王中江『簡帛文献からみる初期道家思想の新展開』メモ①
おもしろそうな感じで古本が安かったのでポチりました
比較的近年発掘された資料文献にもとづいて道家思想(老子とか荘子の思想で昔は人気があった)について分析してます 印象にのこったのは
・「道」(万物のはじまりとか摂理とかの意味をもつ重要な概念)の無為とか柔弱という性質が消極的な意味じゃなくて「弱い作用力」として宇宙や万物を活性化させるという説 ・「徳」は道が保護者としたら補助的な養育者のような役割をもっている ・「道法自然」という言葉があって普通は「道の本性は自然」とか解釈されるんだけど王氏によれば「道は万物の自然に従っていく」(道は万物の自発的な活動を尊重してよりそってあげる)と読んだ方がいいと主張している など
知らない資料や説がたくさんあって勉強になりまする
p30
このように、万物が「道」から獲得した可能性は、異なる理(「分理」)であり、異なる能力と材料(「気質」)であった。プラトンの「分有」の概念を借りれば、万物がそれぞれ異なるのは万物が「道」の異なる可能性を「分有」しているからといえる。ここでの「分有」には、プラトンがいう「現象」は実在せず虚無であるというような要素はない。そしてまた、ただ理念と形式を「分有」しているのでもない。キリスト教の「顕現」(Incarnation)とは異なり、道家の「道」は万物に散在しており、万物に分かれているのである。道が物を形成し、道がすべての事物を作るのである。そしてまたスピノザの神が自然の中に存在する「汎神論」とも違い、道家の思考回路は「道」が自然の中の「汎神論」の中に存在するのである。これが、道家のいうところの万物が内存と超越の思想であり、道家の理想と現実が互いにうまく溶け合っているという理論なのである。 ↓
スピノザの神が自然の中に存在する「汎神論」とも違い、道家の思考回路は「道」が自然の中の「汎神論」の中に存在する
ここが微妙な言い回しですね
道家では道がスピノザの神のような存在の仕方をしてるよっていう意味か、汎神論も自然(万物)の中の一部で、道はそこにも存在してるよっていう意味か
道はあらゆるものを内包しているのではなく、あらゆるものに内在している?
第一章 道法自然
・「道法自然」を「道はおのずからあるがままに従う(つまりなにからも自由に存在して活動する)」という解釈をするのは適切じゃないという筆者の意見
・なぜかというと、文法的な理由などからして疑問がある
・また自然という言葉は「万物」と「百姓(人々)」に関連して使われている例ばかりで、万物は道と、百姓は聖人と対比して語られる ・そして「無為」という言葉は道や聖人に関連して使われている
・だから解釈としては「道が万物の自然に従っている(道は万物の自発的な発展を見守り手助けしてやるだけで、積極的に干渉したりコントロールしたりはしない)」というべきだ
関係図
摂理 人間世
万物←道 百姓←聖人
↓ ↓ ↓ ↓
自然←無為 自然←無為
つづき