生きてさえいればいい〜坂口安吾の思想?〜
2022/10/28
無頼派全員が上記タイトルのことを思っている説がある。以下は太宰治「ヴィヨンの妻」より。というより無頼的な人間の持つ考え方の当然の帰結なのかもしれない。
十日、二十日とお店にかよっているうちに、私には、椿屋にお酒を飲みに来ているお客さんがひとり残らず犯罪人ばかりだということに、気がついてまいりました。夫などはまだまだ、優しいほうだと思うようになりました。また、お店のお客さんばかりでなく、路を歩いている人みなが、何か必ずうしろ暗い罪をかくしているように思われて来ました。(中略) あんな上品そうな奥さんさえ、こんなことをたくらまなければならなくなっている世の中で、我が身にうしろ暗いところが一つもなくて生きて行くことは、不可能だと思いました。トランプの遊びのように、マイナスを全部あつめるとプラスに変わるということは、この世の道徳には起こり得ないことでしょうか。
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夫は、黙ってまた新聞に眼をそそぎ、
「やあ、また僕の悪口を書いている。エピキュリアンのにせ貴族だってさ。こいつは、当たっていない。神におびえるエピキュリアン、とでも言ったらよいのに。さっちゃん、ごらん、ここに僕のことを、人非人なんて書いていますよ。違うよねえ。僕は今だから言うけれども、去年の暮にね、ここから五千円持って出たのは、さっちゃんと坊やに、あのお金で久しぶりのいいお正月をさせたかったからです。人非人でないから、あんなことも仕出かすのです。」
私は格別うれしくもなく、 「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ。」
と言いました。
2022/05/17
坂口安吾の難解な思想の真髄は「堕落論」と「不良少年とキリスト」という自殺した太宰治を批判したエッセイと併せて考えると、やっぱり「どんな形であれ生き続けていればイイ」みたいな部分にあると思う。自分なりに理解しかけている。 生きることだけが、大事である、ということ。たったこれだけのことが、わかっていない。本当は、分るとか、分らんという問題じゃない。生きるか、死ぬか、二つしか、ありやせぬ。おまけに、死ぬ方は、たゞなくなるだけで、何もないだけのことじゃないか。生きてみせ、やりぬいてみせ、戦いぬいてみなければならぬ。いつでも、死ねる。そんな、つまらんことをやるな。いつでも出来ることなんか、やるもんじゃないよ。
死ぬ時は、たゞ無に帰するのみであるという、このツツマシイ人間のまことの義務に忠実でなければならぬ。私は、これを、人間の義務とみるのである。生きているだけが、人間で、あとは、たゞ白骨、否、無である。そして、ただ、生きることのみを知ることによって、正義、真実が、生れる。生と死を論ずる宗教だの哲学などに、正義も、真理もありはせぬ。あれは、オモチャだ。
2022/05/02
坂口安吾が堕落論・続堕落論で言いたかったのはこういうことではないか?という気がする。 一応いくつか引用しておこう。
若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋となる。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。(中略)
だが、堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間達の美しさも、泡沫のような虚しい幻影にすぎないという気持がする。(中略)
人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
まあよくわからんけどこれからもギリギリで生きていこう
それでは聴いてください。B'zの『ギリギリchop』uvoa.icon
おー懐かしい
https://youtu.be/wr7xTGTG-Mo
今見るとめちゃくちゃカッコいい
2022/03/26
自分の知り合いは病んでいる人しかいないけど、「とりあえず合法の範囲内ならどんな方法を使っても生きてさえいればいい」みたいな価値観の人が多くて、これも最近の自分の価値観の変革に大きな影響を与えているんだろうか。病んでいる人間は結局、そういう考えに至るものなのかもしれないけど。