第6回歌人・短歌紹介レジュメ
日程:10月23日(金)21:00~21:50
抜粋
「雨の降るほうへぼくらはゆくだろう透明だった身体をすてて」
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「感性だけで書いてる印象でした。あらゆる解釈を拒んでるような。」
「イメージで浮かんでくる」
「もともと「身体が透明」であるのは何故だろう。いま現在、生まれる前の魂の状態なのかなと思いました。」
「解釈させないという意志があるのか!?厄介だ」
「雨で、水の身体が濁るのかと思いました」
「良い意味でも悪い意味でも聖性を感じる」
「もう春のよぞらに街は充たされて天使もきみもぼくもまぼろし」
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「中澤系なら「解釈させない意志」がはっきり表れていたんだけど、岩倉文也は居佇まいによって解釈を拒んでる印象がある。」
「この世界自体がまぼろしって感じがする…」
「短歌門外漢で読み方とかよく知らないからなのかな。すごい安心感というか同じ空間の人って感じする」
「天使が二人を結ぶキューピッドだとすると、「ぼく」も「きみ」も二人の関係性も無化しようとしている感じ。」
「ひらがなの開き方がオサレだ。」
「真夜中に散歩をしているときに「世界には俺しかいないんじゃないだろうか?」なんて変な気分になるときがあるのですが、そんなような。街に人はいなくて、静寂だけがあるような。」
「ゆうぐれのドアからにじむ声がある 密室だろうぼくらの明日は」
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「非常に透明で純粋な精神を感じるのだけど、宮沢賢治や笹井宏之とは別次元の感じがする。人間界、俗な世界に対する痛烈な嫌悪感があるように感じる。言葉では直接表現されていないんだけど。」
「夕暮れを、ゆうぐれとしてるところがテンポを下げてる感」
「閉塞感があるけど、上の句が平仮名だからか、受け容れてしまう脱力感も…」
「いまのところ、街の情景と、自分自身のイメージが浮かぶ句が多いな」
「階段をのぼれば窓のある世界 ゆうやけ 窓のむこうのせかい」
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「むしろ「世界」とは一緒になれるけど「人」とは相容れることができない感」
「のぼればってことは今は窓ないってことかな・・・」
「窓があってほしいのかもしれない」
「地からは浮遊してる印象」
「今は階段の下か途中にいるのかな、と思いました。心理的な比喩というより、純粋な風景描写であるように感じた。」
「なんだろう 祈りというか切実さを感じる。相容れない「人」に対してなのかな〜とか」
「「夕焼け」は世界の側の象徴。自分たちは窓の内側にいる。」
「ひらがなにすることでリズムを担保する意図もありそうだけど、さらに、句にのせる漢字を厳選している感がある」
「「階段を上れば見える」を「頑張れば手に入る」と換言してみると、頑張れば見えるであろう景色は「ゆうやけ」のようにボンヤリとしか思い描けず、それを思うと脱力的になってしまうような……(意味不明)」
「しんせんな雪ばかりふるしんせんな ぼくらの淡いほろびのために」
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「おお〜淡麗な印象!」
「透明感のある退廃」
「谷川俊太郎が平仮名を使うとカマトトめいた幼さを感じるのだけど、岩倉さんが平仮名を使うとストイックに自分自身のイノセンスを守ろうとする強い意志を感じる。刺すような厳しさを感じる。」
「画数何画か以下の漢字しか採用しないって形にしていそう」
「「淡いほろび」というのは、どの作品にも結構一貫しているような要素であるように感じました……。脱力感や無力感の果てに、緩やかに訪れるバッドエンド……というか。」
「雪原の足跡ふいに途切れてる世界はつねに喪中であれば」
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「世界はつねに喪中であれば すき。人なんていなければいいって感じがする」
「毎日だれかは死んでるので毎日喪に服さなければ」
「風景の一部分をトリミングしたに過ぎないのに、それが世界全体、人類全体の問題に拡張されてしまう。」
「首を吊ったから、足跡がなくなったのかなぁ」
「観察者視点よね」
「作中主体は「ぼく」や「ぼくら」を遠くから見ているのかな。」
「人嫌いだけど、世界にしょうがないからいないといけない感すごい伝わってくるな」
「世界を滅ぼしたい、というよりも、すでに滅んでいる、と思いたい気持ちなのかな」
「滅ぼしたいというほどの憎しみとか気力は感じられませんね」
「コーヒーを飲むとき淀むまなこあり生き急ぐことすら叶わずに」
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「「淀む」はコーヒーが瞳孔に映ってるからかな。それとも俯いてるから角度的に淀んでいるように見えるのかな。」
「眠気覚ましにコーヒーを飲んでる…それでもぱっと目が覚めないまったりしてしまう感じ」
「アンニュイで無気力な状態って感じ。」
「世界との間接的な距離感にまどろみというか、遅延がある」
「カフェインが効かない。飲んでも覚醒できないっちゅう気怠さを感じますな」
「葉の動きみているときのしずけさの今朝からぼくはまぼろしである」
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「人を無化したい気持ちが激しい。激しい言葉は出てこないのに。」
「今朝だし、露っぽさがある」
「願望ではなく、断定形なんですね」
「露だとするなら、映ってるぼくが露が垂れて消えて」
「葉から零れ落ちる露に、「ぼく」が感情移入している。いや、体ごと移入するのか。」
「生命に対する漠然とした疎外感なのかなと感じた」
「IKKO出てきちゃう……」
「世界の何かをみている時に、みている対象に没入して、相対的に自己の存在が薄くなる感覚は共感できる。それのことを詠んでいるのかはわからないけど」
「雨の降りはじめた音が耳をうつ 末路といえばすべて末路だ」
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「今までのに比べるとあからさま感が激しく感じるのはなぜかなー」
「雨は地面に当たった時に音がしますもんね」
「「雨音」じゃなくてもいいんだと思う。いつでも自分を「終わらせる」ことができて、雨の降り始めはきっかけというか、こじつけというか。」
「諦めの切断面が綺麗すぎて、俗世に生きてる感じがしない」
「ドラマなんかでは、「雨の降り始め」は不吉な出来事の起こる兆しとして、一種の演出として使われる事が多い気がする。ここでは、その感覚を利用して、世界を不吉な予感で包もうとしている感じがする。」
「降り始めた、だから降った瞬間に末路を感じたのかな」
「雨を自覚するのは落ちた瞬間なように、どんな出来事もすべてなにかの末路なんだって」
「雨という水滴の末路を感じたのでは」
「衒いなく後ろ向き」
「結末は完結してる、蛇足みたい」
「雨が降ると静寂がおとずれる感覚と似てる気がする」
「ささいな出来事にも末路を感じてしまうメンタリティにもギョッとするぜ」
「走り出すそのとき影はずたずたにずたずたに土砂降りだ命は」
コメント
「これ、「土砂降り」は事実を描写したものか比喩なのか分からなかった。」
「命は壊れながら進んでいくのですね」
「ずたずたと雨の中を走る音がずたずたとシンクロした感覚」
「実際に走ってるわけでは無いのかな」
「全て脳内のイメージって感が強いね」
「岩倉文也になって日常を送れる気がしない」
「「命」が望んで受け取ったものではない感じがする(だから嫌というのではなく)」
「走っているのが土砂降りだったら、風景に自分の影が映る時、ズタズタに切り裂かれていく形になる。でも、その土砂降りを無理やり比喩の世界に押し込めようとしている感がある。「心が土砂降り」なら分かるけど、「命が土砂降り」は感覚として分からない……」
「岩倉さんだったら、自分の身体自体のことも「影」と表現し始めそうだから、ずたずたなのは文字通り影なのではなくて自分自身のこととも言えるのかもなと勘ぐってしまう」
「命はなだれくずれるものみたいなかんじでは」
「手のあぶらべたべた好きなひとたちが消えてゆくこの夜の海辺に」
コメント
「カップルが手を繋いでる光景ですね。べたべたしてる脂汗、作中主体は軽蔑してるように見える。それが絶命する事によって、初めて綺麗になる感じ。」
「痕跡か。チキン食べたのかと……」
「手繋ぐって素直に言えないあたりね、軽蔑感はあるかもですね」
「ベタベタすることを好む人たちが消えていくことにニヤッてしてるのかと」
「潮風もベタつくよね」
「はるのあさ よごれた雪をつかみとる僕らはいつもいつも祈りだ」
コメント
「両手で雪を掬う姿が祈りの形に見えるのかな、と思いました。」
「雪解けの大地に膝をついてる情景が見えますね」
「終わってしまったものを振り返っている感じ。「祈り=そうであってほしかった」という後悔を感じます。」
「人を人たらしめるものは祈り(願い)であるといかんじかも」
「逆に始まってしまうことへの哀しみなのかなと……」
「汚れた事を悲しんでいる気がしますね。長く生きれば生きるほど、新鮮な雪は汚れてしまう。」
「春先の雪の汚さったらないですもんね……」
「なるほど……始まる事への悲しみもあるか……」
「ここまでの諦めの果てに祈りがくると、異様な切実さを感じますね…」
「なんというか大人は汚いっていう中学生くらいの潔癖感的な厭世を保っている」
「若いゆえの綺麗さを感じた」
「「僕ら」が祈ってるんですよね。自分だけではなく。」
「まるで「生きることは汚いことで、死ぬことは美しいこと」なのではないか、と錯覚してしまうほどに、綺麗な「終わり」を描写しているものが多いような気がするなあ……」
「「生きること」=「生きるために必要な営み」があまり……というイメージ」
「雨とか雪とか天気が好きなんだなって思ったけど、人嫌いなのも世界にいるのも全部仕方ないことってあきらめてる感じがする」
「雪や雨が、数えきれないほど空から次々と落ちていくように、俯瞰して見ている存在からは、人の命も同じように淡々と終わっていってるのかなって。」