている全知の人間が、それらすべての記述をもりこんだ一冊の本を書いたとしても、そのなかには「倫理的判断」はふくまれないだろうとウィトゲンシュタインは言う。そしてこの本のなかには、ウィトゲンシュタインの言う「相対的価値判断」「科学的に真である命題」「主張しうる真なる命題」という同じ次元の命題だけがふくまれることになる。そしてまた逆に、倫理学の本が書かれたら、爆発して世界中の本すべてを爆破してしまうとも言う。(註16)倫理学は超自然的なものだと言うのである。しかしその理由はどこにも書かれていない。たしかにウィトゲンシュタインがたっている前提(つまり事実的世界と倫理的世界の断絶)にたてば、なるほどその通りであるが、それはウィトゲンシュタインが最初からそう決めたのであって、本当にそうなのかどうかは検討されてはいない。これはまさしく『論理哲学論考』で「論理空間」(logischerRaum)を要請し、真・偽のはっきり決まる世界を現実界の根拠として設定したのとまったく同様に、あるいはそれと相関的に、善・悪のはっきり決定している「倫理空間」(ethischerRaum)を事実的世界の外側に設定しているかのような印象を受ける。したがってウィトゲンシュタインにとって倫理はある意味で要請だったのは明らかのように思われる。