神の死の意味
ニーチェの用語。〈神は死んだ〉と説いたニーチェにとって,神の死とは単にキリスト教の超克ではなく,ニヒリズムの宣言でもあった。ニーチェによると生の本質は〈力への意志〉であり,力への意志はみずからを維持するために必要な世界解釈を行う。キリスト教は弱者が虚構した世界解釈である。優れた強者は自己を善とし弱者を劣悪とするが,畜群的な弱者はこの価値観を転倒させ,支配する強者を邪悪と規定してみずからを基準の位置に高め,正当化する。 現代とはどういう時代であろうか。かつてニーチェは、来るべき数世紀にむけての予言として「神の死」を告げた。神の死とは、われわれの人生を意味づける超越的根拠が無化し、その結果、いっさいの価値が相対化し、根底において無化することである。われわれは、みずからを支える絶対的根拠を欠いたまま、無の深淵の上にさしかけられている。このことは、他面、われわれが神的・超越的根拠のくびきから解放されることによって絶対的自由を獲得したことを意味する。この意味において我々には全てが許されている。しかしこの自由は全てが空しいという条件つきにおいてである。自由と不安(あるいは絶望)は、今日、相互に切り離しがたく結びついている。
神の死を告げるのは狂人であり、それを聞くのは「神の存在を信じていない人々」である。
君たちはあの狂人のことを聞かなかったか。白昼ランプに火をともして、市場に走って来ては、たえまなく「おれは神をさがしているんだ! おれは神をさがしているんだ!」と叫んだ男のことを。市場にはちょうど、神を信じていない人々が大勢集まっていたので、彼はたちまちひどい笑い者になった。ある者は「神さまが行方不明になったとでも言うのかい?」と言い、別の者は「神さまが子供みたいに迷子にでもなったのかい?」と言った。
(中略)
彼らは口々にわめき立てて、彼を嘲笑した。狂人は彼らの中に割って入り、あなのあくほど彼らを見据えて、叫んだ。「神がどこへ行ったかって? おれがおまえたちに教えてやろう! われわれが神を殺したんだ。おまえたちとおれがだ! われわれはみんな神殺しの犯人なんだ」(『悦ばしき知識』一二五) 「われわれ=近代人」と読むのが一般的な読み方。
しかし、永井均は「われわれ=キリスト教教徒」ではないか?としている。 また永井は、ここでの神はキリスト教の神だけを意味するのではなく、「それを超えた、むしろ神性一般の死の危機が叫ばれているのだと私は思う。」と書いている。
つまり、キリスト教徒が自らの神を作り出し、崇め、さらには信仰しなくなる過程で神性一般をも抹殺されてしまったのではないか、ということを永井は書いている。
では、神はなぜ死んだのか?
この問いに答える作業こそが道徳の系譜学である。この問いに答えるために、系譜学的探求によって怨恨感情(ルサンチマン)が発見された。 何がいったいキリスト教の神に打ち勝ったのか、もうおわかりだろう。キリスト教的道徳性そのもの、ますます厳しく解された誠実性の概念、あらゆる代価を支払って、学問的な良心へと、知的な潔癖さへと、翻訳され、純化されたキリスト教的良心の聴罪師的繊細さが、である。(『悦ばしき知識』三五七) つまり、「誠実さ」という徳はキリスト教に由来するのだが、キリスト教道徳はこの自己破壊的な道徳も育てて自らの基盤を破壊することになった。
キリスト教道徳によって育まれた誠実な真理への意志は、「これまで人生に意味を与えていたものが噓である」ことを宣言することによって人々を徹底的にニヒリズムを自覚させる。その結果、人生は無意味になり、生きる甲斐もなくなる。 しかし、それが正しいのだ。本当は無であるものを誠実に無と認めたということ、真実をごまかさずに直視し、真理を認識したということを、それは意味する。だからそれは、落胆すべきことでも恥ずべきことでもなく、悦ぶべきこと、誇るべきことなのだ。それこそが新しい福音の始まりなのである。こうしてキリスト教によって育てられた敬虔な無神論が生まれるという。──『これがニーチェだ』